イスラムから見た第二回十字軍とザンギー朝の興亡 暴虐と暴虐のぶつかり合い
26 回視聴·2024/11/17
イスラムの反撃
前動画:イスラムから見た第一回十字軍 https://youtu.be/jQHYVNBpZ3Y
二十四史 https://youtu.be/FAC0voJ4oUQ
ヴェネツィア共和国の誕生 https://youtu.be/AvgLPUVCvfQ
アーサー王伝説 https://youtu.be/a-BD1yjQIPo
大運河の建造 https://youtu.be/lkyBfh5_m70
マリー・アントワネット https://youtu.be/78LwtJm1vMI
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諸行は無常、滅びの世界史の功を負うなぁ
滅びがわっほい、滅びがわっほい
今回は、ザンギー帳の滅亡、とイスラムから見た第二回十字軍、についてやっと、ほらやっと
日本盾かい?今回は日本盾なのかい?
第一回十字軍と戦ったのは主にセルジューク帳とファーテマ帳だったが、第二回十字軍と戦ったのはザンギー帳だ
ザンギー帳とはどこから出てきたのかね?
ザンギー帳の司祖であるザンギーは、シリア北部の大都市アレッポの大衆アークスンクルの息子だったという
この人物は第一回十字軍の直前にあたる1914年、ツプシュによって殺害されたのだという
ツプシュはマラズギルドでビザンツ帝国を破ったセルジューク帳のスルタン、アルプアルスラーンの息子だったね
そしてツプシュはシリアの支配者となり、その死後は息子であるブカークがダマスクスを、リドワーンがアレッポを支配したというわけだ
詳しくはイスラムから見た第一回十字軍を見てね
父を失ったザンギーは、モースルの有力者ケルボカに育てられたという
それから約30年ほどが経ち、ザンギーはザンギー帳と呼ばれる勢力を築くことになる
その話をする前に、第一回十字軍後のイスラムの動きについて見ていこう
第一回十字軍ではエルサレム王国などの十字軍国家が生まれたのだったね
エルサレム王国、トリポリ白国、アンティオキア公国、エデッサ白国、合計4つの十字軍国家ができた
中東に突如4つのキリスト教国家ができたわけだね
その直後には、1101年の十字軍が起きている
これは新たに誕生したエルサレム王国に贈遠を贈る目的で結成された十字軍だった
どこで結成されてどうやってエルサレム王国に向かうのだい?
第一波は北イタリアから陸路でエルサレムに向かった
そして現在はトルコと呼ばれている小アジアことアナトリアにてルームセルジューク町の軍団と激突する
ルームセルジューク町とはセルジューク町から独立した一派がアナトリアで結成した勢力だったね
ロンバルディア集団とも呼ばれるこの一団はルームセルジューク町に惨敗した
1101年の十字軍は合計3派に分かれていずれも陸路でエルサレムに向かったが
全てルームセルジューク町によって無残に撃破されている
つまりスラム側が勝利したということだね
ちなみに第一回十字軍に参加したアンテオキア後ボエモン一世は
この戦いの前年にあたる1100年賢者ダニシュメンドとの戦いに敗れて囚われのみになっている
1101年の十字軍の中にはボエモン一世を救出しようとして壊滅した一団も存在している
ボエモン一世は確かノルマン人だったね
小アジアではイスラム教勢力がキリスト教勢力を撃破していたが
シリアでの情勢はそうはいかなかった
記録によればブカーク率いる数千のイスラム兵団がわずか300の十字軍に敗れたとされる
まるで幸運のような強さじゃないか
なおこの時ブカークを破ったサンジルコとレイモン四世は
1101年の十字軍にも参加しルームセルジューク町の軍団に敗れている
先ほど4つの十字軍国家と言ったが
実際にトリポリ白国が建国されるのは1102年のことで
このレイモン四世がトリポリ白になっている
そしてその1102年ファーティマ町の軍団がパレスチナに到着した
その数約2万
時代を考えるとかなりの軍勢だね
ファーティマ町の軍団はエルサレム王ボーブアン一世の軍団を撃破し
エルサレム近郊まで軍を進めた
だが海から援軍がやってきたために撤退せざるを得なかったという
海?
ジェノバ共和国などの海洋国家が十字軍に強力敵だったからな
なお代表的な海洋国家ベネティアは強力敵ではなかった
ベネティアとローマ教皇の関係は微妙だったね
ベネティアは第4回十字軍にて同じキリスト教国家であるビザンツ帝国を攻めるのだが
その話はまた別の機会にしよう
ベネティアと第4回十字軍、おやるわけだね
ファーティマ町はその後もエルサレムを奪還すべく数度の攻勢をかけるが結局うまくいかなかった
一方十字軍側は1104年にアッコを攻める
アッコはパレスチナ北部の港町であり、ここを抑えることは戦略上非常に重要だった
なおこの港町はアッコンともアッカとも呼ばれる
今回はアッコと呼ぶわけだね
十字軍側はアッコの攻略に成功し、以降この港町は十字軍側の重要拠点となる
同年、ハッザーンにて十字軍とイスラム勢力が激突し、こちらはイスラム勢力の勝利となった
勝ったり負けたりしているわけだね
決定的な勝利も敗北もないまま、十字軍とイスラム勢力の争いは続く
防衛に成功しているという点では十字軍の目的が達成されているともいえる
それで、ザンギーはいつ活躍するのかね
ザンギーが台頭するのは、1120年代の後半になってからだ
ザンギーは1118年までモースルに留まり、それからセルジューク町の新たなスルタンマフムード二世に使えるようになった
セルジューク町本体に使えたわけだね
マフムード二世はすんなりスルタンになれたわけではない
チチムハンマドタパルが死ぬと、まだ若かったマフムード二世は、 オジアフマドと領土を分割することとなる
この生態の評価は難しいが、 アフマドとマフムード二世の共同統治と言ってよいだろう
オジとオイって大体対立するよね
この二人もその例外ではなく、 1119年にはペルシアにてサーベの戦いが起きている
結果はオジであるアフマドが勝利し、 マフムード二世はアフマドの娘と結婚した
いとこ同士で結婚したことになるね
マフムード二世はメソポタミアを統治したため、 その領域はイラクセルジューク町とも言われる
ルームセルジューク町にシリアセルジューク町に イラクセルジューク町があるのだね
セルジューク町は結局のところその巨体を維持できなかったと言えるな
さてセルジューク町はメソポタミアの全域を 支配できていたわけではない
中央部にはバヌーマズヤドと呼ばれる アラブ人勢力も存在していた
セルジューク町はトルコ民族の勢力だったね
マフムード二世はメソポタミアの派遣を得るべく バヌーマズヤドにザンギーを派遣する
これがザンギーにとって初の大規模軍事式となる
ついにザンギーが世に出る時が来たのだね
ザンギーはアッパース町と連合し 1123年に起きたムバラキアの戦いで大将した
その功績もあり翌年にはバスラの軍事知事職を与えられている
バスラはメソポタミア南部の都市だね
セルジューク町はアッパース町カリフの権威のもとに成立していたと言えるが
マフムード二世はアッパース町に対して戦いを仕掛ける
ザンギーの活躍もありセルジューク町の軍団は首都バグダットの攻略に成功
アッパース町の掌握に成功するのだった
アッパース町のカリフはセルジューク町の傀儡になったのだね
バグダット攻略の功績によりザンギーはバグダットの総督に任じられる
バグダットはこの時世界最大の人口を抱える都市だったね
世界一裕福な都市だったと言ってよいだろう
翌1127年ザンギーはモスルのアタベクとなった
アタベクとはなんぞ?
アタベクに相当する日本語は見受けられない
あえて訳すとすれば軍事的指導者
だが元々は折衝的な役割があった
アタベクは元々はスルタンの幼少の息子の貢献人に与えられる称号だったようだ
のが多い
スルタンの息子は署名を持っておりアタベクがその行政を代行していた
次第にアタベクは軍閥化していったという訳だ
そしてザンギーがモスルのアタベクとなった時がザンギー帳の支店とされるのが一般的だ
独立した国ではないけど半ば独立した勢力だった訳だね
概念的にはイスラムはウンマという一つの共同体であって
その中に独立した国などない
だが実質的に独立した勢力は存在し丸々帳と呼ぶ訳だ
日本で例えれば戦国大名が近いのだろうな
戦国大名は独自の法律なんかも制定していたのだったね
翌1128年ザンギーはアレッポのアタベクとなった
そしてダマスクスとの戦争を開始するのである
ダマスクスとはシリアの重要都市だね
ダマスクスは当時タージアルクブリーという人物の支配下にあった
ザンギーはブリーと戦いその最中にマフムド二世が死んでしまう
マフムド二世の死を後期と考えたザンギーは
バグダッドに侵軍し自らの支配権とすることを拡作する
先ほどからイスラムの同胞と戦ってばかりで十字軍と一切戦っていないのですが
ザンギーはバグダッドの戦いに敗れ
アイリューブの助けを借りて何とか逃げることができた
ザンギーはこのことに恩義を感じ
数年後にアイリューブに高い地位を与えている
この馴染むアッディーンアイリューブこそがイスラム最大の英雄サラディンの父親である
サラディンの本名はサラーフアルディニューフスイブンアイリューブだったね
アイリューブ種族が接種した勢力だったためアイリューブ帳と呼ばれるな
ザンギーはその後もイスラム勢力との抗争を続けた
キリスト教勢力とは戦わないのだね
ザンギーがキリスト教勢力との戦いを開始するのは1137年になってからだ
ザンギーと敵対するダマスクスはエルサレム王国と手を組んでこれに対抗した
イスラム教勢力とキリスト教勢力が手を結ぶのかい?
この時期にはそのようなことも珍しくはなくなっていた
1137年バーリンの戦いキリスト教側ではモンフェランの戦いが起こる
イスラム教とキリスト教で名称が異なるのだね
同じキリスト教でも国によって発音が異なるしな
ちなみにキリストはイスラムだとイーサー、 アブラハムはイブラヒム、モーセはムーサとなる
この辺りが世界史を難しくしている部分でもあるよね
この戦いに勝利したのはザンギーであった
そしてイルサレム王国ダマスカス連合軍を撃破したザンギー朝に、 今度はビザンツ帝国が襲いかかる
ビザンツ帝国は小アジアを通ってきたのかい?
1118年にビザンツ皇帝となったヨハネス二世はルームセルジューク朝と戦い、 アナトリアにおける領土の多くを回復していた
その後アルメニア人の国であるキリキア王国を滅ぼし、 シリアへのルートを確保していたわけだ
そしてシリアに侵攻したというわけだね
ビザンツ皇帝ヨハネス二世は十字軍国家の一つアンティオキア公国と結び、 両勢力はアレッポで撃突する
結果はこれまたザンギーの勝利となる
ザンギー強いね
もっともザンギーも勝手ばかりではない
1139年にはダマスカスを攻めるも、 イルサレム王国ダマスカス連合軍に敗北している
まさに一心一体なわけだね
その後ザンギーはバールベックを攻略し、 馴染むアッディーンアイリューブを総督としている
この際ザンギーは捕虜残落に処刑しており、 後に捕虜廷長に扱ったサラディンとよく比較される
サラディンはキリスト教世界でも評判が高いのだったね
1140年、ザンギーは再びダマスカスを攻めるも この度も攻略しきれなかった
難攻不落の都市ダマスカス
この後ザンギーはシリアではなくエデッサ方面に軍を向ける
エデッサはどんな状況だい?
エデッサには十字軍国家の一つ、 エデッサ白国が存在していた
他の十字軍国家が地中海に面していたのに対し、 エデッサ白国は海に面していない
つまり海上からの補給を受けられないということだね
エデッサにはアルメニア人が多く、大半はキリスト教徒だった
何せローマ帝国でキリスト教を国境化する以前から、 アルメニア王国ではキリスト教が国境化されていたのだ
アルメニア王国はどうなったんだい?
ローマ帝国とササンチョウペルシア帝国に 吸収される形で消滅した
その後余曲説を経てアルメニア王国は復活したが、 セルジューク帝国によって滅ぼされたというわけだ
そこに十字軍がやってきたのだね
アルメニア王国の残党は小アジア南部のキリキアに移住していた
そのキリキアに十字軍から分離した一派がやってくる
話は少々ややこしいが、この時一派を率いていたのが 後に初代エルサレム王となるボーブアン一世だ
この人物はエルサレム王になる前にエデッサ白となっている
初代エデッサ白であり初代エルサレム王というわけだね
この国では十字軍に参加したフランク人たちと アルメニア人が結婚することが多かった
そしてイスラム強勢力との抗争が続いたのである
そしてその流れの中でザンギーがやってきたと
1144年、ザンギーはエデッサの包囲戦を開始し、 約4ヶ月ほどでエデッサを陥落させた
これにてエデッサ白国は滅亡し、 実質的に第二回十字軍が始まるのである
詳しくはエデッサ白国の滅亡を見てね
1146年、ザンギーはフランク人奴隷に殺された
ザンギーはフランク人を奴隷にしていたのだね
一方でエデッサ陥落の法を受けたローマ教皇は、 聖地救援の十字軍を諸公に呼びかける
その呼びかけに応じたのがフランス王ルイナナ製だ
ついにフランス王が十字軍に参加するのだね
一方ザンギー亡き後その後継者が問題となった
ザンギーの長男であるサイフッディーンと、 その弟のヌールッディーン、通称ヌラディンが候補としていたのである
一体どうやって問題を解決したんだい?
結局この問題はサイフッディーンが申するを、 ヌラディンがアレッポをそれぞれ継承することで決着する
ザンギーの死後、十字軍によりエデッサは奪還されてしまっていたが
新たなるイスラムの英雄ヌラディンは、 その際奪還に動くのであった
エデッサを巡る戦いが再び始まるのだね
ヌラディンはジョスラン二世を支援した アルメニアジンキリスト教徒を殺戮した
そして生き残った女性と子供は奴隷にしてしまう
精算だね
ヌラディンはエデッサを陥落させ、 エデッサ白国にとどめを刺した
こちらをエデッサ白国の滅亡とするのが一般的だな
第二回十字軍はエデッサを奪還しに来るのじゃないのかい?
第二回十字軍もまたコンスタンティノープルから 陸路でやってこようとした
だがルームセルジューク上の攻撃を受け、 壊滅的な被害を受けてしまう
依然と同じ過ちを
人に破滅をもたらすのは失敗体験ではなく 成功体験だと言われる
十字軍はどうしても第一回十字軍の 成功体験を捨てられなかったのだろうな
一回目は小アジア経由で聖地を取り戻せたもんね
それでもルイナナ星はなんとか アンティオキア高国に到着できた
そしてアンティオキア高霊門から エデッサの奪還を提案されるも
ルイナナ星はそれを無視して聖地エルサレムに向かう
なぜエルサレムに?
聖地巡礼のためだ
キリスト教とタルモの一度は 聖地エルサレムを訪れてみたいのだろう
エデッサを奪還しに来たんじゃないのかよ
この時のルイナナ星の行動については
当時から現在に至るまで様々な議論を読んでいる
実はアンティオキア高霊門は 奥比アリエノールの叔父にあたる
アリエノールは後にイングランド王となる リチャード四肢神王や純七王の母親だね
ルイナナ星はアリエノールと霊門の関係を 疑っていたともされるな
アリエノールと霊門の間に何か特別な関係があったかは 現在でも分かっていない
そもそも奥比アリエノールも来ていたのだね
アリエノールは欧州でも最大の領土を持つ人物だ
その上信仰に熱く アキテイヌ諸公を十字軍に参加するよう説得したとも言われる
いろいろ不明な部分は多いが ルイナナ星はエデッサ奪還には動かなかった
エルサレムに向かったルイナナ星は巡礼を果たし そして第二回十字軍はダマスカスを攻めることにした
ダマスカスはザンギーが何度も攻めたけど 結局攻略できなかった都市だね
エルサレム王国の諸公はこの決定には反対した
エルサレム王国は何年にも渡って ダマスクスと共にザンギー帳と戦ってきたのだ
つまり味方を攻めるというわけだね
欧州からやってきた諸公からすれば そもそもイスラム強勢力に味方をすること自体が信じられないことであった
こうして1148年7月 第二回十字軍によるダマスカス行為戦が始まる
戦略的にあまり賢いとは言えないね
一方ダマスカスは長年の宿敵とも言えるヌラディンと手を結び 共に十字軍に対抗することにした
味方が敵になり敵が味方になった
ヌラディンはアニサイフッティーンと共にダマスカスに駆けつけ さらにダマスカス側の工作も功を奏す
工作?
中華式に行ったら離間の刑だな 十字軍側はもともと仲が悪い
フランス、ドイツ、イタリア諸国は本国では対立する関係だった
神の名のもとに無理やり連合を組んでいる状態だね
さらにエルサレム王国とそれら欧州諸国の関係も悪かった
ダマスカス側はワイロのばら撒きや遊言など あらゆる方法で十字軍側の分断を図ったのだ
さらに伏兵の配置や水の供給阻止など様々な策をめぐらした
まるで三国支援儀みたいだね
結果十字軍はダマスカスの攻略に失敗し 第二回十字軍は実質的に崩壊した
エルサレムに戻ったルイナナ星は復活祭が終わると国に帰ってしまったのであった
正直何しに来たって感じだね
ヌラディンはこの機を利用してアンテオキア公国への攻撃を開始する
1149年6月イナブの戦いにてヌラディンとアンテオキア公霊門が激突した
どちらが勝ったのかね
アンテオキア公霊門は死亡し戦いはヌラディンの圧勝に終わる
アンテオキア公国は滅亡こそ免れたものの東半分をザンギー町に奪われたのであった
ヌラディンは十字軍国家相手に連戦連勝したわけだね
6150年エデッサ博女スラン二世は救援を求めるべくアンテオキアに向かっていた
だがトルコ民族に捕らえられヌラディンの本拠地アレッポに連行される
ジョスラン二世はどうなるんだい
公衆の面前で盲目にされ死ぬまで牢獄に入れられた
ジョスラン二世が捕らえられた1150年をエデッサ博国の滅亡と捉える場合もあるな
いつ滅亡したかいくつも候補があるのだね
ヌラディンも上昇だったわけではない
1150年8月にはエルサレム王ボーブアン三世率いる軍団にアインタブの戦いで敗れている
これによってエデッサ博女のキリスト教徒は避難することができた
だが結局エデッサ博国の大半はザンギー帳の支配下に入ることとなる
局地的には勝利したけど結局領土を得たのはザンギー帳だったのだね
アインタブの戦いは十字軍側にとって戦術的勝利であると共に戦略的敗北であったとはよく言われることだな
この戦いの少し前兄のサイフッディーンが死んだ
その後を継いだのはザンギーの息子つまりヌラディンらの弟にあたるクトブッディーンであった
サイフッディーンはモースルの支配者だったね
クトブッディーンはモースルの支配権を兄であるヌラディンに渡す
そのためヌラディンはダマスカスを除くシリアのほぼ全域を支配することとなった
めでたしめでたしだね
ヌラディンはシリアを統一すべくダマスカスに攻撃を仕掛ける
だが結局ダマスカスを攻略することはできなかった
親子二代でダマスカスの攻略はできなかったのだね
1154年ヌラディンは再度ダマスカスを攻撃しついにその攻略に成功した
ダマスカスはザンギー帳に組み込まれヌラディンはシリア統一を果たすのである
ハッピーエンドだね
いや結局のところヌラディンは敵だらけだ
十字軍国家はまだ3つ残っているし
ビザンツ帝国やルームセルジューク帳もザンギー帳には敵対敵だった
さらにセルジューク帳本体アッパース帳ファーティマ帳と一体スラム諸勢力もある
イスラム勢力同士の争いも激しいもんね
1160年ヌラディンはアンテオキア公国と戦い
強盗騎士の異名を持つルノードシャティオンに勝利することができた
すごい異名だね
その後ヌラディンは十字軍との戦いを控え滅火巡礼を行っている
しばらくするとエルサレム王国はエジプトにあるイスラム勢力ファーティマ帳へ攻撃を仕掛けた
ヌラディンはその隙を突くように十字軍国家トリポリ白国を攻撃する
どこかの勢力が動けばどこかの勢力が隙を突いてくる状況なのだね
ヌラディンによるトリポリへの攻撃は失敗に終わる
一方エジプトにあるファーティマ帳ではナイフンが起こっていた
どこもかしこもナイフンだらけだね
ナイフンは人間社会の本質なんだろうな
ファーティマ帳の最小であったシャワルは清掃に敗れヌラディンの元に逃れてきたのだ
そして自分を最小に戻すようヌラディンに話を持ちかけた
パレスチナを十字軍国家に抑えられている以上シリアからエジプトへの派兵は難しいのでは?
それでもヌラディンはクルドジン将軍であるシールクーフをエジプトに派遣している
このシールクーフの老いこそがイスラム最高の英雄と呼ばれるサラディンである
サラディンもこのエジプト遠征に同行しそこで頭角を表すことになる
サラディンはエジプトでアイユーブ帳を受立するのだったね
なおアイユーブ帳の受立は1169年のこととされシールクーフのエジプト侵攻は1164年のことだ
1169年にはヌラディンはまだ生きている
ヌラディンが生きている状態でサラディンは独立するわけだね
シールクーフのエジプト遠征は成功しシャワルはファーティマ帳の最小に復帰することができた
アイユーブ帳はファーティマ帳を滅ぼしてできたんだよね
その辺りの事情は複雑なのでまた別の機会に触れることにしよう
シールクーフらがエジプトでファーティマ帳と戦っていた頃
ヌラディンはアンティオキア公国とトリポリハク国の連合軍と戦っていた
ザンギー帳はファーティマ帳と戦いながらも一方で十字軍と戦っていたわけだね
ヌラディンはこの戦いに勝利し、トリポリハクやアンティオキア公らを一気に捉えることに成功した
一方でイルサレム王国は長年の敵ファーティマ帳と結んでザンギー帳に対抗する
もう宗教とかそういう問題じゃなくなっている
1169年、シールクーフはエジプトを掌握するもこの年の後半に死んでしまい、老いのサラディンが後継者となった
2024年現在教科書ではこの時点をIU部長の成立としているのだろう
サラディンは独立を宣言したのかい?
サラディンはヌラディンへの忠誠を表明し続けた
なのでIU部長の成立をもう少し後とする考えもあるな
教科書の言うことは絶対なんだ
なので他の誰が何を言おうがテストではIU部長の成立は1169年と書かなければならない
なおこの段階でエジプト侵攻のきっかけとなったシャワルは死んでいる
ヌラディンとサラディンの関係は良いとは言えず、シーアハカリフの廃止をめぐっては対立していた
シーアハカリフ?
メソポタミアを中心とするアッパース町はスンニ派の勢力で、預言者の代理人であるカリフを頂点とする
一方エジプトを中心とするファーティマ町はシーアハの国で、これまたカリフを頂点としていた
つまりファーティマ町のカリフを廃位するかどうかで対立したのだね
廃位したがったのはヌラディン、残したがったのはサラディンだ
サラディンはエジプトを統治する理論的根拠を持たなかった。なのでカリフを侮辱にしたかったわけだ
ヌラディンはそうではなかったと
名目上はアッパース町のスンニ派カリフの権威の元にあるからな
カリフは預言者の代理人なので、一度に二人以上いるのはおかしいわけだ
それでシーアハのカリフを廃止しようというわけだね
結局1171年にシーアハカリフは廃止される。ヌラディンが死ぬのは、それから約3年後の1174年のことだった
ヌラディンが死んでからの懺悔町は、恐ろしいほど急速にその力を失っていった
カリスマが退場すると一気に衰退するパターンだね
第十字軍の主役は新たなカリスマサラディンに移り変わり
1187年には聖地エルサレムを奪還、それによって第3回十字軍が起こる
なおザンギー町の滅亡は1250年、アイユー部長の滅亡も1250年とされる
同じ年に滅亡したということかい?
ヌラディンの死後、サラディンはアレッポを征服し、シリアにおけるザンギー町の支配を終わらせる
そして1185年にモースルを攻撃するも、ザンギー町はサラディンの信仰を撃退することに成功した
ヌラディンがいなくなってサラディンはザンギー町を攻撃したのだね
アッパース町の仲介もあり、ザンギー町とアイユー部長は協定を結び
ザンギー町はアイユー部長の求めがあれば支援するという義務を負うこととなる
ただアイユー部長の転下もそれほどは続かない
1193年にサラディンが死ぬと、アイユー部長もまた急速に勢力を失っていく
ザンギー町と同じパターンだね
サラディンの死後、その後継者となったアルアディルは、ザンギー町の併合を黙論だ
モースルはこの黙論を跳ね返し、併合を阻止することはできたのだが、アイユー部長の総主権を認めることとなる
数十年で立場が逆転したのだね
そして1250年、ザンギー町はアイユー部長の支配下に入る
そしてその年、アイユー部長はマムルーク町によって滅ぼされるのである
この頃になっても十字軍との戦いは続いており、新たなカリスマバイバルスが十字軍と戦う
ムラディン、サラディン、バイバルス
バイバルスはさらに最強無敵のモンゴル帝国軍に勝利するのだが、それはもう少し先の話
今回の動画はここまでとしよう
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