【世界的大勝利】日本がロシアに圧勝!その理由とは・・・【日露戦争】
2024/11/04
国を守る、家族を守るために戦った軍人たちの物語を投稿します。
日本人だけではなく、世界中に誇り高き物語があります。
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日本軍が起こした20世紀最大のオーバンクルワセをご存知でしょうか?
1904年に勃発した日露戦争で日本軍は国力10倍、兵力10倍、世界最強と言われていたロシアに勝利したのです。
歴史上稀に見るオーバンクルワセは世界中を驚愕させました。
その日露戦争の中でも日本海軍が圧勝したパーフェクトゲーム、日本海海戦について今回は解説したいと思います。
忍び寄る決戦の足音
19世紀半ば日本では徳川が治める江戸幕府は終わりを告げ、新政府による急速な近代化が進められました。
そう明治維新です。
明治維新では様々な政策が行われ、現代の社会の基盤となる制度が多く確立されました。
社会制度だけではなく教育、文化も時を同じくして大きな変化を迎えます。
当時の日本は欧米諸国を強く意識し、それらの国を徹底的に参考にしました。
こうして急速に国力をつけた日本はある国と戦い、世界に名が知れ渡ることとなります。
ある国とは現在の中国の前身であるシンです。
シンは当時アジアを代表する大国で眠れる獅子と評され、欧米諸国からも一目を置かれていました。
そんなシンに対して日本は兵力差では劣りながらも大勝してみせたのです。
陸軍の兵力は日本が24万人に対してシンは98万人とおよそ4倍。
日本海軍の保有する軍艦、水雷艇は合計52隻。
一方シンは107隻とおよそ2倍。
これほどまでに兵力差がある中での日本の勝利は世界を驚かせました。
勝利した日本はリアオトン半島、台湾ホウコ諸島の領土、さらに賠償金、現在の1000億円相当を獲得しました。
この金額は当時の日本の国家予算の3倍に相当する金額です。
その他にも日本が大陸に今後進出する際に足掛かりとなる朝鮮をシンから独立させるよう命じます。
この結果に欧米諸国からの日本の注目度は急激に上昇。
欧米諸国は急速な近代化を遂げた島国、日本を無視できない状況になっていたのです。
これは当時の帝国主義を掲げる国々の熾烈な争いに日本も参戦していくことを意味します。
帝国主義とは自国の繁栄を目的に他国を侵略し支配する思想・政策であり、主に欧米諸国に浸透していました。
この動きは凄まじく、アフリカ、アジア、オセアニアで多くの国が欧米諸国に植民地支配を受けたのです。
日本も属するアジアの中で植民地支配を免れた国は2国しか存在しません。
皆さんはこの2カ国がどこの国かご存知でしょうか?
それが私たちの国日本と微笑みの国タイです。
タイはイギリスの植民地だったインド・ビルマと、フランス植民地だったベトナムの中間位置にあった幸運と、外交政策によって植民地支配を免れました。
では日本は欧米諸国による帝国主義の時代をどのように生き残ろうとしたのでしょうか?
その方法は戦うことでした。
日本は真に勝利した後間もなく更なる大国と戦ったのです。
その国の名はロシア帝国。
当時ロシアは西はポーランド周辺から東はユーラシア大陸の東の端までと巨大な帝国を築いていました。
ロシアは極寒の気候で港が凍って使えないことが多く、南方の港を獲得するべく領土拡大を狙っていたのです。
リアオトム半島はロシアが欲しがっていた領土、そこを日本が日清戦争で獲得しています。
そのためロシアはフランス、ドイツと手を組み、日本にリアオトム半島を真に返すよう三国干渉を行い圧力を強めます。
この時日本に欧州の強国に単身抵抗する力は残っておらず、三国干渉を受け入れるしかありませんでした。
これは日本国民にとっても屈辱でした。
自国の兵士たちが命を懸け戦った末に勝利し、獲得した領土を奪われた怒りは測り知れません。
しかし日本はこのままでは終わりませんでした。
強国ロシアに対抗する手段として、当時もう一つの強国であったイギリスと手を組みます。
イギリスは世界屈指の強国でしたが、南下政策を行い東アジアに進出するロシアに危機感を持っていました。
南下政策を止めたいイギリス、リアウトン半島を取り戻したい日本。
互いの目的は一致し、同盟を組みます。
それが日英同盟です。
こうしてイギリスからの支援を受け、日本は再び立ち上がります。
1904年2月、日露戦争の火蓋が切られたのでした。
壮絶な海の戦い、日本海戦。
戦争というと皆さんは銃や軍刀を持った兵士、重厚感あふれる戦車が活躍する陸軍戦を思い浮かべるでしょう。
しかし、今回の日露戦争で鍵となったのは海の戦い。
そう、海軍戦です。
当時ロシアが戦いの拠点としていた港は二つ。
一つはリアウトン半島の先にある四巡港。
もう一つはウラジオーストク。
まず日本海軍は四巡港を攻撃します。
海からも陸からも攻略を試み、かなりの損害を与えられましたが四巡港を攻略。
ダッシュした四巡港周りの砲台を使って港内のロシア軍艦を破滅させたのです。
一方、ウラジオーストク方面では日本軍が四巡に兵力を集中させているため、
日本近海で民間船を沈めたりと好き放題やっている状態でしたが、
兵力をウラジオーストクに向かわせることで、
ウラジオーストク内のロシア艦隊も機能停止にさせることができました。
日本が優勢に戦いを進めていましたが、
当時世界最強と呼ばれるある艦隊が日本に向かっていました。
その艦隊の名はバルチック艦隊。
ロシア西岸、ヨーロッパに位置するバルト海で編成された艦隊のため、その名で呼ばれています。
正式には第2・第3太平洋艦隊のことで、
バルト海よりおよそ地球半周をかけて日本海までやってきたのでした。
バルチック艦隊は数々の輝かしい戦績を残し、最新鋭戦艦を4隻も保有。
当時は世界最強と評価されていました。
そんなバルチック艦隊を率いるのは、
ロシア帝国皇帝ニコライ2世の側近、ロジェスト・ベンスキー提督。
世界最強の艦隊を迎え撃つは東洋のネルソンの異名を持つ東郷平八郎司令長官でした。
ネルソンとは、イギリス海軍に属し国民的英雄であったホレーショ・ネルソン提督のことです。
その名から東郷司令長官は、いかに海軍船において偉大な人物であったかが伺えるでしょう。
海戦前、日本軍はロシア海軍の動きについて様々な考えを巡らせていました。
バルト海を抜け日本海にやってくるバルチック艦隊の動きは大きく分けて3ルート存在します。
スガル海峡を抜け日本海にやってくるルート。
北海道の東岸を回り日本海へ抜けるルート。
そして最後に津島海峡を通り日本海へ抜けるルート。
当初日本は津島海峡を抜けるルートを想定し連合艦隊を待機させていました。
しかしバルチック艦隊は一向に現れません。
焦った東郷司令長官は各艦隊を集め意見を聞きます。
そこで第2船隊司令官島村早男少将から意見が出ます。
スガルに艦隊を配備させるのはもう少し様子を見た方が良いかと。
当時島村少将は海戦時より日本軍の連合艦隊参謀長を務め一目置かれた存在でした。
信頼のおける部下の言葉に東郷司令長官は津島海峡付近に待機していた連合艦隊を留まらせました。
この判断が幸を奏します。
バルチック艦隊の石炭輸送船が上海郊外の港に入港したと連絡が入ったのです。
上海は東シナ海に面して位置し、バルチック艦隊は津島海峡を抜けるルートを通過することは決定的でした。
そして1905年5月27日午前2時45分、世界最強の艦隊は姿を現します。
津島海峡付近の後藤列島東側にて下層巡洋艦シナノアルはバルチック艦隊の灯し人バイエンを発見しました。
バルチック艦隊の発見に連合艦隊司令部は大本営軍令部へ一報を入れます。
敵戦隊ミュートの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅戦とす。
本日天気清浪なれども波高し。
本日天気清浪なれども波高し、これは秋山真根行3号により挿入されました。
天気清浪というのは視界も良好で取り逃がすことはないということ。
波高しというのは射撃訓練を積んだ日本に有利な状況だということを意味しているそうです。
また艦隊の到着を予想できたが、これからロシアという強敵、すなわち大波に立ち向かう様子を模写しているとも言われています。
この気象状況は日本に有利になり、日本が必ず勝利を手にする、そういった決意が込められていました。
その頃、バルチック艦隊でも動きがありました。
日本艦隊に発見されたことを悟ったロジェスト・ベンスキー提督は、兵に戦闘服への着替えを命じます。
その後、戦員と共に乾杯し旗声を上げました。
対する日本の連合艦隊では各艦で天皇陛下万歳、日本海軍万歳を唱えます。
両陣営、戦闘体制が整います。
そして1905年5月27日正午、日本海津島海峡にて世界最強の艦隊と東洋のネルソンがぶつかり合ったのです。
当時最新鋭の戦艦を有するロシアに対して日本はどのように立ち向かったのでしょうか。
勝利を導く日本海軍の神髄。
先に動きを見せたのは東洋のネルソン、統合司令長官。
彼の指示により連合艦隊の船は次々に左に回頭しました。
戦闘を行くのは統合司令長官の乗る戦艦ミカサ。
戦艦の性能自体は当時最新鋭の戦艦を4隻も保有していたバルチック艦隊に部がありました。
その差を埋め大将を飾った日本海軍には巧みな戦術があったのです。
その一つは定時戦法。
この戦術を理解するために、戦艦ミカサを例に戦艦の構造を見てみましょう。
戦艦は艦首と艦尾に手砲を搭載し、戦艦の腹部にあたる部分には補助砲・副砲を搭載しています。
これが通常の戦艦の作りであり、連合艦隊が保有する戦艦の多くも同様の構造をしていました。
この構造では、どの角度からの砲撃が敵に対して最大火力を生み出すでしょうか?
それは、艦首・艦尾の手砲、さらに腹部に位置する補助砲・副砲のすべてが使用される横向きの角度。
相手の進行方向を防ぐように艦隊を横並びにして集中砲火を浴びせる。
これが定時戦法なのです。
敵の最新鋭の戦艦に火力が劣っていても、戦術でこれを補おうとしました。
まさに、先に動いた統合司令長官の指示が、その戦術開始の合図でした。
火力の面以外にもこの戦術を採用したのには理由がありました。
それは、バルチック艦隊の進行を妨げる目的です。
そもそもバルチック艦隊が地球半周もの距離を悠々移動してきたのには理由があります。
ロシア東岸にあるウラジオースト区に停泊し、日本軍が大陸に進行する際、それを海上で防ぐことでした。
当然、ウラジオースト区にたどり着くには日本海を抜ける必要があります。
長距離を移動してきたバルチック艦隊は、日本海で連合艦隊と激戦を繰り広げることは望んでいません。
まず優先するべきことは、ウラジオースト区に到着し補給を行うことです。
ここで連合艦隊を沈めるよりも、被害を最小限に抑え、ウラジオースト区まで逃げ切るのがロシアの最優先事項だったのです。
そのため、日本軍がロシアの進路を防ぐ単王陣ではなく単獣陣を組んでいれば、砲撃戦をしながら逃げ切られた可能性は大いにあります。
これらの理由により、定時戦法は日本海海戦にて大きな効果が発揮されました。
さて、ここまで利点についてお話ししましたが、この戦術のリスクについて皆様はお気づきでしょうか。
船を横向きにさせるということは、相手にとって狙う面積が広がるということです。
統合司令長官は自らが戦闘に立ち、被弾するリスクも負いながらもこの戦術を採用しました。
突如として戦艦が左に回頭し、困惑したロシア軍でしたが、定時戦法の弱点に気がつかないはずがありません。
ロジェスト・ベンスキー提督の合図により、世界最強の艦隊が牙を剥きます。
バルチック艦隊は一斉に砲撃を開始、次々に降り注ぐ砲弾の雨。
戦闘を行く戦艦三笠の周囲には砲弾が降り注がれ、水しぶきが上がります。
そんな中、統合司令長官は他の戦艦に対してあるメッセージを送ります。
それがZ機でした。
Z機とは船同士の意思疎通のために使用される国際信号機の一つです。
現在も使用される国際信号機で、
私は引き船が欲しい、漁場では私は問わみ中ですという意味を持ちます。
ではなぜ統合司令長官はこの信号機を掲げたのでしょうか。
それはZ機が持つ隠された意味に答えがありました。
皆さんもご存知であるように、アルファベットはAから始まりZで終わる文字順です。
この文字順には意味がありました。
Zの次に来る文字は存在しません。最後の文字なのです。
つまりZ機が挙げられた戦いに敗れれば次はないという意味なのです。
これが統合司令長官の掲げたZ機に込められた意味でした。
戦闘で戦う司令長官からのメッセージは、より強く部下たちを鼓舞したことでしょう。
Z機を掲げた三笠は次々に来る砲弾をかわしました。
我慢を重ね三笠は距離を縮めます。
最大火力の攻撃を最大限まで命中率を上げ繰り出すために。
そして距離6000m。
撃ち方始め!今こそ勝利をつかめ!
世界最強の艦隊に渾身の攻撃を見せます。
今度は連合艦隊による砲弾の雨がバルチック艦隊を襲います。
怯むバルチック艦隊は進路を変更しようとしますが、統合司令長官は攻撃の手を緩めませんでした。
日本軍は一部の戦艦を南下させていたのです。
そう、これが統合司令長官のもう一つの戦術であるお辻戦法でした。
第3第4戦隊が南下することでバルチック艦隊の後方に回り込み艦尾を狙いました。
こうすることでバルチック艦隊を完全に挟み込むことに成功。
巧みな戦術と状況判断によって日本軍優勢で戦いは進みますが、
日本海軍の凄さは戦術だけではなかったのです。
バルチック艦隊は当時の最新鋭の艦隊を保有していましたが、
連合艦隊も最新のあるものを保有していました。
それが砲弾です。
通常の戦艦は敵艦の装甲を貫く鉄鋼弾、貫いた後に爆発する鉄鋼榴弾を用いていました。
バルチック艦隊も同様です。
しかし連合艦隊の砲弾は一味違いました。
違いは威力にあります。
連合艦隊の用いる砲弾は命中した後に激しい熱を発し、
敵の装甲を一瞬にして焼き尽くすのです。
この強力な威力を生み出したのが霜瀬火薬と異獣陰震艦の存在でした。
霜瀬火薬は金属に触れると凄まじい熱を発する仕組みになっており、
日清戦争以前より開発されていました。
しかし戦いの中で使用されることはありませんでした。
それはなぜだったでしょうか。
通常、火薬を用いるには火薬を入れる震艦が必要です。
そう、霜瀬火薬の効果を最大限に生かすために
少しの衝撃で敏感に作動する震艦が必要だったのです。
1900年、海軍に所属する異獣陰五郎少将によりその震艦は発明されました。
異獣陰少将によって作られた異獣陰震艦は
鋭敏であり、まさに霜瀬火薬との相性は抜群でした。
しかし、それは同時に些細な衝撃ですぐに爆発することを意味し、
実際に砲弾が誤爆する事件は起きており、
常に危険と隣り合わせでした。
日本海軍はリスクを背負いながらも
果敢に世界最強ロシア・バルチック艦隊へ立ち向かいました。
海戦からすぐ、これらのリスクが報われる瞬間が訪れます。
1905年5月27日14時、
連合艦隊の一撃がバルチック艦隊の司令塔である機関スワロフを捉えるのです。
さらに連合艦隊の牙はバルチック艦隊を襲います。
続いてバルチック艦隊主力戦艦オスラビアにも砲撃が集中、
機関スワロフは入動が取れず、戦艦オスラビアは沈没。
戦闘を走る主力艦2隻がやられては、バルチック艦隊は防戦一方でした。
ロジェスト・ベンスキー提督も連合艦隊からの総攻撃で負傷し、
27日にはすでに勝敗は決していました。
28日、ロシア海軍は降伏。
結果的にバルチック艦隊は21隻沈没、4830名が戦死。
対する連合艦隊は小型船3隻が沈没、110名が戦死。
圧倒的な差をつけ、世界中の予想を覆し勝利してみせたのです。
日本海海戦での勝利が大きく、日露戦争においても終始日本軍は有利に占領を進めます。
そして1905年9月5日、ポーツマス条約を取り交わし日本は勝利、日露戦争は幕を閉じました。
歴史を変えた瞬間。
この歴史的大勝利は日本、そして東郷平八郎司令長官の名を世界へ瞬く間に広げました。
この日本軍の活躍に東郷司令長官は驚きの言葉を発します。
勝って兜の王子めよ!
彼は決して今回の勝利におごることはなかったのです。
これほどの横断狂わせを起こしてもなお、東郷平八郎司令長官は浮き足立つことはありませんでした。
それは人間性もさることながら、彼にとってこの勝利は奇跡などではなく、勝つべくして得た勝利だったからでしょう。
他国からしてみれば、まぐれに思えるかもしれない勝利は決して奇跡ではなかったのです。
そして驚くべきは、東郷司令長官が取った敵に対する行動です。
敵艦隊を指揮したロジェスト・ベンスキー提督の身柄を病院へ送ったのです。
当時、敵国の兵は捕虜に、司令官は死刑にされることが一般でした。
しかし、東郷司令長官は負傷したロジェスト・ベンスキー提督をサセボ海軍病院で手厚く看病したのです。
怪我の看病だけに留まらず、長崎よりロシア人国庫を派遣し、料理を振る舞わせました。
敵国に対するここまでの手厚い看病は、当時例を見ませんでした。
東郷司令長官は、世界最強の艦隊を率いたロジェスト・ベンスキー提督へ最大限の敬意を示します。
この動画の序盤でもお伝えした通り、当時世界は欧米列強の帝国主義の時代でした。
自国の利益、領土拡大に目が眩み、虐殺が横行した時代でもあります。
そんな中でも日本は、敵国への敬意を忘れませんでした。
日本の勝利とその後の動きに世界が驚愕したことでしょう。
さらに、この勝利は、欧米の支配を受けていたアジアの国々にとっては、まさしく希望の光となりました。
アジア各国の偉人たちも、日本の勝利をこう語ります。
これは、アジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。
この日本の勝利は、全アジアに影響を及ぶし、アジアの民族は極めて大きな希望を抱くに至った。
日本の勝利は、アジア全ての国に大きな影響を与えた。
私は少年時代、どんなにそれに感激したか。
たくさんのアジアの少年少女も大人も、同じ感激を経験した。
日本の勝利がいかに偉大で、後世に影響を与えたかを、この偉人たちの言葉が表しています。
自国のために様々なリスクを負いながらも、勝利してみせた日本海軍。
そして、戦いの後に見せた敵国への敬意。
現代を生きる私たちは、彼らの成し遂げたい良と無人の礼を決して忘れず生きていきたいものです。
最後までご視聴ありがとうございました。

