【ゆっくり解説】日本史の闇!?からゆきさんとは!

にっぽんぽん【ゆっくり日本史解説】
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考えさせられますね
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歴史は何のために学ぶのか。この疑問を持ったことがある方は少なくないでしょう。仕事では直接使うことはほとんどないですよね。
過去を学ぶことで未来に活かせると私は考えています。教養という意味でも社会で必要な知識でしょう。
先人たちはどのような暮らしでなぜそのような文化が形成されたのか。面白いことばかりです。
こういった考えから、このチャンネルでは社会人の方が、ゆっくり楽しく歴史上の偉人のことを学べ、更に、そこから日常でも役立てられるような動画を作っています。
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ほぼ毎日17時に動画を配信中 にっぽんぽん 運営 山本陽太
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#ゆっくり #ゆっくり日本史 #ゆっくり解説
ゆっくり霊夢だよ。
ゆっくり魔理沙だぜ。
さて、今回はからゆきさんを紹介するぜ。
からゆきさん?誰かのニックネームかしら?
からゆきさんとは明治時代の九州で、 海外に出稼ぎに行った人々のことを呼ぶ言葉だったんだ。
からゆきさんのからは広く外国を意味するので、 特定して中国だけを示す単語ってわけじゃないんだぜ。
そうだったのね。
文明開化後の日本人って、 世界各地に出稼ぎで働いていたのね。
そうだな。
だが、一言で出稼ぎと言っても、 移民薬風などその職種は様々なんだ。
そして、このからゆきさんという言葉も、 やがて特定の職で海外に渡る人々に対して 用いられるようになったんだぜ。
特定の職って?
称父、だぜ。
からゆきさんは主に東アジアや東南アジアに渡って、 現地で植民地支配を行っていた裕福な欧米人を 相手に称父として働いたんだ。
そんなことがあったの?
知らなかったわ。
それじゃ、早速だがそんなからゆきさんの紹介を始めるぜ。
ゆっくりしていってね。
からゆきさんは九州で使われていた言葉で、 19世紀後半の江戸時代末期や明治時代から、
主に東アジアや東南アジアに渡り 称父として働いた女性のことを指す言葉として有名なんだ。
彼女らは長崎県の島原半島や 熊本県の天草諸島出身者が多く、
海外へ渡航する際にはゼゲンが介在していたんだ。
ゼゲン、聞き慣れない言葉ね。
ゼゲンとは女性を誘拐などの売春労働に 圧戦することをなりわいとした仲介業者を指す言葉で、
歴史は古く、古代からこのような食料が 存在していたと考えられているんだ。
話を戻すぜ。
からゆきさんとして海外に渡航した日本人女性の多くは、 農村や漁村出身など貧しい家庭の娘たちだったんだ。
彼女たちを海外の商館へと橋渡ししたのは 貧婦などと呼ばれた圧戦業者やゼゲンたちで、
彼らは貧しい農村や漁村などを回って年頃の娘を探し、
海外で航行させるなどといって、 彼女の親に現金を渡したんだ。
そして、ゼゲンたちは彼女らを 売春業者に渡すことで手待ちんを得ていたんだ。
歴史とした人心売買じゃない。
そうだな。
中には、こうして手待ちんを集めたり、 投資を受けたりすることによって、
自ら海外で商館の経営に乗り出す者もいたみたいだぜ。
でも、そんなのって世間が許さないんじゃないかしら?
今なら当然許されないだろうな。
だが、当時はこうした日本人女性の海外渡航に関して、
セロンにおいても上司軍として献殿され、 明治時代の末期にはその最盛期を迎えていたんだ。
上司軍とは彼女らの稼ぎが資本となり、 また人数が日本人の進出の手がかりにもなったために そう呼ばれるようになったんだぜ。
時代が違うとここまで価値観も異なるのね。
そうだな。
だが、時代の流れとともに 国際的に人心売買に対する批判が高まり、
日本国内でも彼女らの存在は 国家の恥として非難されるようになったんだ。
永良マラヤの日本領事館は1920年に 日本人少婦の追放を宣言し、
やがて海外における日本人少官は姿を消していったんだ。
そうなると、唐行さんの多くは日本に帰ったが、
中には後製作も用意されず現地に残留した人もいたんだ。
あらら。
唐行さんの主な渡航先は、シンガポールや中国、 香港、フィリピン、ボルネオ、
タイ、インドネシアなどアジア各地のほか、
シベリアやマンシュー、ハワイ、 カリフォルニア等の北米やザンジバル等のアフリカに渡った 日本人女性の例もあるんだ。
本当に世界各地に渡っていたのね。
そんな唐行さんを一躍有名にしたのは、 1970年代に出版された
ノンフィクション作家山崎智子の 三打官八番召喚 底辺女性史序章と、
これを原作として公開された映画 三打官八番召喚 傍協なんだ。
この作品中で書かれた大正中期から 昭和前期のボルネオでの事例では、
娼婦の取り分は50%、 そのうちで借金返済分が25%、
残りから着物や衣類などの雑費を連出するのに、 月に20人の客を取る必要があったんだ。
また、作中には返す気になってせっせと働けば、 そっても毎月100円ぐらいずつは返せたよというセリフがあることから、
彼女は性病の検査費を合わせると 月130人の客を取ったことになるんだぜ。
ひ、130人? とても過酷じゃない。
そうだな。
また、普段の客はさほど多くないが、 港に船が入った時が繁忙期で、 どこの召喚も満員となったらしいぜ。
そして、一番ひどい時には一晩に 30人の客を取ったみたいだぜ。
ただ、そんな状況でも、 現地人を客にすることは好まれず、
唐行さん側はかなり接客相手を拒否することが 許されていたとみられているんだ。
それでも、月に一度は死にたくなるという 感想を語るものが多く、
そんな時に休みたくても休みは 与えられなかったみたいなんだ。
休みたくても休めないのが一番きついわ。
ただでさえ英国の地であり、 その上休みも取ることができないくらい 過酷な労働環境だったために、
フード病やマラリア、 性病で20歳くらいで亡くなる人が多かったみたいなんだ。
なお、東南アジア各地には このような唐行さんの墓が見受けられるんだぜ。
一度はふるさとに戻りたいと思っていただろうに。
ここからは、唐行さんについて もう少し踏み込んで紹介するぜ。
さっき、唐行さんは長崎の島原半島や 熊本の天草諸島出身者が多いと紹介したが、
これらの地域は貧しい農村や漁村であった 他にも大きな理由があったんだ。
理由?
島原半島には九州の都交という港があって、 そこから彼女らは海外へと密交していったんだ。
なるほど、港が近かったのね。
ただ、その手法はとても過酷なものだったんだ。
この九州の都交からは 九州地方の石炭が輸出されていったんだ。
当時は石油よりも石炭の方が燃料として用いられており、
九州の唐行から採掘された石炭は 不純物が少なく良質であったため、
英国海軍の軍艦の燃料として重宝されていたんだぜ。
そしてその石炭の運搬船の船底に彼女らは押し込められ、 まさに密交していたんだ。
航海の間は飯もろくに与えられなかったらしいぜ。
最初からハードモードすぎるって。
また、明治時代の日本国内では、 女性をアジアには高額でいい仕事があるなど言葉巧みに騙して、
海外へ連れ出し売春させるという手口が多発しており、 外務省も注意喚起をしていたんだ。
ただ、唐行さん全員が騙されて海外へ渡航させられたわけではないんだ。
中には自分から密交して海外へ渡った女性もいたんだぜ。
それも今では考えられないわね。
そうだな。
ただ、これには時代背景というものが 大きく影響していると考えられるんだぜ。
どういうことなの?
というのも、開国して欧米のキリスト教的な価値観が入ってくるまで、 日本は性意識がとても大らかだった。
江戸時代の戦闘が婚欲だったという話は有名だと思うが、
家族を養うために身売りをすることは高校として商用され、 優女になっても、
身受けされれば一般社会に戻ることもできたんだ。
一方、純潔を重んじる欧米キリスト教文化圏では、 一度娼婦となったものは一般社会に戻ることが許されず、
世間から一段低いものとして扱われていたんだ。
今の社会はどちらかというと後者よね。
まあ、戦後に売春自体が違法、すなわち悪であると規定されたからな。
で、唐行さんの活動時期は、こうした欧米の売春行為を 蔑む味方が入ってきて、
一般庶民に根付く時期と重なるんだ。
実際、調子軍として献殿されていたのは 明治時代という文明開化してからまだ間もない時期で、
逆に国家の恥として非難されるようになったのは、 1920年に永良マラヤの日本領事館が、
日本人娼婦の追放を宣言したことからも分かるように 第一次世界大戦後のことなんだぜ。
その頃は大正デモクラシーに象徴されるように、
政治、社会、文化の各方面において民本主義の発展や 自由主義的な運動、風潮、思想が浸透していたんだ。
こうした考えは西洋的な考えでもあると捉えられるから、 日本人の考え方が西洋的に、
そして性意識に対しても西洋化が浸透したと考えられるんだぜ。
言われてみればそうかもしれないわ。
空行さん、海外で稼ぎ、女性の近代という著書では、 明治19年1886年生まれで19歳の時にシンガポールに渡り、
空行さんとして仕事をしていた女性に 晩年取材した時の様子が描かれているんだ。
取材者はどうやら、尊厳を踏みにじられる 辛い経験だっただろうという前提で取材したのだが、
彼女は、働きに行った中ても、 女子の仕事態度実にあっけらかんとした態度で答えていたらしいぜ。
また、年代が新しくなって海を渡った者ほど 仕事によって心に傷を負う者が多く、
精神に異常を期待したまま亡くなる者もいたみたいなんだぜ。
党の本人の言葉が残っているのは貴重ね。
また、空行さんに対しては別の側面から考えることもできるんだ。
実は、彼女らが外科獲得の先兵として 見出されていたという意見もあるんだぜ。
19世紀初頭までの日本は、 鎖国政策も取っていたこともあり世界経済との繋がりが細かったが、
安成4年1858年の日米就航公開条約締結とともに状況は急変し、
世界経済の一角に完全に組み込まれた上、 不平等条約という枷まで終わされたんだ。
日本は輸入量に見合う分の輸出をする必要があったものの、
開国当初は有力な輸出産品がなく、 金や銀が大化とされていったんだ。
欧米列強から借金を受けるという方法もあったのだが、
利息の支払いが滞れば担保とした関税などを差し抑えられ、 反植民地化されてしまうんだ。
まずいわね。
それを回避するには手っ取り早く外科を獲得するしかなく、 その役割を果たしたのが唐幸さんだったんだぜ。
どうやら彼女らの稼ぎは相当なものであったらしく、 日本国内の防石量が軌道に乗り主要輸出産業になるまでは、
唐幸さんの稼ぎこそが日本における 最大の外科獲得源だったんだぜ。
だが、日本の近代化と成長によって彼女らの意義は薄れていき、
日本が一等国となると彼女らを かつての外科獲得の先兵といった評価から一転させ、
黒塾という楽園を押したんだ。
それはひどすぎるわよ。
国を支えていたって言うのに。
また、そこに日本人がいた、 海を渡ったご先祖様たちという著書は、
国ごとに22話から構成され、 日本人の誇りを忘れずに海外で生きた ご先祖様たちを紹介する本なのだが、
この本にも唐幸さんに関する記述が いくつか記載されているんだ。
例えば、第1話の南アフリカには茨城県出身の 古屋駒平夫妻が、明治31年1898年に、
ケープタウンに上陸し、開店した帝紹介は 18人の従業員を抱えるまでに繁盛する。
ケープタウンに日本領事館が開設されたのは、 大正7年1918年であるが、
この頃、海外称婦の日本人女性2人が 町に進出していたという記載があったほか、
第12話のヤンマー、ヤンゴンには鎖国が 解かれてから最初にこの国へ入った日本人は、
唐幸さんで、明治14年1881年には 既に10人の日本人がビルマにおり、
このうち6人が女性、同24年1891年には 69人うち女性が49人、
さらに同34年1901年には114人うち女性は86人と、
常に女の数が男を上回っており、 女性のほとんどは唐幸さんで、
男の大半は彼女らを監督する者たちだったと 見て良いという。
時が経過し、日本政府は唐幸さんを 近代日本の地部として大正9年1920年、
海外配称令を発布したと記載されているんだぜ。
アフリカに渡った人って本当にいたのね。
そうだな。以上が唐幸さんについてだぜ。
現在、唐幸さんについて研究している人は多く、
熊本県天草市の大久保美希子さんは、 30年以上に渡って唐幸さんの研究を行っているんだ。
彼女は、海外売春婦としてのみ 人々の記憶に留まっているが、決してそうではない。
海外に出稼ぎに出た労働力を総称した呼び名で、 別紙ではなく、
むしろふるさとの人々が愛情を込めて 使った言葉と力説し、
天草では海外に出稼ぎに行くということは 特別なことではなかった。
貧困や人口過多など、起こるべくして起こった 社会現象だと話しているんだぜ。
事実、当初は出稼ぎに行く人全体を指す 言葉であったからな。
そうだったわね。
でも、人心倍々同然のように売られてしまった 人もいたことも事実なのよね。
その通りだぜ。
だから、唐幸さんに関しては ある一つの側面からだけではなく、
様々な側面から考えるべきだと思うんだぜ。
それじゃ、今日はこの辺で。
ご視聴ありがとうございました。
