【ゆっくり解説】実在するヘンテコな城ランキング

にっぽんぽん【ゆっくり日本史解説】
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4 回視聴·2025/01/10
ゆっくりレイムと
ゆっくりマリサだぜ
お城っていいわねえ
私も一国一条の主になってみたいわ
おいおいレイム
城といってもどれもいい城ばかりではないぜ
中にはちょっと不思議な城も存在しているんだ
不思議な城?
なにそれ気になるわ
それじゃあ今回は実在する変てこな城を10回説するぜ
それじゃあゆっくりしていってね
小室城
まず最初に紹介するのは小室城だぜ
小室城は長野県小室市にある城跡なんだ
別名は水月城、穴城、白鶴城、鍋蓋城だぜ
な、鍋蓋?
変てこな別名を付けられてるわね
いいところに触れたなレイム
鍋蓋というのは城が定地に縄張りが施され
城下町から城内が丸見えになっていたことから付けられたんだ
じゅ、城下町から城内が丸見えてなんだか不思議な形になってるわね
つまり城下町の方が高地にあって
それに囲まれるような定地に建てられていたわけだ
一般に戦国時代の城は周囲よりも高い場所に築かれる山城や平山城が主流だったから
小室城はちょっと不思議な城ということになるぜ
なるほど、でもどうしてそんなところに建てたのかしら?
小室城の南側は火山灰でできた崩れやすい竹間川の断崖絶壁になっていて
東西も浅間山の地形が作り出した深い谷間があったんだ
谷間を空掘りとして利用することでわざわざ高地を利用することなく
定地のメリットを最大限に生かして城にした、といったイメージだな
な、なるほどねー
一応戦略ではあるってことね
明治時代に入ってから廃城が決定して
1880年には民間に払い下げられ
城内は開庫園として整備されたんだ
園内には動物園、児童遊園地、美術館、博物館などが入るようになり
客がたくさん入る、いい城跡になったみたいだぜ
まあ確かに、高地じゃなくて定地にあるってなると
入るのも簡単でしょうし
そういう活用方法ができるようになるって思うと
先のことを見据えた城だったのかもしれないわね
ちなみに、この城は1487年に大井三田田によって大改修され
城郭として整備されたんだが
戦国時代になり、武田信玄の軍師である山本勘助が新たに独自の縄張りを整備したのが
小室城の原型だと言われているぜ
じゃあ、武田氏が滅んだ後は徳川氏がもらった、と言われているな
まあそういうところは仕方ないかもしれないわね
辰岡城
続いて紹介するのは、辰岡城だぜ
辰岡城は、長野県作史にあった幕末期に追記された城だぜ
へえ、幕末時代のお城ね
実は辰岡城は、五宝星系の星型要塞になっているんだ
星型要塞?
それってもしかして、五稜郭みたいな?
お、いいところに気づいたな霊夢
そうなんだよ、実は五稜郭と同じなんだよここは
へえ、五稜郭と同じものが、長野にもあるだなんて
建てたのは三河の国奥土の藩の藩主である松平乗り方だ
松平は西洋軍学に精通していて、砲撃戦にすごく興味を持っていたらしい
その際、砲撃戦に対応できる地区情報を学んでいたらしくその結果
五角形で壁に囲まれた要塞を作ると
砲撃に耐えつつ、こちらから反撃もできる城ができると考え
星型の要塞を作ろう、と考えたみたいだぜ
へえ、確かに角がたくさんあれば、いろんな角度から攻撃できるもんね
とはいえ、五稜郭に比べるとその大きさはおよそ半分くらいなんだそうだけどな
あら、意外と小さいくらいなのかしら
ちなみに、この辰岡城は未完成だと言われているんだぜ
え?未完成?どうしてよ?
辰岡城ができたのは幕末期だろう?
幕末ということは、その後何が起きたかわかるか?
えっと、明治維新よね?
そう、明治時代に入ってしまったため、城の建築が進まなくなってしまったんだ
その結果、星型の五つの角のうち、二つが未完成になっているという
な、なるほど、せっかく作ってる途中だったのに、なんだか残念な気もするわねえ
まあ、辰岡城はその後廃城となるわけだが、その後は城内のほとんどが農地転用されたそうだぜ
未台所は農機具倉庫として使用され、1875年以降には、未台所は小学校校舎として活用されたんだそうだ
小学校校舎、戦いのために作ったお城が、子供たちの学びの場になるなんて、なかなかいいわねえ
ちなみにその学校も今はもう閉校となっていて、その後の以降は自由に見学可能になっているようだ
裏山には展望台が設けられていて、展望台からは星型の形状が確認できるみたいだ
一度も城としての機能を活用することはなかったわけだが、
まあ、その後の活用方法を見ている限りでは、城じゃない方が良かったのかもしれないな
そうね、何も戦うばかりがお城の役割じゃないもんね
木の城
続いて紹介するのは、木の城だぜ
鬼、鬼ヶ島?
落ち着け霊夢、木の城であって鬼ヶ島ではないぜ
とはいえ、木の城があるのは桃太郎で有名な岡山県草舎市なんだけどな
木の城山に築かれた日本の古代山城であり、今は廃城となっているが、城壁や祭門なんかが復元されているんだぜ
名前の時点ですでに面白いけど、まだ何か面白い要素があるのかしら?
ああ、木の城という名前は、この地に伝わる裏伝承に由来があると言われているんだ
裏伝承?
裏伝承というのは、虎井したくだらの王子である裏が、
密中の国、現在の岡山県西部の新居山に強化前、悪霊山脈の日々を送っていたというんだ
人々は裏を恐れて、彼の居城のことを木の城と呼んだという
そして最終的に、裏は主人天皇が派遣した機密彦の御事に退治されたという
その話、まるで桃太郎の王に退治みたいな話じゃない
あ、気が付いたか霊夢、そうなんだよ
そもそも桃太郎の話は、この裏伝承が元になっていると言われているんだぜ
へえ、知らなかったわ
ちなみにこれはあくまでも伝承であり、木の城の成り立ち自体は定かになっていない
一説によると、663年に伯スキノエの戦いに敗れた大和朝廷が
当白城連合軍の侵攻に備えて追跡した古代山城に準じる防衛施設の一つではないか
と言われているみたいだ
ふーん、てことはそれなりに強固なお城ってことかしら?
そうみたいだな
城壁の構造としては、一段一列に並べておいた劣跡の上に土を入れて、強固な土類としているようだ
さらに要所要所に頑丈かつ高い石垣を配置し、周囲2.8kmを城壁で囲んでいるようだぜ
おお、ただでさえ高所にあるのに頑丈ってなると、確かにかなり強そうなイメージを感じるわね
まあ、そんな頑丈な城も今は廃墟になっているし、現在は
四季折々の花や、多彩な生態系を構成する湿地や、豊かな自然環境を楽しめる
ウォーキングコースになっているみたいだぜ
自然環境を楽しみつつ、日本の伝統的な意向を楽しめるコースってわけだな
それは確かにちょっと面白そうね
ぜひ一度見に行ってみたいわ
山中城
続いて紹介するのは、山中城だぜ
明らかに山の中にあるお城、ていう漢字の名前ねえ
まあその通りだぜ
山中城は静岡県三島市にある城で、北条氏によって追記されたとされているぜ
え?山中城はどんな風に変てこなお城なのかしら?
ふふふ、この写真を見てくれ、霊夢
な、なにこれ、なんかワッフルみたいに格子状になってるみたいなんだけど
これが山中城の外観なんだ
え?どういうこと?
これは山中城にある空掘りと呼ばれるもので、落とし穴的な役割を持っているぜ
正式には複裂型障子掘りと呼ばれるものだそうだ
落とし穴って、あんまり深そうには見えないんだけど
別に深くまで掘る必要はないんだ
しかし、膝より上くらいの高さだと、落ちた時に登るのには一苦労するわけだし
その一苦労している間に攻撃すれば、十分アドバンテージが取れるってわけだ
な、なるほど、いろいろ考えられてるわね
北条氏といえば、豊臣秀吉に滅ぼされたわけなんだが
豊臣秀吉との関係が悪化した際には、とにかくあの豊臣秀吉を止めなければ
という気持ちでいっぱいになっていたはずだ
山中城は小田原城の西側を守るための重要拠点となっていたから
とにかく防衛力を徹底的に上げていたと考えられている
ってことは、このワッフル城のものも結構役に立っていたってことなのかしら?
ジグザグに歩けば、別に突破できちゃいそうな気がするけど
ジグザグに歩くのだって歩くという行為に意識が向いてしまうから
敵の攻撃を飼いくぐる、というのが難しくなるとは思うんだが
それ以上に、豊臣秀吉の軍力が圧倒的すぎたのが敗因だからな
どういうこと?
仮に、ワッフル城の堀に敵が落ちたとしても
それを倒す前にさらに敵がやってくる
なんなら、堀に落ちた敵を踏み台にして、どんどん敵がやってきてしまうだろうから
それを全て捌き切るというのは、流石に無理だったんじゃないかと思うぜ
な、なるほど
数の暴力って感じね
とはいえ、幅広の堀や峡壁上の小さな土塁など
平坦面の形成にこだわらない車などは
火器の集中配備、火力の有効発揮を前提に城が成立していることを示す特徴と言われていて
ここで絶対に豊臣秀吉軍を食い止める、という意志は感じさせるみたいだぜ
どんなに戦略を練ったとしても、豊臣秀吉には勝てなかったってことね
そんな凄まじい戦いの歴史があったと思うと、この城を残す価値は十分にあると言えるよな
武田氏館
続いて紹介するのは、武田氏館だぜ
武田氏館?今度はお城じゃないってこと?
いや、一応城としてカウントされているぜ
武田氏館は築地が先館とも言い、山梨県甲府市にある戦国期の城なんだ
武田という名前が付くだけあり、建てたのは武田信虎だぜ
で、このお城はどう変てこなのかしら?
この城は、内閣が石積みで仕切られていて、東車では政務を
中車は当主の生活空間として、西車は家族の住居に充てられていたんだ
生活空間?住居?
さらに館の周りには、政治的経済的機能を集中させるために
城下町や新たな自社、市場などが整備されていて
城下町の北側には家信団の屋敷、南側には小職人町が配置されていたというんだ
待って待ってマリサ、さっきから、お城と呼ぶには防衛力がなさすぎる気がするんだけど
あの武田家のお城にしては、ちょっと変じゃないかしら?
確かに、城と呼ぶにはあまりにも小さいから館と呼ばれているわけだが
これは武田信玄自身が立派な天守を持っていなかったことからもわかる
そもそも武田信玄の軍学書工業軍官から彼の戦略戦術が読み取れるんだ
どう読み取れるのよ?
この書によると、人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なりという信玄の言葉がある
これは、信頼関係で結ばれた人の集まりは、城や石垣、堀にもなる
また、人に城をかければ味方になるが、逆に不信感を与えれば敵になるという意味だぜ
ど、どういうこと?
つまり、武田信玄は勝敗の決め手は頑丈な城ではなく
家臣や農民との信頼関係で結ばれた人の力が重要で
逆に、城を頑丈にしても、人心が離れれば無意味になってしまうと考えていたんだ
なるほど、下手に頑丈にするんじゃなくて、地域密着型のお城にしたってことね
地域密着型って言っていいのかはよくわからないが、とにかく下手に総言にしようとは思わなかったんだな
ちなみに、武田氏が滅亡すると小田氏、豊臣氏、徳川氏がそれぞれ2回の国統治の拠点として再整備し
徳川氏時代には天守も築かれていたみたいだぜ
しかし、1590年に平井は地下余地によって交付城が追記されると
武田氏館は政治拠点としての役割を終えることになったんだ
ちなみに余談だが、この館後の調査で、一体の馬の全身骨格が出土しているぜ
う、馬?どうしたのかしら?
激しく死液された痕跡は見られず、おそらく常用場だったんだろうと考えられているぜ
武田氏の馬かはわからないが、何者かが大切に死液していた馬だったんだろうな
埋葬してるみたいだし、多分すごくいい人に飼われてたのね
鳥取城
続いて紹介するのは、鳥取城だぜ
もう名前からして、どこにあるかはわかるわね
一応流れ的にも伝えておくが、鳥取城は鳥取県鳥取市にある城だ
戦国時代から江戸時代の日本の城で、山梨、武田氏、天越、毛利氏の、争奪戦の舞台になったと考えられているぜ
それで、この鳥取城は一体何がヘンテコなのかしら?
鳥取城の面白いところは、やっぱり石垣だろうな
石垣が面白い?どういうことよ?
まあ霊夢、この形を見てみて欲しいんだ
な、何これ?なんかドーム状になってるんだけど
これが鳥取城の特徴だぜ
1900と呼ばれる、車のタンコブのような石垣になっているんだ
えー、これ本当に石垣なんだ
正式には、薪石垣と呼ばれるものだそうで、こうなったのは戦国時代ではないと言われている
どういうこと?何か糸があって作られたんじゃないの?
どうも江戸時代後期、1807年に石垣の崩壊を防ぐために、河川工事の専門家に石垣の修理を頼んだらしいんだ
その結果、石垣は普通の形ではなく、こんな感じで丸く仕上げてきたらしいんだな
何それ?一体どういう糸があって?
糸ばかりはわからないが、せっかく作ってもらったものをもう一度作り直せ
というのもあれだったろうし、これでも崩壊を防ぐという目的は達成できたろうから
特に困ることもなく、このままにしたんだろうな
なるほどねー
しかし、意外とこのヘンテコ石垣が結構なマニアから目を付けられたみたいでな
2014年6月、この石垣の石が抜き取られる事件が発生したんだ
えー?石垣の石が欲しい人なんているの?
ただのいたずらなのか、本当に石が欲しくて盗んだのかは定かではないが
とにかくこの丸い石垣の石がなくなったという話があって、ちょっと話題になったな
2011年に一度この石垣の修復をしたばかりなのに、その後わずか3年で盗まれてるわけだから
現地の人からしたらちょっと悲しいニュースだぜ
でも、それだけ周りから見ても面白い石垣だってことだから
そう考えると、あんまり悪いことでもないってことかしらね?
しりょうかく
続いて紹介するのは、しりょうかくだぜ
ちょっとちょっとマリサ、数を間違えてるじゃない
ごりょうかくでしょう?
いや間違ってない、しりょうかくというのが実在するんだよ
え?えー?しりょうかくっていうのがあるの?
しりょうかくは、函館戦争においてイゾ共和国が1869年にごりょうかくの北方に追記したものだ
しりょうかくという名前になっている通り、角の数は4つになっていて
とはいえ正方形ではなく、しかも辺の部分はちょっとくぼんでいて
その見た目はまるで蝶々のようになっているぜ
ほんとだ、こんなのがあったなんて知らなかったわ
一応防衛施設として作られたものではあるんだが
宝座があるわけではなく、あくまでも建てこもるための要塞として建てられたと考えられているな
あら、それじゃあ攻撃力はごりょうかくほどはないってことね
そうみたいだな
1869年5月11日の函館総攻撃でゴンゲンダイバと共に陥落している
ちなみに、構築自体は未完成のままだったと考えられているぜ
ええ?ここも未完成のままだったんだ
間に合わなかったのかしらね
特に函館戦争、というか母親戦争は国内最後の戦争だったし
戦争中に何かとバタバタしていたことが考えられている
防衛設備もその後どんどん作っていく予定だったろうし
新政府軍にそこから逆転するための戦略も何かと考えていたことだろう
その一つが資料格だったってことね
なんかそう考えると少し切なくもなるけど
まあ、戦争ってそういうもんだからな
ちなみに函館戦争の終結後は資料格は交配が進んでいたんだが
1934年1月22日に国の史跡に指定され
旧カメダ町によって1969年度から1972年度にかけて
奴隷の修復などの環境整備工事が実施されていったんだ
その後1990年から函館市による再整備が行われているみたいだぜ
へえ、五稜郭ばっかりが有名になってて全然知らなかったわ
5月になるとこの辺り一帯はスズランの花畑になるんだそうだ
それはそれは綺麗な景色になるみたいだから
五稜郭をもし見る機会があるなら
その足で北に向かえば資料格も一緒に見ることができるぜ
うーん、見てみたい気持ちはあるけど
北海道まで行くのはなかなか大変ね
せめてあったかい季節に行きたいわ
手里城
続いて紹介するのは手里城だぜ
手里城、確か沖縄にあるお城よね?
ああ、手里城があるのは沖縄県那覇市
かつて海外貿易の拠点だった那覇空港を見下ろす丘陵地にあった城の上司だ
一応日本の城ではあるが
面白いのはやっぱり日本では見られない朱塗りの建物だよな
そう言われればそうね
なんであれ、あんなに真っ赤なのかしら?
そもそも手里城は中国の城の影響を大きく受けているからな
もともとは悠久王国だった沖縄は
1429年から1879年までの約450年
沖縄本島を中心に周辺の離島を統治していった
中国大陸をはじめ
日本、東南アジア諸国と積極的な交易を行って
交易で輸入する南方文化の影響を受け
独自の文化を築き上げていったんだ
その独自の文化の現れが
あの赤色ってわけね
そういうことだぜ
城は内閣と外閣に分けられていて
内閣は15世紀初期
外閣は16世紀中期に完成したと言われている
手里城のもう一つ面白い特徴として
城ではあるものの
戦いに対する備えがない構造になっている
というものがあるぜ
えー?
お城なのに戦いに備えてないの?
城ってものが必ずも防衛や攻撃のための建物ではないからな
戦乱のない琉球王朝時代に再建されたものだからか
主に国王一家が居住する王宮として
また王国の行政機関本部や
王国祭祀を運営する宗教城の聖地
芸術文化の発信地としての役割を持っていたんだ
なるほどねー
防衛設備じゃなくて
文化的な建物だったってわけね
そういうことだぜ
悲しいことに
第二次世界大戦の
最終決戦沖縄戦で
消失してしまっているんだけどな
あーそうだったのね
1992年に沖縄の本土復帰20周年を記念して
聖殿を中心とする建築物群や城郭が
琉球王国時代の姿に復元されて
手里城公園として整備されたんだ
しかし
2019年10月31日に再び聖殿や北殿
南殿など7頭が消失してしまい
再び手里城は焼け野原になってしまったんだ
えー?どうしてもう一回燃えるなんてことが
それが手里城の火災原因は不明だと言われているんだぜ
何者かが火を放ったのか
もしくは自然発火なのか
絶対誰かが火を放ったんだと思うけど
疑わしきは罰せずって感じなのかしら
というか仮に誰かが火を放ったのが事実だとしても
その犯人は誰なのか
候補になるような人間もいないんだから
それに関しては何も言えないってわけだぜ
野島城
続いて紹介するのは野島城だぜ
野島?あんまり知らないかも
野島城は瀬戸内海のほぼ中央
牛島の南西に位置する無人島がそのまま城になっているんだぜ
えー?島そのものがお城になってるなんて最強じゃない
もともと城を作ったのは中西の村上水群という水群なんだが
この付近の海域は反戦時代瀬戸内海航路の最も重要な航路の一つだったんだ
そこで無人島に城を築くことで
この海域の正解権を獲得したってわけだな
それにしても島にお城を作るって発想はすごいわねー
まあ残念ながら戦国末期になると
村上水群は豊臣秀吉との戦いに参戦したものの敗北を起死し
1588年秀吉の海賊帝司令によって水群の歴史は終わってしまったんだけどな
ここでも豊臣秀吉がすごい強さを発揮しちゃったのね
その後野島城は廃城となって江戸時代以降は無人島となったんだ
しかしその城塞以降はそのまま保存されることとなり
1953年には野島城跡の名称で国の史跡となり
1973年に愛媛県教育委員会が野島水群の里を設置したんだそうだ
へえでもマリサそんな島にお城があるんじゃ
なかなかそこまで行くこともできないんじゃないかしら
ああしかし一応バスで島の目の前まで行くことはできて
そこまで行けば村上水群博物館に行くことができて
そこから野島城を周遊する観光船が出ているから
それに乗って島の周りを見ることはできるみたいだぜ
ってことはやっぱり島に入ること自体はできないってわけね
まあそれは流石にしょうがないな
島の周りは海流も激しいし個人で行くこともできない
というか無人島に許可なく勝手に入ったら犯罪になってしまうからな
でもせっかくお城があるって言うなら見てみたくもなるじゃない
まあでも観光船から見る島の景色もかなり綺麗みたいだから
もし本当に興味があるなら観光船から見るだけでも
十分楽しめるんじゃないかと思うぜ
五陵角
さて最後に紹介するのは五陵角だぜ
おお最後に登場するのが五陵角なのね
四陵角の時に多少触れたが五陵角は北海道函館にある要塞だ
1853年ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航した際
翌年に江戸幕府とアメリカの間で日米和親条約が締結されて
下田と函館の二港が開港されることになったんだ
その際に函館に来航する外国船に対応できる防衛施設が必要となって
十三代将軍である徳川家貞の命によって
1857年に五陵角建造の工事が開始されたんだぜ
あごめんなさい私てっきり母親戦争の時に作られたのかと
全然違うんだよなー
ていうか戦争起きてからじゃ蓄造が間に合わないぜ
設計には洋式軍学者の武田綾三郎が担当することになったんだが
彼は函館に来航したフランス軍艦の軍人から
ヨーロッパの追記術を学んだらしい
ほうヨーロッパの追記術?
当時のヨーロッパでは大砲などの大型火器を使った戦闘が中心だったため
その防衛に応じた土木技術を持っていてそれを伝える書籍から
武田は設計図や図面を写し取って西洋式追記術を学んだそうだぜ
うっ写し取りまでするなんて
よっぽど本気だったのね
つまり五両角は日本初のフランス方式の星型要塞になったというわけだ
だからとにかくすごいって言われてるのね
上角本体から長く突き出した両方と呼ばれる角を持つ部分は
敵に対して視覚を持たないのが最大の特徴だと言われている
さらにシールドの役割を持っていてかつ攻撃面も強く
十字砲火など他方向からの射撃を浴びせかけることが可能だったというんだ
すごいわねー
かなり強かったんじゃないかしら
1864年に完成したわけだが
その3年後に徳川義信が大政奉還を行い
徳川幕府は消滅してしまう
それによって五両角も新明治政府に引き渡されることになった
うーんせっかく作ったばっかりなのにそんな結果になるなんてねー
でもちょっと待って母親戦争が起きるのよね
ああだから1868年に榎本武昭率いる旧幕府軍が北海道へ移動し
五両角を拠点として新政府軍と戦う準備を始めていったんだ
せっかく作った五両角使わない手はないって感じだったのかしらね
そうかもしれないな
そして新政府軍もそれを許さず母親戦争が勃発する
確かに五両角は南高不落の要塞としてすさまじい性能を誇っていたものの
本土が制圧されているも同然だし
圧倒的に物資が不足していた状況だったこともあり
旧幕府軍は新政府軍に降伏し
約7ヶ月に及んだ函館戦争は終結したぜ
まあいろいろあったけど今は五両角も平和になってるのよね
ああ五両角タワーなんてものが建設されていたり
五両角の歴史が学べる展示スペース五両角歴史回廊なんてものも作られて
五両角はいい感じの観光スポットとなっているみたいだぜ
どこのお城も最終的に行き着くのはやっぱり観光スポットってことみたいね
ということで今回の解説はここまでだぜ
次回もぜひ見てくれよな
チャンネル登録高評価もよろしくね
ご視聴ありがとうございました
