【ゆっくり解説】木曾義仲はなぜ敗北してしまったのか

にっぽんぽん【ゆっくり日本史解説】
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歴史は何のために学ぶのか。この疑問を持ったことがある方は少なくないでしょう。仕事では直接使うことはほとんどないですよね。
過去を学ぶことで未来に活かせると私は考えています。教養という意味でも社会で必要な知識でしょう。
先人たちはどのような暮らしでなぜそのような文化が形成されたのか。面白いことばかりです。
こういった考えから、このチャンネルでは社会人の方が、ゆっくり楽しく歴史上の偉人のことを学べ、更に、そこから日常でも役立てられるような動画を作っています。
このチャンネルを通して学び、役立てられる人が1人でも多くなるようにチャンネル運営を頑張っていきます。応援してもらえると嬉しいです。
ほぼ毎日17時に動画を配信中 にっぽんぽん 運営 山本陽太
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#ゆっくり #ゆっくり日本史 #ゆっくり解説
ゆっくり霊夢とゆっくり魔理沙だぜクソ
吉中って強いけどなんだか野生児な
イメージがあるわよね確かにそういうのは
あるかもなでもそれは作られたイメージの
可能性があるそうなのそのイメージは基礎
吉中が敗北したことにも関係するかもしれ
ないぜそれなら今日は基礎吉中はなぜ敗北
してしまったのかについて解説していこう
それじゃあゆっっくりしていってね基礎
吉中とは吉中は源のよ友や源のよつの従に
当たる人物で11年に関東の武蔵の国秩父
で誕生した父は本の義方といい源のよ友の
父本の義友の弟にあたるしかし部下の不
始末により職を辞すことになった皆本の
吉方は武蔵の国へ行くことになったそれは
吉中の祖父で現時の統領源ためよの考えに
よるものでもあったどういうこと京都は
兵士が力をつけてきているところで新たな
勢力権として関東の豪族との結びつきを
画策していたそこで皆本の吉方は武蔵国
秩父の父に向こ入りしその娘との間に
生まれたのが吉中だった平気に近づこうと
したわけねだが父み元の吉方は1153年
に同じく関東で勢力を広げつつあった兄本
の良とに命を奪われてしまうこの時まだ
幼少だった吉中は母と共にシナノの国へと
逃れた兄弟で殺し合うことになっちゃった
のねシナノの国では吉中の母と知り合い
だった豪族でシの国府の長官だった権の神
を務める中原金党によってされることに
なるしなのは守ってくれたのかまた吉中の
名前はこの時本せいではなく基礎次郎と
名乗ったことから始まったとされている
そして中原金と息子で後に吉中の家臣と
なる今金平と樋口金光とは兄弟同然のよう
な関係で育ったえ幼馴染みが後の家臣に
なるのねそして根のい幸地か立地方だと
呼ばれる家臣とも品のの国で出会うこの4
人は基礎吉中天皇と呼ばれるまでに成長し
吉中とは硬い絆で結ばれ最後まで中性を
尽くした後に女部将とも呼ばれる吉中の
めかけとえ午前も中原金との娘だったと
伝わる人物だそうそう吉中といえば朋午前
も外せないわよねただ基礎吉中四天皇は区
上金が当時のことを書いた日記玉王や鎌倉
幕府の歴史書東鏡にも登場するが朋午前は
そのどちらにも登場しない平気物語にしか
出てこないんだそれじゃあ兵物語は歴史的
資料というよりも作物語としての位置付け
にあるため朋後前が実在したかどうかは
判断が難しいと言われているそんなそんな
吉中が少年から青年へと成長する最中にも
正極は大きく変動していく1156年の
方言の乱の内乱で祖父本のためよと叔父本
の吉友が対立した結果祖父本のためよが
負け命を落とす今度はソフとおじさんが
争ったのかそして1159年の平二の欄で
は兵士と対立した源の吉友が負け命を
落としたこの時源の友は伊豆の国へ入る
その弟源の吉は血だったため湿気すること
を義務付けられている後に撤退するよ友と
よつも結構悲惨よね兵士を倒すがその頃
1180年に持が兵士打を呼びかける領事
を発したこの持とは後川法王の大三王子だ
父後川法王の遊や自身の領地没収など兵士
の領平の清の応募に耐えかね源のよ兵を
決意する兵打当を目指すわけねそのため
吉中の元の幸家が全国の原子の元を尋ね
挙兵を促す伊豆の国に入るとなった源の
よりともそして吉中の元にも源の幸家は
訪れた源家は全国に散らばってるんだもの
ねそして1180年の5月に持仁王は源の
正と京都へ向かったがあえなく兵士に
打ち取られてしまう同時に伊豆の国で挙兵
した源のよりとも命を落とすことこそ
なかったが石橋山の戦いで兵士の軍勢に
敗北してしまう吉中はどうしてたの実は
挙兵するかどうかを迷っていた吉中だが
1180年の9月に兵士と手を組んだ笠原
氏が長野県全校時代らを領地としていた
栗田と村山市に襲いかかる援軍を求められ
た吉中はついに決心して戦に赴いた自分の
許しなのにまで迫ってるものねこの戦が
きっかけとなり吉中わなのの国全域の武士
団を配下に納め勢力を固めたさらに父元の
吉方にに使えていた家臣たちもその活躍
ぶりを聞き吉中の元に駆けつけ軍の勢いは
増大するおみんな吉中に期待したのか
1180年の10月には敗北から体制を
立て直した源のよ友が藤川の戦いで兵士の
軍勢に勝利したさらに翌年の1181年に
吉中の勢力拡大に危機官を募らせた兵士は
越後の国から越後兵士上司を派兵しそして
吉中に1度負けた笠原ししなのの国に攻め
いるよりともさらに巨しているのねそして
6月に横田原で激突する兵士側は6万
対する吉中はその半分以下の軍勢だったが
見事に横田原活線でも勝利を納めた戦上手
ね吉中は越後の国から北陸道へ進み現在の
富山県朝日町に逃れていた持仁王の維持
北陸宮を保護する吉中は心ざし半場で打た
れた持仁王の石を叶えるため北陸の宮天皇
につけようと考えたわけだ持ひ王の石を
組んであげたかったのね吉中の元には源の
よ友と中した叔父田義弘と源の雪家神を
寄せていた源の寄り友は叔父2人が吉中を
頼ったことを心よく思っておらず加えて
勢力を拡大しつつある吉中のことを危険し
していたよりとにも思惑があったのかもね
そんな時によりとか吉中かどちらの側に
着くか迷っていた海源子の武田が息子を
向こ入りさせるよう吉中に要求してくる
これを断った吉中に腹を立てた竹田はより
共に着くことを決めあろうことか吉中は
兵士に通じて息子を向こ入りさせようとし
ていると言したえ源のより友はこの嘘を
信じたわけではないが吉中に対して
攻め入る口述ができたとばかりに1183
年3月シナノの国に軍勢を差し向けた吉中
は本来は兵士を倒すべきで同じ現時同士で
争う理由はないと考えていたため軍勢を
まとめて領地としていた越後の国へと
下がる吉中の考えは分かるわ現時同士で
争ってもねこの行動に驚いた源のよりとは
戦う意がないというならば敵対した叔父
2人を引き渡すかもしくは着なを人質に
差し出すかして証明して欲しいと死者を
出した叔父2人を引き渡すと考えていた源
のより友は吉中の行動にさらに驚かされる
ことになる何をしたのこの時吉中が
差し出したのは着南基礎吉孝だったんだ源
の寄り友の本拠地である鎌倉に基礎吉孝を
送ることで互いの武力衝突を回避し輪を
成立されるその後基礎吉孝は源のより友の
娘大姫の向ことなった着なを人質になんて
危険すぎない重要な後継である基吉孝を
人質としたのには理由があった叔父の田
義弘と源の雪家を引き渡してしまえば源の
より友の怒りを買っていた2人は命を奪わ
れてしまうしかし着な基礎よたかならば源
のよりともも定長に扱うだろうと考えての
行動だった重要度の高い人じゃないと逆に
危険だったわけね吉中は人が無駄に命を
落とすことを良しとせず1度懐に入れれば
最後まで守り通す上の深さを持っていた証
とも言えるなそうね部下思い出もあるわね
そしてシナノの国から北陸を支配していた
吉中を打つべく1183年4月に京都から
平の清盛の孫平の森が10万の大軍を連れ
て出陣した平の小森は加の国で反兵士勢力
が立てこもる日内場の落城に成功する兵士
側の勝利によって吉中は越中の国まで一旦
交代した兵川もしぶいわねは別動体として
向かってきている兵士側5000人の動き
を知ると家臣の今金平に6000の兵を
任せ兵士が野営しているハニアノに奇襲を
かけるそしてこの半野の戦いに勝利した
奇襲か策略かねそして配送する兵士を都山
の栗から峠と追い込んだ兵士の軍は舞台を
一旦のの国塩山に交代させ平の道守平の友
引き3万の兵を配置する都山の栗から峠に
は平の森平の幸森平のただのリラの引き
7万の兵に分かれて陣を敷いた栗から峠の
戦いね聞いたことあるわ5月11日になっ
て吉中はお元の幸家家臣立地の平押山へ
吉中引きい本体は都山へ向かう昼は戦を
起こさず過ごして兵士軍の油断を誘うと
その間に家臣樋口金光の一体を密かに兵士
軍の背後に回り込ませたこちらも奇襲作戦
かそして兵士軍が寝静まった夜一気に
攻め込むしかし攻め込んだのは人ではなく
角に松明を括り付けた牛の大群だった一説
によるとその数は400から500等とも
言われているすごい数ね暴れクル牛たちの
突然の従来に兵士軍は大混乱に陥り
逃げ惑うことしかできない7万の兵士軍は
我先に逃げ出そうとするがその混乱に生じ
て吉中本体は果敢に攻めかかる追手を
かわそうと逃げる兵士の行先には栗から峠
の段階が待ち受けていた前には牛後ろには
段階絶壁かを立たれた兵士の武将や兵たち
は次々に崖下へと転落し峠の下には死者の
山が積み重なったと伝わるそうした歴史的
背景からこの崖には地獄谷という名称が
つけられたけだがこの牛の角に松明を
括り付ける奇襲戦法比牛の系に関する逸話
は江戸時代に書かれた軍旗物語原平整水器
に登場する有名な一場面ではあるが構成に
書かれたこともあり事実かどうかは疑問し
されているえこっちも捜索かもしれないの
また戦術的に牛の頭に松明を取り付ける
ことが困難んだしなでもまあいずれにして
も栗から峠の戦いによって兵士側に大損害
を与えたことは間違いないまあね吉中が
強かったのには変わらないわね栗から峠の
戦いで兵士を破った吉中は北陸道周りから
京都へ神軍そして京都の最後の砦である
遠慮時を交渉で突破し1183年の7月末
に入居を果たしたついに京都入りねごかは
鳳凰との対立この時すでに京で派遣を握っ
ていた平の清盛はなくなりその三南平の胸
森が兵士の糖量となっていた迫ってくる
吉中の軍勢から逃れるため平の胸はゴ川
法王とその孫安徳天皇を連れて最後へ
逃げることを計画するいよいよ兵の滅亡が
近づいてるわねこの時後川法王は平の胸と
別行動を取り京都から落ち延び後に吉中に
保護されている後川法王は安徳天皇を
連れ去り皇室にとって重要な3種の神義
まで持ちた兵士を逆賊として吉中に兵士
追悼を命令した平の胸盛を裏切ったのか
そして新たな天皇を決めることを急務と
するしかしこの行為継承問題が吉中とゴは
法王の関係を最悪な形に変えてしまった
問題の1つだどうして吉中は次期天皇には
持人王の維持である北陸宮がふさわしいと
考えていた現時が拒否できたのは仁王の
領事があったからで京都兵士から救った
最大の厚労者である持仁王の子が次の天皇
になるのが当然だと主張したわけだそれは
ずっと初めから主張しているわね対する
後川法王は孫安徳天皇の弟となる第4王子
を即位させるつもりでいたさらにゴは法王
だけでなく周りの釘たちも反対するむしろ
吉中が貢献人となる王子を定位につければ
兵士の次は吉中の先生が始まると危惧して
いたうん心配するのは分かるけど実際に平
の木森が高倉天皇に娘を手代させその間に
生まれたのが安徳天皇だこれをきっかけに
平の木森は外積として政治を思うままに
操るようになったわけだからなそうか兵士
の時の失敗があるから慎重になったのね
吉中の希望は届かず1183年8月20日
に第4王子が後葉天皇として即位する
そして後川法王は京都まで一緒に戦ってき
た本の幸家など吉中の仲間たちを次々と
取り込み吉中を孤立させた吉中の権力を
そごうとしたわけねさらに最へ兵に向かっ
ている最中に源のより友の軍門である源の
吉の上陸を許可してしまう後川法王として
はあまり有効的な関係になれなかった吉中
を切り捨てて意見を聞いてくれる可能性の
ある源のよりともを仲間に迎えようとした
わけだごかは法王ひどいわしかし鉱石の
ある自身よりも源のよりとを重宝しようと
することを吉中は許すことはできなかった
度重なるゴ川法王からの扱いに不審感を
募らせた吉中は最後から引き返しゴは法王
を打つためその五所である放銃寺殿を襲撃
するまあ吉中の気持ちは分かるわね吉中が
放銃寺殿に到着する頃には周辺は堀や柵が
巡らされ武装化した草平や所掌に守られて
いたすでにゴシ川法王は吉中の動きを呼ん
でいたんだ恨まれることは知ってたわけね
この時ゴシは法王に歯強的になることを
恐れ今まで従っていた兵の中には吉中の軍
を離れていくものもいたと言われている
どんどん吉中の兵が減るじゃないそのため
兵の数は後川法王の方が勝っていたが吉中
の元にはシナノの国にいた頃から従ってき
た信頼のオル家臣今金平や樋口金がいた
奮戦する吉中軍は後川法王側の主力部隊で
あった身の原子の三永と時光常節を撃破
するそれでも勝ったとは戦況が悪いと見た
後川法王は襲撃の最中故障脱出しようとし
たところ吉中軍によって捕獲され接しこの
元道の5条東のに幽されるそして後川法王
に味方した兵や初生羅も戦死し放銃寺殿は
燃やされた後川法王なんかダサいわねゴ川
法王の敗北で終わった放銃寺合戦により
吉中とゴ川法王の関係はより修復不可能な
ものとなってしまうまそりゃそうでしょう
ね吉中はさすがにゴシは法王の命を取る
ことはなかったが1183年11月21日
に後川法王の聴診であり清勝のこの獲も道
を失客さたそして代わりに松戸の諸井へを
接しに就任させる吉中は松戸の諸井への娘
を性質に迎えるなど進行があったんだまた
狙われちゃたまらないものねその他ゴシは
法王の側近を底の感触から解任するさらに
同年に吉中は艇ギレや真事に用いる馬の
管理をする部署の長官である陰山の別当に
就任したそして翌年の1184年1月11
日に吉中は現時で初となる誠意対象軍に
就任する王か現時初の誠意対象軍かと言っ
ても吉中の場合は就任から約1年後に命を
落としているからほとんど名前だけの役職
だったと言えるなちなみに近年の研究では
政党対象軍であったことが明らかになって
いるまあ幕府を開くまでの期間もなかった
ものねその頃源のよ友は幽閉された後川
法王を救うため軍勢を京都へ向かわせてい
た1184年に本の義と本の典よが京都の
う世夫人士側から京都へ攻め込まれ内側の
戦いが回線する結局源同士であらそうのね
兵物語によればその数は6万期対する吉中
軍は200期ほどだほぼ勝ち目はなく
少ない手勢で京都を出した吉中軍は琵琶の
ほりにたどり着く頃に渡ったの七木となっ
ていた七木七木の中には兄弟同然に育った
福神の今井金平女性ながら武将として共に
戦った相性とえ御前がいた逃がすなら今
しかないと判断した吉中はとえ午前に
向かって最後まで女を連れていたなどと
知られるのはいい気がしないここから去っ
て私の母体をとってほしいと告げたとある
長い間つきしたがったとえ午前に冷たく
ないそうも思えるが生きて帰ってほしいと
いう吉中の願いが見える場面でもあるとえ
午前はこれが根性の別れとなるのならとえ
の最後の戦いをお見せしましょうといい
向かってくるむしに突進し相手の首をねじ
切るという豪快な技を繰り出したとされる
かっこいいわねぜひ実在してて欲しい人物
だわそしてそのまま振り向くことなく戦場
を後にした当時の戦場を物語る生産な場面
だが朋午前の屈強さと未来に進もうとする
強さがうまく表現されているよなそうよね
生き残るつもりだったのよね朋午前と別れ
合わずにたどり着いた頃軍勢はご気にまで
減っていた吉中と家臣の今井金平手塚別
手塚太郎田家かの5人だそして皆戦ううち
に打ち取られ最後は吉中と今井金平の2人
となっしまう最後まで突き従う幼馴染みも
切ないわついに吉中も敵の矢にいられ命を
落としてしまうとそれを見届けた今金平も
後を多よに自害を遂げたこうして吉中は
31歳の短い障害だが短くとも壮絶な障害
を全頭したあっという間の人生だったわね
どうして吉中軍は今日で暴れたのか吉中
たちがごかは法王に嫌われた理由として
吉中の配下たちが今日で暴れてどうにも
ならなかったからだというものがある
そうそう本当はどうだったの1183年7
月吉中は叔父の本の雪イと共に入居を
果たした当初ゴは法王やを始め京都の人々
は吉中の入居を大歓迎したというのも平気
の応募に兵役としていたから吉中への期待
は大きかったしかし吉中には全と多な難題
が待ち構えていた問題吉中は多くの軍勢を
引き連れて都に入ったこれが大問題を
引き起こしたというのも当時は基金に伴う
共作だったからだ京都への地方からの年
搬送も中断していたうわタイミングが悪い
わねすでに都にいた兵家も食料の準備に
苦労していた結果統制が困難になった兵家
の兵は畑から食物を無断で刈り取り人々
から食料を強奪するなどもはや
コントロールが効かなくなっていたこれも
兵が嫌われた原因だったなるほど嫌われる
のにも理由があったのねそのような混乱し
た状況の中で吉中は都に入っただから事情
は良くなっていなかったので吉中配下の兵
は兵の兵と同じく食料の強奪に出るという
暴挙に出るのは時間の問題だったどうにか
食料は用意できなかったの吉中が食料の
確保に期待できたのは北陸道と山陰道だけ
だ東海倒産領土は源のよりともに支配され
ていて西国方面は平気が抑えていたからだ
しかしいずれにしても基金により食料の
確保が期待できなかったそうか念も来ない
くらいだものねと雪家の翔平は機内金国の
作物を無断で刈り取るなどとんでもない
暴挙に出たたまたま少年から年が京都に
運送されると強奪する有様だったそうだ
さらに京都の人々が次々と捉えられるなど
治安も悪化したそりゃ良くないわ頂tem
は吉中に対して背かの翔平の強奪をやめ
させるよう命じたが吉中でもアレクルー
翔平のコントロールは困難だったんだこう
して吉中は頂自社京都の人々の人望を失っ
ていった兵士と同じになったのね吉中が
調定などから指示を失う中巧みな政治的
戦略でゴは法王に急接近したのがよ友だよ
友が上陸を匂わせたので調定は大いに期待
した今度はよ友に期待するわけか一方の
吉中は焦るもののなかなか思い通りに行か
なかったなんせゴシ川法王は日本一の大
天狗と称された策略家だったから吉中を
手玉に取ることは簡単だったんだな本当ね
まさに天狗だわだからゴは法王は吉中を盛
に挑発し叔父の雪家との中を悪化させよう
としたやがて後川と吉中の関係は険悪と
なり対立も激化した京都における吉中の
立場は悪くなる一方だったわけだ食料と
ゴシは法王と両方と戦わなくちゃいけない
わけねこうして吉中は追い詰められついに
暴挙に出ることとなってしまう吉中は武勇
に優れていたが食料の確保に苦しんだ時期
が悪かったと言えばそうだけど運がなかっ
たのかもねなぜごかは法王に嫌われたのか
吉中のイメージは礼儀や作法を知らず
荒々しく本法な男といったものが多いその
ためよりともより先に今日に登ったにも
関わらずゴシは法王や釘たちと剃りが合わ
ず最終的に没落に追い込まれてしまったと
いうのがよく言われている釘の敷たりを
知らなかったとか言うわよねそもそも吉中
が田舎ものゆえ今日の人々の品質を買った
というのは平気物語の記述によるものだ
その中には吉中の立ち振る舞いの無骨さ話
ぶりは洗練されてない2歳から30歳に
なるまで基の山里で暮らしたのだから
しょうがないことだとあるまた平気物語か
兵家物語はその具体的な例として吉中の元
奥の藤原の三貴こと猫間三貴が訪ねた時
吉中にグロされた逸話を紹介している
どんなの猫間とは屋敷の置かれた地名で
藤原の三貴は猫間中名言と呼ばれていた
そうだ吉中はこの猫間という名乗りを面白
がり好意の釘である三貴猫殿猫殿と呼んだ
可愛いけど三貴は気分悪かっただろうな
さらに昼時だから吉中は猫殿を渦高く盛ら
れた飯や平たの汁などでもてなしたしかし
当時の都の釘は朝と夜のに食が常識だった
ので三鷹は戸惑ってしまうしかし基育ちの
吉中は一向に気にせずに食べるように促し
た食事の回数が決まっている釘が驚きだわ
しかし食事の湾が汚いことに躊躇した三鷹
が橋をつけずにいると吉中は猫殿は少食か
残しをしている遠慮せずに食べろなどと
さらに進めてきたそのため三貴は迫撃して
体積したというものだなるほどねもう1つ
ある因の五所に向かう吉中が腰をかめて
後ろから実車に乗り込んだ目的地についた
吉中は乗車寺と同じく後ろから降りようと
したこれを見ていた周囲のものが吉中を
止める実者は後ろから乗り前から降りる
ものですというわけだそれも決まりだった
わけね恥を欠かされれた吉中だが全く胃に
返さずいくら実車でも素通りはブレイで
あろうと言って後ろから飛び降りたどう
いうこと実車に乗る時は実車をバックさせ
て建物の縁側に密着させ縁側から直接
乗り込むそして降りる時は実車を引いてい
た牛を取り外し前方に傾斜した実車の前
から降りるようになっているんだ構造の
問題なわけねだがこうした吉中の武法ブり
はあくまでも平気物語だけのものだから
全てが事実とは限らないむしろ吉中を武法
も田舎者として描こうという意思が感じ
られるじゃあ実際の吉中はどのような人物
だったの中性における土地の領主は釘で
あれけであれその上の権力に土地の領有を
認められることによって経済基盤を確保し
ていたつまりその土地の領有を保障される
ことによって土地から上がる税収を得る
ことが正当化されたわけだそうね逆に言え
ば土地の所有を保障することができるのが
公権力としての資格だった力のない権力者
がいくら土地をアドしてくれてもさらなる
実力者が横やりを入れれば守りようがない
相手も恐れいって手を引くくらいの力が
あるものが権力者だったわけねしなので兵
を上げた吉中は兵士方との戦いに連戦連勝
すると同時に勢力権を広げその土地の豪族
武たちが配下に加わる吉中は彼らの土地を
保証してその生活と収入を保証することで
彼らの指示を取り付け彼らを自らの軍事力
として加えた働きに必ず報いるって保証ね
それまでは兵家が政権を握っていたから
賊軍だった吉中は京都に入ると様の神イの
神という簡易を得て官軍の地位となる皇族
側の権力になるわけねつまり貢献力の側に
なった吉中は兵家から没収した土地を地方
の領主に保証するということも行っている
武力に物を言わせて土地を保障するだけで
なく調定と直結する権力としての振る舞い
を始めていたわけだそれはあったわね
さらに吉中は後川法王はもちろん八条員
松戸の員といった調定の実力者権威に接近
し彼らの権威を自らの権力などに積極的に
利用していた今野調定のやり方に無無関心
だったとするイメージとはかなり違ってい
たようだなしっかり釘も利用してたわけね
一方でこの新たな権力の登場は別の波紋を
読んだ元々京都周辺を支配していた貴族や
調定に使える武士たちは兵家の権力に対抗
するために一旦は吉中と連携したふふ
しかしやがて彼らが頂から受ける音象にも
吉中が口を挟むことで彼らを自分の配下と
して従えようという吉中の動きに反発する
ようになるなるほどそれは反感を買うかも
ねやがて平気伊東のために最極に出陣した
吉中だったが戦火も乏しく起きすることに
なったそして1822年11月より友の
対等を見越して吉中を見ろとするゴ川法王
と決裂した決定的に仲が悪くなったのよね
後川と吉中の対立を決定的にしたのは行為
継承問題だったと指摘されている行為継承
はは天皇家の課長た後川法王が決めるべき
ことだったから後川法王は吉中の政治的な
野望に激怒したと言われているうんでも
人王の石を継ぎたい吉中の気持ちも分かる
のよねゴ川を押し込めた吉中は兵家から
没収した量だけでなくゴシ川法王に使える
家臣や石間家の諸量も没収して一方でゴシ
川に共用して政党大将軍因護少まや別当と
いった軍事を専門とする交換の感触につき
その権威で新たな政権を作りより共に対抗
しようとしたそうねゴシは法王を制圧して
おきながら一方で法王によってもたらさ
れる権威にするという吉中の対応は
ちぐはぐだだから機内あたりを支配する
貴族や今日の武者らはよ友が派遣した源の
ノりより吉軍にすでになびいていた吉中の
敗北はこの時点で決定していたんだな
なるほどそれこそ自分の力だけで権力者に
ならなきゃいけなかったのかもね吉中が
今野調定の作法を知らずに批判されたのは
ある程度は事実だったのかもしれない
しかしそれでゴシ川やから嫌われて没落し
たとするのはあまりに表面的な見方で
もっと深い理由があるんだろう本当だわ
吉中はもっと親な人だったのかもね少なく
ともそやで乱暴で何も知らない人物では
ないよなそうねこれから吉中のイメージが
変わりそうよということで今回の解説は
ここまでだぜ次回も是非見てくれよな
チャンネル登録高評価もよろしくねご視聴
ありがとうございましたA
