【ゆっくり解説】チャーチルが語る日本

にっぽんぽん【ゆっくり日本史解説】
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歴史は何のために学ぶのか。この疑問を持ったことがある方は少なくないでしょう。仕事では直接使うことはほとんどないですよね。
過去を学ぶことで未来に活かせると私は考えています。教養という意味でも社会で必要な知識でしょう。
先人たちはどのような暮らしでなぜそのような文化が形成されたのか。面白いことばかりです。
こういった考えから、このチャンネルでは社会人の方が、ゆっくり楽しく歴史上の偉人のことを学べ、更に、そこから日常でも役立てられるような動画を作っています。
このチャンネルを通して学び、役立てられる人が1人でも多くなるようにチャンネル運営を頑張っていきます。応援してもらえると嬉しいです。
ほぼ毎日17時に動画を配信中 にっぽんぽん 運営 山本陽太
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#ゆっくり #ゆっくり日本史 #ゆっくり解説
ゆっくり霊夢とゆっっくり魔理沙だぜ海外
から見た日本って今までと違った視点が
あって面白いわよねそうだよな日本人では
気づかないこととかもあるよなそういうの
で誰か面白い人が日本を語ってたりしない
のそうだなそれじゃあ今日はチャーチルが
語る日本について解説していこうそれ
じゃあゆっくりしていってねチャーチルと
はウィンストンチャーチルは第一次世界
対戦中から第2次世界対戦戦後の冷戦時代
にかけての最も著名なイギリスの政治家の
だどんな人だったの先祖は名誉革命時代に
活躍した貴族のマールバラ教でチャーチル
自身もハロ校から陸軍間学校のエリート
コースを歩んでいるインドや南アフリカで
軍人生活を送り1899年には南アフリカ
戦争に新聞記者として従軍している貴族だ
けどいろんな仕事してるのねその後総務
大臣内省を務めた後海軍大臣となり第1次
世界対戦を迎えたガリポリの戦いで上陸
作戦を進めたが者の引きいトルコ軍に破れ
責任を取り辞職することとなるふんふん
しかし1917年に自由党のロイドジージ
の連立内閣に迎えられ軍事省陸相などを
務めるロシア革命が起こると共産主義の
勢力拡大に危機感を持ち再び保守党に移っ
て増殖となったカムバックしたのねそして
1940年から1945年まで英国の首相
を務めルーズベルトやスターリンとともに
連合国を勝利に導いた指導者として有名だ
しかしチャーチルに関しては偏見を抱かれ
ていることが多いどういうことそれは吉田
茂元首相がチャーチルについてあの人は
日本が嫌いだというから私は愛にも行か
なかったと語っていたと言われることから
だそれは確かにひどいかもところが実際の
チャーチルは1930年代から40年代に
かけて日本との戦争回避を強く望んでいた
ばかりでなく戦後も日本との和解に心を
砕いていたそうなのさらにチャーチルの
新日的態度の背後には若い時に日本を旅行
し当時の日本の自然や風物に触れて以来
修正日本に行為を寄せ続けた母親の影響が
存在したと言われている母親がどうして
関係あるの回線直前のチャーチルにとって
重要な国はアングロサクソンの兄弟国で
ある米国と欧州制覇の野望を抱いた
ヒトラーのナチスドイツだしかしアジアで
数少ない独立国で文明国天皇をいだく日本
には一定の真近感と理解を持っていたよう
だ母親が日本美だったからチャーチルに
とって日本が重要な国だったからだ
1894年世界周遊の旅に出た両親が日本
に立ち寄っている日本から送られてきた母
の手紙には日本の写真が同封され日本は
チャーチルにとって忘れがい国となってい
たそうか思い出深い国でもあったのね戦前
のチャーチルじゃあその30年代の
チャーチルを見ていこう30年代になると
ファシズムが対等ネビルチェンバレンの
優和政策を批判してチャーチルはナチスの
脅威を解いたヨーロッパにファシズムの
荒しが起こった時ねしかし第2次世界対戦
が勃発して危機が高まる中ドイツ軍が
ノルウェイに進行イギリス海軍がそれを
阻止できなかったため責任を取ってネビル
チェンバレン内閣が対人変わって
チャーチルが1940年5月11日に首相
となったまた帰りざいたのかチャーチルが
祖RECを行った5月10日にドイツ軍の
オランダベルギー進行が開始された
イギリス軍は追い詰められるがチャーチル
はダンケルクからの撤退を決定し1940
年5月27日から開始6月4日に完了兵力
の維持を図り45年まで戦争指導に当たる
ダンケルクでの遺体敗北ねヒトラーは
イギリス本土上陸作戦実行を決意し40年
7月16日ロンドンなどに激しい空爆を
行ったしかしイギリス空軍はこのバトル
オブブリテンで検討しチャーチルにこされ
たイギリス国民も空襲に耐えたロンドンも
空襲を受けたんだしかしドイツ軍の空爆と
潜水艦によるイギリス封鎖作戦は続き
イギリスも大きな犠牲を払い武器や物資の
不足に苦しむこととなりアメリカ合衆国の
支援が不可欠となった一方ドイツイタリア
日本は同年9月日独位3国同盟を締結し
数字国を形成するそうか日本がファシズム
と手を組んだのね日独3国同盟の前に
チャーチルは日本についての印象を語って
いる日英同盟条約の批准が国会にかかった
時審議に加わった議員は今や残り少なく
なっているが自分はその1人である私は第
1次対戦でのの日本の英国に対する忠実な
協力を熱心に見守ってきたすごく日本に
行為的じゃないミカドの政府と長年協力し
てきて私の心に残る印象は日本人が真面目
で堅実であり銃口で成熟した人々であると
いうこと彼らが力関係や色々な要因を慎重
に考える人たちであると信じて良いこと
また理性を失ったりよく考えないで無鉄砲
な計算をどしした冒険に飛び込んだりはし
ないということであると述べているすごく
褒められていて嬉しいはこのような日本官
は彼が母から受け継いだ日本の姿だったん
だろう実はチャーチルは日栄同盟条約に
賛成したことを誇りにしているが後にその
継続に反対し覇気を指示しているえところ
が第2次対戦前後から日英同盟を集結させ
たのは失敗であったと考えるようになり
公開するそのように日栄関係について
チャーチルの見解が変わったことは第一次
対戦中からの日影関係が戦後も不安定で
あり続けたことを反映してもいたそうか
世界の情勢によって同盟もあやふやだった
のねさらに日本については日本の工作可能
面積はカリフォルニアの半分に満たない1
分ごとに4人の赤子が生まれ人口は死亡率
の低下で年間100万人増えており
1960年には1億人近くとなって日本は
3番目の大人興国になるであろうと数字を
上げて日本を評価している工作値が少ない
のに人口が増えるのはすごいわよねさらに
このような日本が輸出しようとしても安価
な日本製品を恐れる国国によって市場は
閉ざされまた米合家などが日本製品よりも
日本人移民を嫌うので日本は生存権を確保
するために中国に膨張せざるを得なくなり
分割支配の原則で中国をいくつかの地域に
分けて支配しようとしていると日本の中国
新出についても予見しているなこの頃から
安くていい日本製品は嫌われてたのね続け
てだから中国を統一して近代国家に
作り替えようとする哨戒石政権を米国や
英国が支援するのを日本は非常に嫌うので
ある中国人の半日感情はまだ高まってい
ない日本は中国各地での支配権を強めて
いくであろうそれはその通りになったわね
日本は昔国外に目を転じたローマのようで
あるそのような日本の闘争の能力と情熱は
日本を警視するものには不吉な展望を
与えるものである日本の中国への浸透は
日中あるいは日ソ間の戦争をもたらすで
あろううわソレントの対立も見越してたの
か日中間の戦争は中国に勝ち目はないで
あろうがそれとの戦争は日本にとって危険
であるしかしいずれの国も軽々しく戦争を
しないであろうソ連は日本と戦っている間
にドイツからの攻撃で失うものがあまりに
大きすぎるのであるなるほどドイツがいる
限りは日ソ関係も安心だったわけね時は
日本に有利である日本は戦争を望まないと
いうがそれは正直なところであろうやがて
日本は圧倒的な力を蓄えて太平洋の列強の
要求に抵抗できるようになろうと論じた
日本が大国になるだろうことは予想してた
のかその後日本の軍事指導者たちが叫んで
いることがかなりの年数をかけてでも実行
に移されるとしたら明らかに他の諸国は
互いに相談して対抗しなければならないし
その場合に米両国は指導的な役割を
演じよう日本を警戒してたわけね中国で
永年に渡り合法的に手に入れた利権を暴力
で根こそぎにされ抹消されることに我々は
耐えられないであろうインや日本人のため
のアジアを意味するアジア人のための
アジアという兵庫が実行される時に英語権
諸国は反発しないではいないであろう俗に
言大東亜共栄権に関しては反対だったわけ
ねこれらのこと全ては日本が歩むにしては
甚危険な道であるこれまで日本の成功を
賛美し日本の進歩友人として歓迎してきた
人々はそのような道に入らないように日本
に熱心そして真剣に説得するのであると
続けているなるほど日本の暴走を止める
べきだってことかさらに日本人のような
惜しい国民が大統領選挙が想像しいからと
て米国を警視したりいつもつきまとう正常
のゴタゴタを理由にフランスを軽んじたり
あるいは戦争となるまでは兵士の補充に
こか英国をも正当に評価しないというよう
なことは大きな誤ちであろう人間は互いに
正義と尊敬を持ってさらに自分の野心を
いかに満足させるかよりもどのようにして
相手の合理的な苦情への答えを見出そうか
という熱心な願望を持って接し合うことが
はかにまさっていると語っているこれは
人類全体への願望ねこのようなチルの日本
に対する態度はその障害を通して一貫して
いたそして1930年代の前半からは彼の
関心はドイツの西軍日とりわけ空軍の急速
な拡充に向けられるようになったドイツが
気な臭くなるものね1934年に
チャーチルはドイツが平和条約に違反して
すでに英国の本土防衛空軍のほとんど3/
に匹敵する空軍を創設したと警告した
しかし一方彼は1931年の満州での日本
軍の侵略行為がもたした不気味な情勢にも
注意を注いでいた満州事変か日本は
1933年にリット報告書を拒否して国際
連名を脱退したがそれでもチャーチルは
日本に行為的な目を向けていたようだそう
なの名誉最高にじる国であり増大する人口
共Hiすべき勢力と愛国心を持ち長い歴史
を誇る国である日本の立場を英国民が少し
でも理解することを希望する日本は一方で
は共産主義ロシアに他方では混乱する中国
に直面いるのであると日本に行為的だ日本
の状況を重んばかっているわけね
チャーチルは日本の朝鮮半島や満州におけ
る植民地支配についても自分は日本帝国と
国民に同形と長年の経緯を持っている勢力
的で真摯的な日本の国民が拡張の余地を
必要とするのを認めるものであるそれは
工作地や資源が少ないからねさらに我々は
朝鮮で日本がしてきたことを見ているそれ
は厳しいけれども良行であった満州で彼ら
がやったことを見てきているやはりそれは
良好なものであるが厳しいものであったと
弁護している完全に悪い統治だったとは
言えないってことかチャーチルは日本の
脆弱な経済と工業の能力から考えて日本の
ことをイギリスにとって直接の軍事的脅威
とは見なしていなかった日本はドイツとこ
なりイギリスの心臓部を攻撃して戦争を
遂行する能力や手段を持たないと考えてい
たんだろうなそりゃイギリスまでは責め
られないしねしかし日本が軍国主義者や極
国数主義者の圧力によってナチスに接近し
定型を深めるにつれてチャーチルの考えは
変わっていったしかし三国同盟によって
日影関係がますます悪くなる中でも
チャーチルは日本の欧州戦争介入を阻止
しようと説得を諦めなかった日本を説得
しようとしたってことこれはチャーチル
だけではなく国連創設当時から新日派とし
て知れたモーリスハンキー教や外務省副
大臣リチャードバトラー保守党議員ら英国
政府首脳も日本の大使との対話を進める上
で日本側に収支行為を持ってあれこれ便宜
を図り協力を惜しまなかったイギリス全体
がそういう空気だったのねさらに
チャーチルが首相官邸で日本大使に会う度
に強調したのは欧州の戦乱は基本的に日本
に関わりのないことであるから介入しない
のが日本の新の利益に合致するということ
だったようだ確かにしかし当初は中立策を
取っていたアメリカが動き出す大統領
フランクリンローズベルトは1941年3
月には武器対予法を成立させて支援を明確
にしたさらに6月に毒素戦が開始されると
ドイツを共通の敵とすることになったソ連
と提携し要素軍事同盟を成立させたそうか
アメリカが動いたら日本も黙ってはいられ
ないわねまた1941年8月9日に大西洋
会談において体制洋検証を発表し戦後国際
社会の構築でも協力することを表明する
さらにソ連もそれに賛同したことにより
連合国が成立しチャーチルはその指導者と
して戦後世界の枠組の中心的役割を果たし
ていくこととなる世界が2つの派閥に
分かれたわけね1941年12月8日には
日本軍の新珠湾攻撃から太平洋戦争が勃発
し日本に戦線布告したまたこれおきに
アメリカが参戦し日本及びドイツイタリア
とも戦うことになりチャーチルはそれを
歓迎したとされるがこれも疑問だなそうな
のチャーチルにとってヒトラーのナチス
ドイツは西洋文明の歴史と伝統の根幹を
脅かす的であり妥協の余地のない相手だっ
たこれに阪日本の場合には国数主義や海外
への侵略熱もやが収まりかつての懸命さと
節度を回復することを期待していた何度も
説得してたものねそれを支えたのは日栄
同盟の良時代の記憶であり日英海軍協力の
経験からださらに母から学んだ長い歴史
伝統文化の日本の姿があったチャーチルに
とって日本は有効の対象であり敵として
戦うべき国ではなかった日本はそんな国
じゃないって思ってたのかチャーチルは
米国を参戦させるために日本を戦争に
引き込もうと画策したという説がよく唱え
られるだが彼の言動にそれを証明するもの
は見当たらないんだ全然違うじゃない
例えば1940年夏豪州ニュージーランド
の首相宛ての所管でチャーチルは日本軍閥
が強行で交渉が決裂する恐れがあるところ
では譲歩しその危険がない場合には譲ら
ないようにして日本との戦争を回避する
ため最善を尽くすことであると述べている
むしろ日本を巻き込まないようにしてるわ
ねさらに後の解雇録では私は1922年
40年前に日英同盟に賛成表を投じ常に
島国の日本帝国と良い関係を促進するため
に最善を尽くしてきたのであり心の中では
いつも日本国民によかれと願いまた日本人
の多くの天文と支出を賞賛してきた1人で
あったので日本と英語県の諸国との間で
紛争が開始されるとしたならばそれを深く
悲しむものであると語っている日本の戦争
参加を反対してたのねまた米国が極東に
所有する歴史的に古い権益はよく知られ
いる米国は太平洋の平和を保全する法を
見つけようと最大限の努力をしているその
努力が成功するかどうかは分からない
イギリスと同じくアメリカも東アジアと
古く付き合いがあるものねしかしもし米国
がそれに失敗し日本との戦争に巻き込ま
れることになれば私はこの機会に英国が1
時間以内に戦線告すると申し上げるその
ように懸命することが私の義務であると
語っているイギリスが責任を負うってこと
かさらにアタンたる風景をできるだだけ
感情を交えずに見るならば日本国民が全く
必要もないのに世界的な闘争に飛び込むと
いうことは非常に危険な冒険であるように
見えると日本とアメリカの戦争について
語っているまさにその通りだったわねその
闘争では日本は人類の3/4を占める諸国
と太平洋で対立するのであるもし鉄鉱が
近代線の根本的な基盤であるならば年間
鉄鉱生産がわずか約700万Tしかない
日本のような国が今や約9000万Tの
鉄鉱を生産する米国とその必要もないのに
闘争を誘発するのはかなり危険なことで
あろうこの9000万TにはA帝国が
力強く貢献できる分は含まれていないので
ある元々の国力が違いすぎるわねしって私
は日本の最も懸命な政治家が持っており
すでに明らかにされている願望に沿って
太平洋の平和が保存されることを希望する
しかし極東における英国の権益を防衛し
現在危機に品している共通の利益を防衛
するためのあらゆる準備がなされてきたし
今なされつつあるのであると反対している
そりゃ日本が負けるのは明らかだったわけ
だものしかしチャーチルが収支一貫して
努力を惜しまなかった日本への説得は身を
結ばずかつての同盟国は戦火を交わすこと
となってしまった戦後チャーチルは日本
担当の専門家のうちでごくわずかのもの
しか日本人の思考の動きを本当に把握して
いなかった日本人の考え方は実に不可解で
あったと述べている今までの日本と違った
のかしらねさらに第2次対戦解雇6で対日
説得が失敗したことについて日本が英国と
米国ついにはおそらくソ連と戦争をして
自滅しようとは思いもよらなかった日本が
戦戦布告することはどうしても理屈と
噛み合わなかったのであると日本の姿勢に
ついて語っている賢くて堅実な日本人では
なかったわけかさらに日本が正気を失う
ことはないであろうとの確信を自分は
ためらわずに何度も書き記してきたいかに
他人の立場に自分を置こうと誠実に務めて
も理性が鍵を開けてくれない人間の心の
動きと思考の過程を鑑みることは不可能で
あるだが正気でないということは戦争に
おいては人を驚かす利点を伴った1つの
病気なのであると語っている戦争という
病気なのかもしれないわねチャーチルは
原爆についても語っている1940年半ば
から翌年連合国指導者としてはいかなる
武器を行使しようともできるだけ早期に
戦争を終わらせる必要に迫られていた
そしてポツダムに集まった連合国は市場
初めての原爆使用にしなかったチャーチル
は原爆についてどう考えてたのチャーチル
はこの点についていずれにせよ原爆を使う
べきか田舎については何らかの時間を
費やしての討論もなかった23回の爆発に
よって巨大で再現のない殺戮を回避し戦争
を終わらせ世界に平和をもたらし敷いたげ
られた世界の人々に癒しの手を差し伸べる
ことができるということは我々がそれまで
あらゆる苦難と危険を経験した後では救い
の奇跡のように思われたのであるとって
いるイギリスとしても長い戦争に疲れてた
のね戦後についてチャーチルが参加した
体制洋検証以降の連合国の戦後処理構想は
アメリカ大統領とのアルカディア会談
そして連合国共同宣言発表に合意したこれ
は連合国の結成の第一歩となり戦後の国際
連合結成につながっていくこととなる
ついに戦争集結かさらに43年1月には
カサブランカ会談で北アフリカ戦線を形成
することに合意しドイツイタリアを
追い込んでいった11月には回路会談で
ローズベルトともに哨戒石と怪談日本に
対する無条件幸福を求めることで一致した
それんとはどうしてるの続いて12月に
テヘラン会談で初めてソ連のスターリンを
加えて米英ソ3国の最初の首脳会談を開い
たソ連を警戒するチャーチルはスターリン
の要求に対して対立したがファシズムに
対する理念では一致し10月には
スターリンとの間で協定を作っているそれ
んとも協定は組んでるんだそして1944
年6月にノルマンディ上陸作戦を観光
さらにドイツ本土空爆を展開し45年2月
のヤタ会談でドイツ日本の敗戦を前提に
戦後世界の構築について協議し国際連合の
設立を約束したそしてまずはイタリア
ドイツの敗北となるわけねヨーロッパでの
戦闘が終わって実施された1945年の
イギリスの総選挙では以外にもアトリーの
率い労働党が勝利した戦争に苦しんでいた
国民は平和の東来と共にチャーチルを
見放した格好となってしまうそれも気の毒
ね当時はドイツの戦後処理とまだ好戦中
だった日本に対する無条件幸福韓国につい
てのポツダム会談が開催中だったが
チャーチルに変わって途中からアトリーが
参加することとなったイギリスもまだまだ
混乱してるわねしかし1951年10月に
チャーチルが首相の座に帰りざいた頃日本
が外交自主権を失い停滞していた日英関係
はサンフランシスコ平和条約の教員によっ
て外交関係が復活し再び動き出す天気を
迎えてたやっぱり日本を大事にしてたんだ
第2次チャーチル内閣が日英関係の分野で
手掛けた最初の主要な案件は1953年4
月から6月にかけての交代使の英国訪問だ
父の代わりにエリザベス2世女王の体感式
に出席するとともに王室を持つ欧州諸国を
歴訪して各国の国上について学ぶためだっ
たそうか皇室が放映するのかところが
イギリスと日本との関係は好ましい状態で
はなく戦時中の英国や永連邦諸国の捕虜の
虐待を球団する激しい半日感情が湧きたっ
て険悪な空気に包まれていたばかりか日本
の不公平な貿易競争に対する恐怖が戦前
からまだ根強く残っていたそれはまず交代
使の身の安全が心配ねチャーチル師匠も
心配して両国が憎しみから早く脱却して
良好な関係を作り出すことが双方の国益で
あり世界平和のためにも大切であるとの
認識のもにまず不祥事を防ぎ世論を少しで
も緩和させて交代使の訪問という重要な高
行事を進め関係改善につなげようとした
まずは王室と皇室の関係からね実は初めは
1953年2月末に公表された最終日程案
には英国政府が主催する歓迎の行事は何も
予定されていなかったそれは英国外務省が
訪問の成功を願いつつも世論の手前苦慮し
ていたからだ歓迎すらされてなかったのか
しかし2週間後にはチャーチル首相が極秘
の誤参会を主催すると当時の松本大使に
連絡があったこの時チャーチルの意気込み
には何々ならぬものがあった国内の半日
感情を抑えるためにこの機械を活用しよう
というチャーチル首相の強い意向が働いて
いたへえまたチャーチルは誤3回の主祭
ばかりでなくエリザベス女王との謁見のひ
を他国代表に先駆けて設定するように気を
配ったそれと並んで当日チャーチルは官邸
の玄関で自ら交代使を出迎えると広間に
案内しそこで全首相はめ招待客に順々に
紹介したすごい対応じゃないさらに本大使
から交代使が馬が好きだと聞くと早速実質
にあった2等の馬のブロンズ像を持ってこ
させて食卓の真ん中に置いたそれは彼の母
の日本旅行の記念品であり彼は修正大事に
していたんだああ思い出のチャーチルは
右側に座った交代師に話しかけ交代使の
語りかけにもいちいち頷いたりしながら
真剣な持ちで横代したまた交代使も当時
79歳となり低い声が聞き取りにくくなっ
たチャーチルをばかって時々耳元近くで話
したそうだ素敵な関係ねその後チャーチル
は立ち上がり1分ほど黙ったまま周りが
静まり返るのを待ってから10分ほど演説
した予定外のものだったが電荷は非常に
幸福な青年であるなんとなれば自分のよう
な老人と違ってはせ去った過去に行きずに
明るい全とを持っておられるからである
これからの世界が平和に向かって
るってことね次に電荷の愉快で成果の満た
将を祈りたい過去解雇せざるを得ない老人
は確かに成功ばかりでなく人間の性に隙間
とう誤ちや不運の経験をどうしても
思い出すのである過去のことはどうしても
思い出すものねそしてここに集まっておら
れる人たちは政治的にはそれぞれ異なった
意見を持っている我々は所属する党が
異なると随分激しく争が英国龍のやり方を
大切にしそれを擁護するという点では一致
団結するのが英国人の特徴でありそのため
に我々英国民は最後の人生最後の地の一滴
までかけて戦うふんふんまた英国民の生活
が安定し継続しているのは英国の制度特に
立憲君性のおかげであるそのような英国民
は一致して電荷をお迎えする電荷の英国
大罪が楽しく興味があるものであって何か
を学ばれるものであることを心から願う
ものである王室があるイギリスならではの
意見ね続けて英国人のやり方をご覧になっ
てほしい英国も日本も君主を持っていると
いう点で共通の中隊を持っている英国では
君主は君臨するが統治はしない君主は謝ら
ないという格言が英国にあるがそのことも
をお心に止めておいていただきたい君臨
すれど統治せずかさらに政治家が誤りを
犯せば国民が選んだ議会によって交代させ
られる間違ったことをやればそれは政府の
責任だし事実政府は間違ったことばかり
やっているという人が多いかもしれない
政治家の厳しいところねそしてこの食卓に
飾られている一つの聖堂の馬の置き物は
自分の母が1894年に日本から持ち帰っ
たもので自分も愛光しているこれを母に
送った日本人は日本にはいう美術を作る
文化があったのに西洋人はそれを認めよう
とせずにや万国のように扱い日本が何色か
の軍艦を持つようになって初めて一流国と
して日本を認めるようになった今までの
日本の評価を不当としたわけかこれは本当
に岩竹のある言葉であるどの国もこのよう
な美術品の政策に勢力を用い軍備には金を
費やさないで住むようにしたいものである
戦争より平和が大切である日本のために
ここで電荷の健康を願わなければならない
日本に対するの応援ね後の吉田師匠との
怪談のせいか日本を嫌っていると思われ
がちなチャーチルだがそれどころか当時の
欧米で考えるとむしろとんでもなく日本美
だったんじゃないかな情勢も正しく読めて
いて本当に優秀な政治家だったんだと思う
わこの動画で改めて日本のことと
チャーチルという人物を知るきっかけに
なってくくれると嬉しいなということで
今回の解説はここまでだぜ次回も是非見て
くれよなチャンネル登録高評価もよろしく
ねご視聴ありがとうございました
