十字軍の歴史
ことの始まりは7世紀に遡ります。
アラビア半島にイスラム教が生まれて以来、
アラブ人は他方面への征服に乗り出し、
一世紀たらずで勢力を急拡大。
中央アジア、アフリカ北部、
引いてはイベリア半島にまで支配地を広げました。
ちょうど地中海を境に南側がイスラム勢力、
北側がキリスト勢力という構図になったのです。
キリスト勢力の中でも西側のローマカトリック教会と
東側のギリシャ聖教会で対立し、
後者はビザンツ帝国という一大国家を形成していました。
当初、情勢は落ち着いており、
キリスト教徒はイスラム勢力下にあるエルサレムへの
聖地巡礼ができていました。
エルサレムは3つの宗教が聖地としています。
10世紀の終わり頃、
中央アジアで遊牧民集団を率いていたセルジュークが
イスラム勢力圏にあるトランソクシアナに移住し、
イスラム教スンニ派に回収しました。
彼の子孫らが発展させたセルジューク朝は、
対立するシーア派勢力を征服しながら、
エルサレムにまで到達。
この地を支配していたシーア派のファーティマ朝から
聖地を奪取しました。
これを機に、キリスト教徒は聖地巡礼を制限され、
迫害を受けました。
勢力を広げるセルジューク朝は、ビザンス帝国にも進行し、
その首都コンスタンティノープルの眼前にまで迫ります。
ここで、ビザンス皇帝アレクシオス1世コムネノスは、
西のカトリック教会に助けを求めました。
カトリックの頂点であるローマ教皇のウルバヌス2世は、
これを懐抱。
東の聖教会を助けることでこちら側に取り込み、
東西分裂していたキリスト勢力を一つにまとめるチャンスと見たからです。
早速、フランスのクレルモンにカトリックの聖職者や貴族を招集。
イスラム勢力を倒しながらエルサレムまで遠征し、
彼らに奪われた聖地を取り戻そうと演説しました。
人口が増えすぎていたフランス人にこの上ない神殿地を示したこと、
また犯罪者はこの遠征に加われば免罪されるという宗教的お墨付きを与えたことから、
この演説は熱狂的に支持されたのです。
想像以上に多くの人々が遠征したがり、参加を求めていない農民までもが勝手に武装放棄。
彼らは仲間の識別記号として十字模様の服や旗をまとい、十字軍と呼ばれるようになりました。
エルサレム奪還のビジョンに熱狂する民衆はあちこちで独自組織を作ります。
貴族が主導する正式な十字軍も編成され、装備の整った熟練の兵士が集められました。
一方、民衆が勝手に集まった組織のことを民衆十字軍と言いますが、
こちらはろくな装備も戦闘経験もなく、子連れの女性や病人まで参加していました。
重労働や貧困に苦しむ現状から逃げ出したかったのです。
民衆十字軍は3355を遠征し始めますが、食料に困れば道すがらで略奪に走ったり、
異京都であるユダヤ人に出くわせば虐殺したりと乱暴労籍を働いていました。
そんなことをしながらハンガリーまでたどり着くものの、やはり現地人とトラブルになり、大小様々な武力衝突で弱体化しました。
十字軍が生まれるきっかけを作ったアレクシオスは、自分が求めていたのと違うこの粗雑な軍団を煙たがり、
さっさとコンスタンティノープルを渡らせてイスラム勢力との境界線付近に送り出します。
民衆十字軍はここでも食料の略奪などをしながら、
本来の攻撃目標であるイスラム王朝ルームセルジューク朝の首都ニカイアに迫りました。
しかし、統率の取れたセルジューク軍の返り討ちに遭い、あっけなく壊滅したのです。
過労死で生き延びた2000人がビザンツ海軍の庇護を受けながらコンスタンティノープルに戻り、
これからやってくる正規の十字軍に合流すべく待機します。
しかし、やってきた正規の十字軍を見たアレクシオスは、自分の想定を遥かに超える軍の大きさに驚き、その扱いに困りました。
先に来た民衆十字軍がオソマツで撃撃していたこともあり、十字軍に不信感しかなかったのです。
そこで、食料や資金の援助はするものの、遠征が成功した暁には、獲得領土をすべてビザンツ帝国に明け渡すよう要求。
十字軍は反発し、仲間討ちでの戦争にすらなりかけましたが、最終的になんとか打決。
いよいよ十字軍のイスラム侵攻が始まります。
1097年、第一回十字軍はコンスタンティノープルを出発しました。
早速、敵の首都ニカイアを落とすことに成功すると、アンティオキアの岸前までは順調に進軍。
しかし、この大都市を取り囲むことはできても征服には苦戦し、長い後着状態に入ります。
セルジューク帳は名目上一つの巨大帝国ですが、実体はいくつもの小さな公国に分裂し、それぞれが勢力争いに明け暮れていました。
そのため、アンティオキアも周辺都市からの支援はほとんど来ません。
十字軍からの包囲に単独で粘ったものの、7ヶ月後に陥落。
十字軍はマーラも征服し、どちらの都市でも精算な虐殺を行いました。
この噂がたちまち広まり、周辺の街は同じ目に合わないようにと服従。
そのため十字軍はやすやすと南に進めました。
ちょうどこの頃、エジプト周辺を統治するイスラム教シーア派のファーティマ帳が、セルジューク帳の内乱に乗じてエルサレムを奪取していました。
迫りくる十字軍には同盟を呼び掛け、礼拝目的でエルサレムに出入りする自由は保障すると提案するも、十字軍はこれを拒否。
ついにエルサレムの岸前にまで到達し、先のアンティオキアと同様、包囲戦が始まりました。
そして1ヶ月ほどの包囲を経た1099年7月15日、念願のエルサレム奪還に成功したのです。
十字軍は市内のイスラム教徒やユダヤ教徒のみならず、政教会側のキリスト教徒まで虐殺しました。
十字軍の指導者らは、征服した各地に十字軍国家と呼ばれる国々、具体的にはエデッサ伯国、アンティオキア公国、エルサレム王国などを建国していきます。
エルサレムはゴドフロワード・ヴィオンが首長になるもほどなく死去し、弟がボードワン一世として後を継ぎました。
十字軍の目的が達成された今、多くの兵士がヨーロッパに帰省し、エルサレムを守る兵数は大幅に減りました。
そのため、新たに3つの十字軍が編成され応援に向かうも、セルジューク領に入ってほどなく全ての軍が壊滅させられました。
それでも、エルサレム王国はファーティマ町からの侵攻を複数回に渡って退け、他の十字軍国家もセルジューク町の内紛に乗じて勢力を広げました。
また、北イタリアの都市国家であるピサ、ジェノバ、ベネツヤなどが海から物資を供給。
十字軍国家にとっては頼れる補給船となり、イタリア都市国家もこの輸出で大儲けできました。
1109年、十字軍は裕福な高安都市トリポリも征服。知恵の館と呼ばれる大図書館を焼き払い、トリポリ白国を建てました。
他の高安都市ティルスやアスカロンは十字軍の侵略に抵抗し続けたり、内陸都市アレッポやダマスカスは十字軍と和平を結ぶなど、状況はバラバラです。
そんな中、1115年、十字軍を駆逐すべくバグダットから強大な軍が送り出されました。
しかし、十字軍とすでに平和共存しているアレッポやダマスカスはこれを望みません。バグダット軍を追い返すため、十字軍に味方すらしたほどです。
ある程度情勢が落ち着いてくると、聖地巡礼者の安全を守る組織、聖ヨハネ騎士団が結成。
同じ目的の民兵組織もできました。
後世人の一部はエルサレムにある神殿の丘に定住し、類似組織テンプル騎士団を結成しました。
アンティオキア公国は、遠征で手に入れた領土の割情を求めるビザンツ帝国との間でたびたび揉めています。
1143年、エルサレム王の自己死に伴い、13歳の息子ボードワン三世が即位。
まだ幼いため、母メリザンドが摂政を務めます。
子供と母親が十字軍国家を束ねるこの状況を逆襲のチャンスと見たイスラム指導者ザンギーは、十字軍国家の一つエデッサ白国を奇襲し、1ヶ月も経たないうちに征服しました。
これを受けてローマ教皇はエデッサの再脱出に向け、第二回十字軍を組織。
今回はイングランドも火星します。
十字軍はまずポルトガルに立ち寄り、リスボンをイスラム京都から奪還する運動に協力しました。
第二回十字軍は、神聖ローマ帝国の皇帝コンラート三世が軍を率い、フランスでも国王ルイ七世が軍を率いるという、国の君主が直々に参加する遠征となりました。
しかしセルジューク軍からの度重なる反撃に苦しみ、大幅に弱体化。
それでもわずかな生存者がカイロでどうにかエルサレムまでたどり着きます。
彼らは本来の奪還目標だったエデッサではなく、ダマスカスへ進行することに。
エデッサを落としたザンギーの死居に伴い、息子ヌールディーンがザンギー帳をまとめていましたが、
いかんせん勢力が強く、ダマスカスの方がまだ落としやすいだろうと判断したからです。
しかしそのダマスカス進行は失敗。
落胆した君主らはヨーロッパに帰り、第二回十字軍はほぼ何の成果もなく終わりました。
それどころか、ヌールディーンはこの機に乗じてダマスカスを併合し、この地域のイスラム勢力を統一することに成功。
キリスト勢力にとって形勢は悪化したのです。
エルサレム国王ボードワン三世が死去すると、弟のアモーリーが後を継ぎました。
その頃、エジプト一帯を支配するファーティマ朝は内部の権力闘争でクーデターが頻発。
エジプトを支配するチャンスとみたアモーリーは、遠征を始めます。
ファーティマ朝の最初は、同じイスラム仲間であるザンギー朝のヌールディーンに応援を要請。
エジプトがキリスト勢力の手に落ちてはならないということで、ヌールディーンは最も優秀な将軍シールクーフを送ります。
数年間の戦争を経て、最終的にこのシールクーフがエジプト一帯を掌握しました。
ところが彼は2ヶ月後に急病で死去し、老いのサラーフディーンが後継ぎに。
彼は力をつけると、ザンギー朝を無視して独立、つまりファーティマ朝の幕を閉じ、自らの王朝アイユーブ朝を始めたのです。
1174年、ほぼ同時期にヌールディーンとアモーリーが死去すると、どちらも未成年の息子が後を継ぎました。
これを征服のチャンスと見たサラーフディーンはすぐさまザンギー朝に進行し、10年もしないうちにザンギー朝を併合しました。
1185年、エルサレム王ボードワン4世がハンセン病により24歳で死去し、その翌年には後継ぎの息子ボードワン5世も7歳で死去。
折衝だったギード・リュジニャンが後を継ぐも、彼と親しかった貴族ルノード・シャティオンが災いをもたらします。
十字軍国家の一つアンティオキア公国を治めるルノーは暴虐で、ビザンツ領だったキプロスを襲撃、略奪したり、
アイユー部長との定戦協定を破ってメディナやメッカに進行するなどしていました。
また彼は拠点とするカラクの要塞から近くのアイユー部領を通るイスラム商人を大義名分なく襲撃したのです。
こうした行為に起こったサラーフッディーンは十字軍国家を終わらせるべく、ダマスカスにアイユー部全軍を集結させました。
強力なアイユー部軍はエルサレム王国の都市ティベリアを包囲し、あちこちの井戸を埋め立てて敵の水分補給を妨害しました。
そのため迎撃に来た十字軍はティベリアに到達こそできたものの、喉はカラカラです。
アイユー部軍は近くの湖に至る道路も封鎖した上、そこらの谷部に放火するなどして十字軍を着実に追い詰めました。
結局十字軍は有効な反撃をできず敗北。
ことのきっかけを作ったルノーは処刑され、エルサレム王ギーも捕虜になりました。
そこからサラーフッディーンは十字軍領をみるみる飲み込んでいき、ほぼ全域を支配下に。
ティルス、トリポリ、アンティオキアとごく一部の都市だけが抵抗しました。
そのうちの一つティルスではイタリア貴族のコンラートが十字軍援護に駆けつけ、アイユー部の大軍を撃退。
捕虜になっているギーに代わって求心力を高めました。
そんなコンラートの存在を脅威に感じたサラーフッディーンはあえてギーを解放し、権力の座をめぐる内輪揉めを起こさせようと画策します。
コンラートは国を大敗させたギーに王の資格などないとしてティルスへの入場を拒否。
加えてアイユー部に反撃すべく新しい軍を組織し、近隣都市プトレマイスに進行し始めました。
ここにヨーロッパからの援軍、第3回十字軍も送り込まれ、反撃ののろしをあげるのです。
第3回十字軍は3人の国王が率いる3つの軍からなります。
まず神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の軍が陸路で遠征を始めました。
途中で迎撃に来たイスラム軍を撃破し順調に進むかと思いきや、フリードリヒが川を渡る際に溺れ死ぬというアクシデントが発生。
大半の兵士が帰ってしまいました。
フランス王フィリップ2世とイングランド王リチャード1世の軍はそれぞれ回路で遠征します。
イングランド軍は一旦キプロス島に上陸すると島を征服して新しい十字軍国家を立てました。
それからプトレマイスに上陸すると英仏軍によりこの都市を奪還することに成功し、都市名をアッコと改めました。
しかし元々英仏は仲が悪くフランス軍はここで引き上げたため以降イングランド軍のみが遠征します。
それでも強力な艦隊のサポートにより海岸沿いに征服地を広めていきました。
さらにアイユーブ軍との全面対決にも勝利したイングランド軍ですが、肝心のエルサレムには進行しませんでした。
内陸のエルサレムまで行くと海からの補給が行き届かないことや十字軍国家も一枚岩ではなく十分な援護が期待できなかったことなど複数の要因があります。
そのためリチャードはサラーフディーンと交渉し、エルサレムへ進行しない代わりにキリスト教徒の聖地巡礼は許可すること、そして3年間停戦することで手打ちとしました。
何も果たせなかった第2回と違い、一定の成果は出せた第3回だったといえます。
翌年サラーフディーンが病死すると広大なアイユーブ領は一族によって分割統治されることになりました。
1198年ローマ教皇インノケンティウス3世はやはりエルサレムを奪還すべく第4回十字軍を発足します。
今回はまずエジプトに進行することに、豊かで先進的なこの地を支配し体制を固めてからエルサレムに向けて北上しようというわけです。
軍艦の用意や兵士の輸送はベネツヤが一手に受け負い、その分十字軍から多額の報酬を受け取る契約が成立しました。
しかし十字軍はこの報酬を用意しきれなかったのです。
そのためベネツヤに言われるがまま近くの都市ザラを攻撃することに協力させられました。
というのもこの都市は従来ベネツヤの支配下にあったのですが、ハンガリーの影響下に移っていたためベネツヤはザラの支配を取り返したかったのです。
ただそうは言ってもハンガリーはキリスト教カトリック国家であり、カトリックがカトリックを攻撃するという初めての事態になりました。
さらにその後ベネツヤは十字軍にコンスタンティノープルを攻撃するよう説得します。
同じキリスト教でもベネツヤはカトリック教会、コンスタンティノープルは聖教会という対立構造がある上、経済的にも両者はライバル都市であるためベネツヤはコンスタンティノープルを支配したいわけです。
こうして十字軍はコンスタンティノープルを占領し、略奪と虐殺の限りを尽くしました。
もう最初の目的であるエルサレム奪還とは全く関係ありません。
神聖なキリスト教会であろうが破壊し尽くすありさまでした。
ビザンツ帝国は解体され、十字軍国家やビザンツ人の残党国家が乱立しました。
生き延びたビザンツ人は起こり、キリスト勢力の東西分裂は決定的に。
そもそも第一回十字軍を始める時にローマ教皇が望んでいた東西統一とは真逆の結果がもたらされてしまいました。
ビザンツ人の残党国家であるニカイア帝国はこの50年後にコンスタンティノープルを奪還しビザンツ帝国を復活させますが、もうかつての力を取り戻すことはありません。
ライバルを落としたベネツヤはヨーロッパ最大の貿易大国となりました。
1213年、第4回の結果に失望したインノケンティウスは第5回十字軍を立ち上げます。
フランスの十字軍は南フランスで生まれた反乱勢力と戦っていたため、エルサレムへの遠征はハンガリー王とオーストリア皇が主導します。
その後、ゴラン高原の戦いでうまくいかなかったことから、エルサレムの前にアイユ部長の本拠地であるエジプトを攻略すべきと判断。
公安都市ダミエッタを奇襲しました。
するとアイユ部長から、ダミエッタを返してくれれば旧エルサレム王国の領土を返還するとの和平案が出されます。
これは十字軍にとって美味しい条件でしたが、イスラム教徒との和平自体を望まない人や、エルサレム奪還よりエジプトの商業利権を奪いたがる人が反対し、和平には至りません。
こうして進行を続けた十字軍ですが、マンスーラ付近で雨季によりナイル川が氾濫し始めます。
激しい雨や泥で身動きを取るにも苦労し、退路が立たれそうな状況になりました。
これでは全軍虐殺されかねないということで、十字軍は降伏し、ダミエッタを返還したのです。
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、エルサレム王の娘と結婚したことで、次期エルサレム王になります。
宗教的に寛容な彼は、以前から十字軍遠征の命を受けても乗り気ではなく、何かと延期し続けたため、ローマ教皇から破門されました。
彼は元々イスラムやアラブ世界に興味があり、アラビア語を習得していた上、エジプトを治めているアル・カーミルとは文通すらしている中でした。
そのカーミルもシリア地方を治める兄弟と争っており、十字軍とまで争いたくありません。
交渉の結果、エルサレムを十字軍に譲り渡すことで合意。
新しい国境案にも合意し、お互い宗教的に寛容であろうと約束しました。
こうしてフリードリヒは一切戦うことなくアッコに上陸し、エルサレムを取り戻す実務作業が進められました。
また、十年間の定戦協定も結ばれました。
フリードリヒはエルサレムに三日だけ滞在した後、本国の問題に対応すべくヨーロッパに帰りましたが、
これはつまりエルサレムが国王不在の不安定な状態になるということでもあります。
そのため、タイイスラム高派であるテンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団、新設されたドイツ騎士団、
そしてイタリアの勢力がそれぞれ独自の政策を展開するという混乱が起きました。
カーミルが死去し、十年間の定戦期間も終わると、再びエルサレムを取り合う争いが起き始めます。
そこでローマ教皇グレゴリウス9世は、新たな十字軍、バロン十字軍を呼びかけました。
フリードリヒはこれに応じず、ほぼフランス軍のみの小規模な軍になります。
アッコに到着する頃、エルサレムはイスラム勢力によってやすやすと取り返されていました。
それでも十字軍はシリア地方とエジプト地方の内紛を利用してうまく立ち回り、
エルサレムを含め各地の支配を取り戻していきました。
東では、1221年以来、モンゴル帝国がペルシア地方を征服していました。
モンゴルに住処を追われた先住民は放浪者となり、傭兵として政権を立てたり、行き先々で略奪を働くなどしていました。
アイユー部長はそんな放浪者を招き入れて手を組み、エルサレムを襲撃、再び支配を取り戻します。
これに対しフランスのルイ9世が第7回十字軍を発足しましたが、他の国は内政の問題などから参加しません。
十字軍はまずエジプトに狙いを定め、ダミエッタを占領しました。
第5回と同じように、アイユー部長からダミエッタを返してくれればエルサレムを返還するとの和平案が出されます。
十字軍は第5回同様これを拒否し、征服を続けました。
そのためマンスーラで十字軍はマムルーク軍と対決。
マムルークはユーラシア大陸中央の草原地帯から生まれた軍人奴隷で、ここではアイユー部長に仕え戦争に加勢していました。
戦いの結果マムルーク軍が勝利。ルイを含む多くの十字軍兵が捕虜になりました。
またその解放交渉をしている最中にアイユー部長へのクーデターも起こされ、マムルーク長が誕生しました。
第5回同様ダミエッタは丸ごと返還することになったほか、ルイの解放にも多額の身のしろ金が支払われています。
挽回を目指すルイは一旦悪戸に移って勢力拡大を図るも成果は出ませんでした。
強大になったモンゴルはさらなる領土拡大を目指します。
ペルシア地方を治めるフレグが領土をエジプトまで広げる任務を与えられました。
1258年フレグ率いるモンゴル軍はバグダットを徹底的に破壊虐殺し、君主も殺害したことでアッバース町を滅亡させました。
続けてアイウブ領まで侵攻し、アレッポ、ダマスカスと立て続けに攻略します。
これを見た十字軍国家の大半は虐殺を避けるべくモンゴルに服従する方針を示しました。
加えて十字軍の中でもベネツヤ及びテンプル騎士団の勢力とジェノバ及びセイヨハネ騎士団の勢力が対立し、
今モンゴルに攻められても立ち打ちできない混乱状態に陥ります。
しかし十字軍にとって幸いなことに、ここでモンゴル皇帝のモンケが死去したのです。
フレグは後目争いのため軍の大半を本国に連れ戻し、モンゴルの脅威は去りました。
ところが今度はマムルークの軍が動きます。
まず少数だけ残っていたモンゴルの駐在兵を殲滅。
そのままアイユーブリオを飲み込み、君主の座についたバイバルスは十字軍勢力も駆逐することを目指しました。
こうして1268年、まずはアンティオキア公国が滅亡させられたのです。
第7回を率いたルイ9世により、新たに第8回十字軍が編成されました。
今回の上陸先は北アフリカの都市カルタゴです。
ここ、ハフツチョウの君主はキリスト教への改修を考えたこともあり、仲間として取り込める希望があったからです。
しかし結果的に十字軍は拒絶され反撃に遭い、ことは進みません。
倉庫をするうちに十字軍の野営地にペストなどの伝染病が蔓延し、ルイは病死しました。
ハフツチョウとの和平が結ばれ、十字軍はヨーロッパに引き上げる代わり、ある程度の見継ぎ物をもらったり、宗教行事のためであればこの都市を訪れることが許可されました。
その後になってイングランドのエドワード率いる第9回十字軍が駆けつけるも後の祭りです。
そのため上陸先をアッコに変え、マムルークチョウとの急戦を取り付けました。
急戦期間が終わるとマムルーク軍は再び進行し、トリポリ白国が滅亡。
アッコが十字軍国家最後の砦となりますが、この公安都市は貿易拠点として各方面に恩恵をもたらしていたため、しばらくは見逃されます。
しかし1291年、イタリアの小規模な軍勢がイスラム商人の街を襲撃、虐殺しました。
これはマムルーク軍によってすぐに鎮圧され、その流れでついにアッコも陥落させられたのです。
マムルークの虐殺から逃れたキリスト教徒はキプロス島に行き着きました。
十字軍残党組織の一つドイツ騎士団はバルト地方の非キリスト教地域を征服することに方針転換しました。
別の残党組織聖ヨハネ騎士団はビザンツ寮だったロドストンに定着し、イスラム教徒に海賊行為を働く形で戦い続けます。
そしてテンプル騎士団はローマ教皇によって廃止されました。
1522年、強大なイスラム国家に成長していたオスマン帝国がロドストンを支配すると、追い出された聖ヨハネ騎士団はマルタ島に避難し、イスラム相手の海賊を続けました。
しかしそれもフランス皇帝ナポレオンボナパルトによって終わらせられます。
彼はエジプトに遠征する足掛かりとしてマルタ島を占領し、聖ヨハネ騎士団はほぼ力を失いました。
10年後、ヨーロッパを広く支配したナポレオンはドイツ騎士団も解散。
2世紀にわたる十字軍運動が幕を閉じました。