【ゆっくり解説】新撰組はなぜ壊滅したのか...

にっぽんぽん【ゆっくり日本史解説】
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歴史は何のために学ぶのか。この疑問を持ったことがある方は少なくないでしょう。仕事では直接使うことはほとんどないですよね。
過去を学ぶことで未来に活かせると私は考えています。教養という意味でも社会で必要な知識でしょう。
先人たちはどのような暮らしでなぜそのような文化が形成されたのか。面白いことばかりです。
こういった考えから、このチャンネルでは社会人の方が、ゆっくり楽しく歴史上の偉人のことを学べ、更に、そこから日常でも役立てられるような動画を作っています。
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ほぼ毎日17時に動画を配信中 にっぽんぽん 運営 山本陽太
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#ゆっくり #ゆっくり日本史 #ゆっくり解説
ゆっくり魔理沙だぜ。
尊王上位とは、朝廷と天皇に対して忠説を説く思想尊王と、異、つまり異人のことを排除することを指す上位が組み合わさった言葉だ。
幕末に生まれて広がった思想だからね。
もともとは、それぞれ別の思想だったが、孔明天皇が大の異国嫌いであり、幕府に上位を促したことから、結びつけて考えられるようになった。
しかし幕府は、欧米列強と接しているため、経済力や武力を把握しており、上位実行が簡単ではないことを認知していた。
鎖国してたから、幕府以外は知らなかったのね。
だが曖昧な態度を続ける幕府に対し、朝廷及び天皇が不信感を抱き、この思いに共鳴したのが反幕府的な考えを持つ人々だった。
ここに上位こそ天皇への忠説という考えが生まれ、反幕府的な性格が強い尊王上位運動が始まる。
周りから見ると幕府がダメに感じたわけね。
尊王上位運動が最も激しかったのは、天皇のいる京都だった。
特に、長州藩は御所敬語の任にあることを利用して御所内の上位博下と結託し、京都における尊王上位運動を牽引していた。
まあクゲとかにとってはチャンスだものね。
徳川家持の城楽は、こうした事態を打開するために考案されたわけだが、城楽実現のためには京都の治安回復が絶対条件だった。
こうして結成されたのが、将軍継後、及び梅雨払いを目的とする老子組だ。
なるほど。
1863年2月8日早朝、老子組の面々は江戸小石川の伝通院から、京都に向けて旅だった。
組大使総数234名中には、天然利伸流四代総家近藤勇と、近藤勇が経営する道場支援官一門の姿もあった。
そうそう。同じ道場だったのよね。
そして、老子組は京に入り、近藤勇医科支援官の面々は、身分村の富裕な業者や義賢の城の邸宅を宿所とした。
到着してほどなくすると発案者である清川が老子組所大使は、幕府と主従関係にはない。
老子組は、あくまでも天皇のために上位の先兵たらんと老子組発案の真意を明かす。
最初の目的と違ったわけか。
集まった人も困るわねー。
ところが後日、清川八郎は突然江戸に戻って上位を決行すると発言する。
その理由は、前年に起こった生麦事件、横浜付近の生麦村で薩摩藩市がイギリス人を斬殺した事件の報復で、
イギリス艦隊が江戸を攻撃するという噂があったためだ。
えー、コロコロ変わられると困るわ。
これに対して近藤勇医は天皇から上位の勅令を受けた将軍と、江戸で上位を決行するなら依存はないが、
そうでなければ京都に留まり将軍を守りたいと異論を唱えた。
近藤勇医は天皇である多摩地方で生まれ育ったこともあり、将軍に対する異形の念が強かった。
特に幕府への思い入れが強かったのか。
1863年3月5日、徳川家持が京都に到着すると、多くの老子組は江戸に戻るが、24名の老子は京都に残留した。
それが近藤勇医を筆頭とする司令官一門、競り座は鴨が率いる水戸藩関係者などだ。
上位には加わらないってことね。
そして残留した老子たちは藍津藩を預かりの身分となり、
敦書のある身部村の地名を取って身部老子組を結成し、再出発を図ることとなる。
最初からゴタゴタねー。
1863年8月18日には、朝廷内部で8月18日の政変が起こる。
これは、上落した徳川家持が5月10日には上位を決行すると格約したにもかかわらず、
何もせず6月に江戸へと戻ったためだ。
そりゃ家持も上位は難しいわよね。
長州藩下撃派と上位剥下は、将軍の約束不履行を理由に、天皇申請による討伐を計画した。
しかし、孔明天皇はこれに強い拒否感を示した。
天皇は上位は望んでいても、討伐は望んでいなかったからだ。
また、江戸幕府に実前である和宮が腰入れしていることも理由の一つだった。
あ、そっか。この頃から皇室との繋がりがあるのか。
孔明天皇は、長州藩の下撃派と上位剥下を御所内から追い出す必要性を感じ、
薩摩藩と藍津藩に命じて御所を封鎖する。
そして新幕府派、後部合体派の区下のみによって調議が行われ、
上位剥下の簡易剥奪と、長州藩の御所敬語役解任が決定された。
孔明天皇もかなりきついことするわね。
長州藩の反撃が予測されたため、藍津藩は御所の警備に身部労使組も動員する。
そして約50名が御所の南門に配置され、任務を全うした結果、
身部労使組は藍津藩に古くから伝わる新選組という新しい体名を与えられた。
これにより新選組は、正式に藍津藩の部局となった。
なるほど。だから新選組って名前になったのか。
ちなみに身部労使組の頃から自発的に行われていた京都市中の見回りは、
新選組の名を得てからは主要任務となった。
揃いの羽織を着用し、足並みを揃えて京都市中を見回る様は、
市民の目には勇壮かつ規律正しく映ったようだ。
県も強かったわけだしね。
そして新選組の名を一躍転下に献殿したのは、1864年に起こった池田谷事件だ。
池田谷とは、京都三条通りにある旗子のことだな。
この事件の発端は、前年8月に起こった8月18日の政変にまで遡る。
さっきの事件よね。
8月18日の政変で京都を追われた尊能上位派勢力は反撃に転ずるべく、
密かに京都に集結した。
中心となったのは長州藩、熊本藩、土佐藩などを奪還した老子たちで、その数は250名ほど。
新選組が彼らの京都潜入を知ったのは、たまたま捕縛した老子が辞去したことが理由だった。
そうか。8月18日の政変の事後処理がきっかけだったわけか。
新選組は直ちに探索を開始し、商人マスヤキエモンの家宅捜索に踏み切る。
家宅捜索をすると、店舗の地下倉庫から帯ただしい量の火薬と銃が発見された。
また、隠された書上から、後の池田や事件のきっかけとなる連搬場も見つかった。
本当に準備してたのね。
地下倉庫に隠された火薬武器の量からただごとではないと判断し、
新選組はマスヤキエモンを敦書の前川邸に連行した。
副庁の肘方俊三は逆さずりなどの激しい拷問でマスヤキエモンを攻め、
ついに尊能上位派の大陰謀を辞経させる。
副庁の拷問、えげつなさそうねー。
その内容は1864年6月20日前後、
強風の夜を選んで御所の風上に火を放ち、
慌てて参台してくるクゲ連中を片っ端から捕獲する。
後部合体派の領州国の宮朝彦新能を誘兵し、
京都守護職の藍津藩主松平片森は斬殺する。
天能を長州に連れ去るというものだった。
まさにテロね。京都どころか日本がむちゃくちゃになるわ。
この計画を聞き行転した近藤勲は、
この大陰謀を直ちに京都署次第と京都守護職に報告する。
すると京都守護職には同日の出動を要請し、
新選組にも動員をかけた。
マスヤキエモンの逮捕を知った尊能上位派老子たちに
何らかの動きがあるのを見込んでのことだった。
デコイになったわけね。
集合場所の義恩会所に集まった新選組大使は計34名。
準備を整えて藍津藩兵の到着を待ったが、
一刻の猶予もなしと判断した近藤勲と肘方俊造は、
新選組単独で動くことを決断する。
藍津藩も遅れちゃダメでしょ。
そして近藤勲が10名の大使を率いて鴨川の西側へ。
肘方俊造が24名の大使を率いて鴨川の東側で探索を開始した。
するとマスヤキエモンの逮捕を知った尊能上位派の老子は前後策を講じるべく、
三条小橋の旗子池田屋に集結していることが分かった。
ついに池田屋に乗り込むのね。
近藤勲率いる隊が池田屋に至ったのは午後10時頃だ。
老子が集まっていることを知った近藤勲はためらうことなく切り込みを発令した。
そして沖田宗治長倉新八東道平助などの手垂れと共に池田屋に踏み込み、
暗闇の中たち待ち切り合いが始まる。
いずれも堅強ばかりね。
苦戦を強いられていたが、副長の肘方俊造が別同隊を率いて到着。
新選組は辛うじて勝利を収めることに成功した。
この時、新選組が最も目をつけていた桂小五郎は不在だったが、
4人を池田屋で捕獲する。
さすが逃げの桂小五郎。
さらに翌朝まで行われた京都市中総統により20名近くの老子を召し取った。
新選組は事件後、陰謀を未然に防いだ功績により、
朝廷から慰労金100両を貸しされ、京都市護職から1人当たり50両の奉奨金を与えられる。
この池田屋事件により、新選組の名は一躍転下になり響いた。
新選組が失勢するきっかけでもあったわけね。
池田屋事件で多数の同志を失った長州藩は、武力で湿地回復を図るべく、京都に軍勢を向かわせる。
これに応じて京都市護職の松平勝盛は諸行に出兵を要請した。
ふんふん。
そして新選組もこの京都防衛戦に誘約して出陣した。
この時制定された陣中八都は、組頭が内次にしたら、組下大使はその場を去らず、全員内次にせよという厳しい内容だった。
勝たない限り、生きて帰ってくるなってことじゃない。
やがて薩摩藍津両藩兵を中心に御所を守る幕府型と、御所に突入しようとする長州勢が衝突する。
さらに新選組は幕府型の総統選に参加すると、山崎の天皇山に建てこもっていた有力上位波浪士であり、
久留米藩の新官牧泉とその一頭を包囲し、自害に追い込んだ。
うまく失勢してるじゃない。
新選組内の分裂。池田や次県と金門の辺で名を挙げた新選組は、200名弱の王女隊となり、敦書も御部村から西本願寺へと移る。
また、江戸での大使募集を行い、後に参謀を務める伊藤嘉太郎らが入隊し最盛期を迎えた。
新選組が名を挙げてた証拠ね。
一方で、時代の動きも目まぐるしく展開し、幕府は第一次長州制伐と呼ばれる軍事遠征を慣行する。
これを受けて長州藩は幕府に強順の意を示し、嘉太郎3人を説服させる形で金門の辺の責任を取ることとなった。
長州藩は完全に目を付けられたわね。
さらに尊能上位派に代わって問罰や身分を重んじる上層部が藩の実権を掌握するようになる。
しかし、高杉晋作や桂小五郎らは幕府に従おうとする上層部に反発する。
1864年12月には高杉晋作が騎兵隊を率いて下関で拠兵し、1865年1月に藩の実験掌握に成功した。
そうか。長州にも優秀な士種たちがたくさんいたものね。
この勢力は、寮内の豪商豪農や村役人層と結びつきを密にして、藩論を絶対的強順から不備強順へと転換させ、軍政改革による軍事力強化に乗り出した。
軍事力で藩を守るしかないってなったのか。
これを受けて幕府は、1865年5月に長州藩への2度目の遠征代二次長州成抜を発令する。
新選組もこの戦いに臨むべく大規模な組織改変を行うが、初藩が日和みを始めたことで、事態は硬着してしまう。
どうして?
藩論が上位から開国へ転じていた薩摩藩が態度を保有したことが、多藩に大きな影響を及ぼしたんだ。
その背景には、土佐の脱藩老子坂本龍馬と中岡慎太郎の仲介による薩長同盟の動きも影響していた。
ああ、時代が変わってたのね。
そして池田谷事件と金門の変での活躍により存在感を示した新選組だが、やがて分裂という現実に直面する。
一時は参謀を務めた伊藤嘉太郎その一頭の離隊が、新選組全体を揺るがす事態を招いた。
何をしたの?
伊藤嘉太郎は新選組に入隊した直後から、同組中枢の一員となり、1865年3月下旬には副長の肘方俊三や斉藤初と共に、大使募集のため井戸に下降、54名の新大使と共に5月10日には京に戻る。
優秀な人だったのねー。
新選組はこの時期、幕府による第二次長州制伐従軍を視野に入れて部隊の再編成をしており、伊藤嘉太郎は参謀に任じられている。
また、戦闘力と精神的支出向上のため、劇研文学柔術法術馬術創術の各師範が選抜された際、文学師範に任じられた。
すごい姿勢じゃない?
新選組の中枢として重んじられた一方で、伊藤嘉太郎は尊能上位の総本願である水戸藩出身者だ。
時代の流れと共に、日本が心を一つにしてはとするという考えの一羽同心という考えを強めていく。
大事なことじゃない。本当は国内で争ってる場合じゃないものね。
そして尊能を志向する伊藤と幕府権力の回復と強化、江戸幕府を補佐、支持する砂漠派閥を志向する近藤勲との路線のズレが強まっていくこととなってしまう。
1866年に入ると、伊藤嘉太郎と新選組の路線のズレが顕著に現れ始める。
そうか。伊藤の考えは先進的だったのかもね。
その証拠となるのが新選組大使篠原大野真による戒戸六波多死撃下日記だ。
1866年1月、幕府が長州藩処分通達のため同藩日社を派遣した際、
次払いとして先発を命じられたのが近藤勲、伊藤嘉太郎、篠原大野真の3名だった。
なんて書いてあるの?
篠原大野真は、近藤勲が不在の檻に、伊藤嘉太郎と二人で長州滞在中は徳川の悪政を討論したと戒戸六に記している。
あら?幕府の悪口を言ってたんだ。
また、新選組大使による度々の不義理や行き過ぎた残落な暴力行為に対して、
注意を投げかけていたがほとんど聞き入れられなかったことも伊藤嘉太郎は不満に感じていたとされている。
あー、それは確かにあるかもねー。
やがて1866年9月26日、伊藤嘉太郎は近藤勲と面談し、新選組からの分離を切り出す。
表向きの理由は薩摩長州の内情を探りたいが、現状では足枷が大きすぎる。
ってことは裏の理由は?
なるほど。とにかく並風立てずに独立したわけね。
伊藤嘉太郎が新選組からの分離を決意した決定的な出来事は、
幕府による新選組の爆心取り立ての内定が下ったことにある。
これを受けた伊藤嘉太郎は、もはや組織の中では志が貫けないと判断したからだと言われている。
完全に幕府側になっちゃうものね。
近藤勲と新選組上層部は一旦伊藤嘉太郎の申し出を保有した。
それを受けて、伊藤嘉太郎は12月25日、孔明天皇が放流したのを契機に、
孔明天皇が葬られた御霊を守る隊を新たに設立することを画策する。
朝廷側を守るのか。
そして篠原隊の真に御霊へ自廃命の根回しを行うよう指示した上で、自身は九州に向かった。
これは自分たちが新選組とは別の組織であることを東爆破勢力の面々に周知させるためだ。
伊藤の売り込みだったわけね。
新選組の一派というだけで誤解を受け危険な目に遭うこともあり、
悔しい思いをした嘉太郎らだったが、こうした地道な活動が実を結び、
1867年3月10日、伊藤嘉太郎率いる一藤は朝廷より御霊へ次に任じられ、
改めて近藤勲みらに離隊を申し出た。
完全に新選組から独立したのね。
果たし下地下日記の記録によると、伊藤嘉太郎篠原隊の真と近藤勲氏方と志造は、
時政について激しい議論を交わし、翌日には篠原隊の真が一人で再び議論をし、
議論があるなら一藤両断しろという勢いで近藤勲みらを溶き伏せたとある。
日の打ちどころのない理由じゃ、近藤もどうしようもないわね。
この件に関しては諸説あるが、実際に表面上では円満に分離をしたとされている。
その根拠として九州行動中期では、藍津藩重役との話し合いも順調に進み、
分離直前にも伊藤嘉太郎は近藤勲やひじ方と志造と酒を組み交わしたと記されている。
じゃあ円満退社じゃない。
伊藤嘉太郎が進める政治的活動の命題となるのが童話一新であり倒幕ではない。
伊藤嘉太郎らにとっては、新選組というよりは、
京都守護職である藍津藩と良好な関係を保つことの方が自分たちの活動にとっては必須だったってことだろうな。
確かに。みんな仲良くが目的だものね。
五陵絵寺として新選組を分離した伊藤嘉太郎一派計13名は、五条橋東詰の前流寺に移った。
五陵絵寺とは朝廷の威光により与えられた名称であり、
身分上は朝廷の沙汰によって新設された特殊な役職である産業舞踊預かりの集団となった。
朝廷と幕府をつなげられたかもね。
しかし分裂したばかりの新選組に激震が走る。
それは1867年10月14日、江戸幕府15代将軍徳川義信が大政奉還を想像したからだ。
あ、ここで大政奉還か。
徳川義信としては、倒幕派の矛先を交わしつつ、
いきなり政権を変換されたことで混乱必至の朝廷の隙を突き、新政府の主導権を握ろうと考えていた。
しかし、岩倉智美や大久保利道らの起点により失敗し、母親戦争へと突き進むことになる。
なんでこのタイミングだったのかしら?
なお、徳川義信がこうした神人への駆け引きに打って出た背景には、
藍津藩からもたらされた情報が大きく影響している。
それは、武力による倒幕派の巨兵が目前であるとの情報だった。
そしてこの情報を藍津藩へ伝えたのは新選組だ。
運命は皮肉なものねえ。
伊藤嘉太郎もそれを裏付ける証言を残している。
新選組もまた幕府という根幹を失い、解散への道を進み始めた。
そして大政法官により衝撃を受けたのは、伊藤嘉太郎も同様だっただろう。
新時代を作ろうと動き出した矢先だったのにね。
時代に乗り遅れたと焦った伊藤嘉太郎は、新選組団長を焼き討ちし、
近藤勲ら幹部を打ち取って新選組を吸収しようと計画していたという資料も存在する。
しかし五陵絵寺内には、患者が一人紛れ込んでいた。
三番大組長を務めた斉藤初めだ。
ああ、こちらも有名な大使ね。
斉藤は五陵絵寺に近藤勲暗殺の企みありと、新選組上層部に報告、
政治活動の準備金を持って伊藤の元から逃走する。
これにより伊藤嘉太郎の命運は決まった。
暗殺か。
1867年11月18日、近藤勲の招託に招かれた伊藤嘉太郎は、
盛大な艦隊を受けた後、ほろ酔いのまま帰都に着いた。
そして油の工事に差し掛かった時、
肘肩都市蔵らの指令を受けた新選組大使大石桑次郎が襲撃する。
仲良くできそうだったのに。
伊藤嘉太郎も抜刀して往戦するが、初手で不可で追っていたためほどなく落命してしまう。
さらに遺体をそのまま放置することで伊藤嘉太郎の部下たちをおびき寄せ、
一挙に育成し、五陵絵寺の面々の討伐に成功した。
なんで五陵絵寺まで標的にしたの?
近藤勲が伊藤嘉太郎の暗殺及び五陵絵寺の討伐を決心した背景には諸説ある。
その中でも特に事実に近いとされているのが、
近藤勲の伊藤嘉太郎に対する妬みだ。
それは個人観に留まらず、新選組による五陵絵寺への妬みだともいえる。
妬みか。
伊藤嘉太郎は一羽同心、大開国大峡谷、
つまり、存能と上位の思想は根幹にあるが、
問題解決の最終手段として武力行使があるということだ。
後の明治の考え方にも近いわね。
つまりまずは話し合いを重要視して国として一致団結し乗り切ろうという、
恩賢な抗議政治体制の思想だったわけだ。
大政交換後の政治に対して不満を募らせ、
大政復古には断固反対の立場を取る近藤勲ら新選組にとって、
この伊藤の思想は到底容認できない。
まあそりゃそうなっちゃうわね。
新選組始末期によると、
近藤勲が政策に関して相談事があるという理由で伊藤を招託に呼び出した際、
伊藤の周りの同志が罠を疑い止めたが、
人を疑うことを嫌う伊藤は、
好意を持った誘いを断るのは礼儀に反するとして、
快諾したと記している。
伊藤。
さらに伊藤が近藤の誘いに応じたのは、
伊藤がこの機会に、近藤勲らに自分たちの志を伝え説得しようとしたのだと記されている。
盛大な歓迎を受けたことで、
自分の思いが近藤勲ら新選組の志士たちに伝わったと、
伊藤貸太郎は信じ切っていたのかもな。
伊藤が活躍できる新選組だったら、また違った形になったかもね。
敗北。
さて、徳川義信が大政法官に踏み切ったのは、
朝廷が樹立する新政府の主犯に据えられる可能性が高いと踏んでのことだ。
しかし、武力倒幕派勢力としては、再び徳川氏が政権の中心を担う状況は避けたいところだ。
新政府としては幕府の残り顔残したくないわね。
新政府は、幕府に加えて摂政感覇などの役職も廃止し、
天皇の下に総裁議定産与の産職を新たに設置した。
大政復古の大号令の後に行われた小御所会議では、
徳川氏の処分が議題となり、激しい論戦の末に徳川義信の時間の内が決定する。
将軍が普通の人になっちゃったのね。
この一方的裁定を受けた徳川義信は、一旦大阪城に引き上げるが、
新政府の仕打ちに旧幕神や藍塚和那の両藩士は激怒し、続々と大阪城に集結する。
1868年1月2日、旧幕府軍は退去して戸場と伏見の二階道を進み、京都を目指した。
あっという間に日本が二つに分かれたわね。
そして1月3日の午後5時ごろ、両海道の守りを固める新政府軍と旧幕府軍が激突した。
戸場海道を河切りに、伏見方面でも戦闘が始まり、戸場伏見の戦いの火蓋が切られた。
新戦組は?
この戸場伏見の戦いには新戦組も参陣し、主に伏見で戦闘を繰り広げた。
指揮を取ったのは肘方俊三だ。
近藤勲は、戦闘の数日前に五陵絵寺の残党から銃撃を受け負傷し、大阪城で治療を受けていた。
戸場伏見の戦いは酷かったらしいものね。
戦いは一心一体の攻防となるが、新戦組が得意とした白兵船による活躍は望めないまま、選挙区は衰移していった。
さらに、新政府側が突如二式の御旗を掲げたことで状況は一変する。
どうして?
古来より、この御旗は天皇の旗であり、旗を掲げた軍は官軍、旗のない軍は賊軍と決まっていた。
だから旧幕府軍は、自分たちが賊軍になったことを知り、そう崩れしてしまう。
新戦組も、多くの大使が命を落とし、戦いは敗北に終わった。
気持ちが折れちゃったのか。
大阪を経て井戸に配送した新戦組だが、再起を図って紅葉鎮部隊を組織する。
近藤勲を総大将として現在の山梨県へと向かったものの、甲府を侵発した新政府軍と担ぐまで激突した。
しかしそこでも敗北してしまう。
それでも近藤は、部隊を立て直すべく下梢の国に向かう。
まだ諦めないのね。
しかし結党依頼の同志である長倉新八や原田佐之介が意見の違いから対立し、離退してしまう。
その後、残った大使総勢200名を率いて現在の千葉県流山に進軍したものの、
ほどなく新戦組本陣は新政府軍に包囲されてしまった。
えー、この時点でも分裂してるんだ。
覚悟を決めた近藤勲は説服を決意するが、
肘方俊三が投稿して味方が合図に行く時間を稼げと説得する。
そして近藤勲はこれを受け大久保大和という変名で投稿した。
それでごまかせる?
実はこの時肘方俊三は、味方を合図の地に逃した後に近藤勲を救出する計画を立てていた。
しかし、投稿後ほどなく大久保大和の正体が露見してしまう。
そして結局1868年4月25日、近藤勲は板橋で残死刑に処されてしまった。
間に合わなかったのか。
近藤勲を失ったことで組織としての新戦組は事実上崩壊した。
以降は、ここによる戦いが繰り広げられるが、
このうち最も長く戦ったのは副長の肘方俊三だ。
エゾに行ったのよね?
肘方俊三は合図戦争を経て、母親戦争最後の地、エゾに入る。
旧幕府勢力はこの地に独自政権を築こうと格索し、
日本初の交戦入札によって榎本武明を総裁に選出する。
そしてエゾ共和国とも呼ばれる政権が誕生した。
これもすごい話よね。
榎本武明は、国際法に通じていた新政府との戦いを見据え、
外交による解決策を模索していた。
フランスやイギリスの領事らと覚書を交わし、
事実上の政権であることや中立の立場を取るなどの現地を取ることにも成功している。
榎本武明もすごい人よねー。
しかし、新政府軍が政権受立を認めるはずもなく、
両者は武力衝突し、やがて函館戦争に突入する。
肘方俊三は、函館政権において陸軍武僚並みに任じられ、
戦闘の最前線に身を置いた。
五陵角が有名ね。
しかし、函館政府は軍備や兵力において圧倒的に不利だったため、
4月9日に新政府軍の上陸を許すと、各所で劣勢を強いられる。
肘方は二股口の戦いなどで新軍を阻止し、戦火を上げるが五陵角へと撤退。
5月11日、新政府軍が総攻撃を仕掛けると最前線へと出陣し、壮絶な最後を遂げる。
最後まで幕府のために戦ったのね。
肘方と四蔵の戦死から6日後の5月17日、無条件降伏により五陵角は陥落した。
なお、函館政府軍の幹部のうち、戦死したのは肘方と四蔵のみだった。
これにより戸場伏見の戦いに端を発した母親戦争は完全終結し、新戦組の戦いも終わった。
新戦組もこれで終わったのか。
こうして見ていくと、新戦組は結成当時というか新戦組になる前から様々な問題を抱えていたことがわかる。
もともとが騙されてたようなものだものねー。
さらに伊藤のような別の考えを受け入れられず、体内で粛清が度々行われるほどだった。
厳しいことで有名な極中八党も、裏を返せば、それだけ体内の統率が取れてなかったってことだからな。
厳しい刑罰じゃないと、大使を止められなかったわけだものね。
だから新戦組はうまく幕末を生き抜いても、遅かれ早かれ、いずれ内部崩壊していったんじゃないかなーと思う。
集団をまとめることの難しさを感じさせる話ね。
今の私たちでも考えさせられる話だよな。
ということで今回の解説はここまでだぜ。
次回もぜひ見てくれよな。
チャンネル登録高評価もよろしくね。
ご視聴ありがとうございました。
