第45位:隋の中華統一 巨大帝国の復活

俺の世界史ch
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第45位は
随による中華大統一だ
その目で知ってたけどねー
遥か古代に形作られた概念が
現在まで続いているということは
奇跡に近いことだと言える
あれだけ繁栄した古代ローマも
あれだけ巨大だったアレクサンダー帝国やオスマン帝国も
最盛期の形は今はない
だが古代に形作られた中華
だけは現在でもその形を留めている
中華中華と言うけれど
一体中華とは何なのだい?
今回はその話から始めるのが良さそうだな
中華とは何かを知るためには
開始層から入るのが良いだろう
かは中華のことで
いは異民族という意味かい?
簡潔に言えばそうなる
国家とは何か
これは遥か古代から存在した難題だ
国家とは何なのかね?
近代以降は試験国家の概念が一般的となった
試験国家とは何か答えよ
明確な領域を有し
確立した試験が損する近代国家のこと
教科書では試験国家についてそのように書かれているな
試験とは何なのかね?
国内では最高権力としての性格を
対外的には独立性を持つ
教科書では試験をそのように説明している
残念ながら私には理解ができないな
中西のヨーロッパでは
国家という概念が薄かったんだ
例えばイタリアという国家ができるのは19世紀の後半で
それまでは現在イタリアと呼ばれる地域には
中小様々なコムーネがあった
コムーネとは自治都市のことだったね
比較的早い段階で統一国家ができたフランスでも
中世紀には例えば安住博領があるとすれば
そこには独自の統治機構があった
その上安住博がイングランド王を兼ねるということもあった
東洋的概念ではまず理解できない仕組みだね
安住博はフランス王家に忠誠を誓い
親従関係があったので
イングランド王がフランス王に親従する形になったが
だからといってイングランドがフランスに併合されたわけではない
フランス王国とイングランド王国はあくまで別の国だったんだ
その理屈だとフランス王国と安住博領も別の国にならないかい?
中世紀においてはそのような理解で良いだろう
だが近世から近代にかけてその概念は大きく変わった
貴族の持つ領土は王国に併合されるようになり
フランス革命になると国民国家が出来上がる
つまりフランスという大きな主権国家が出来上がっていったわけだ
フランス内に別の国があるということは無くなったわけだね
フランス革命以降は各国が国民国家の形を取るようになり
イタリアやドイツでも統一国家が出来るようになる
もっとも各自その形態は違い
ドイツのような連邦国家もあるがな
国の中に国がある連邦国家はどうにも理解できないんだよな
アメリカのように合衆国の形態を取るような国もあるな
このように欧米だけで見ても国家の形態は様々だ
文化によっては国家の概念が無い場合もある
どういうことだい?
例えばイスラムには本来国家の概念は無い
イスラムには共同体であるUNMAがあるだけなんだ
だからイスラムには個別の国家概念は無く
あえて言うならイスラムは一つの国家なんだ
でもシリアとかイラクとかエジプトとか
イスラム国家は沢山あるよ
理想的建前と実態が乖離してしまっている状況があるな
かつて強大なイスラム帝国があり
それがイスラムの基本的な国家概念だった
だがかなり早い段階でイスラムは分裂してしまったな
詳しくはカルバラーの悲劇を見てね
イスラムは分裂した後現代に至るまで元には戻らなかった
ローマ帝国もテオドシウステイが死んだ後に
東西分裂をしてからは元には戻らなかった
詳しくはローマ帝国の分裂を見てね
中華だけは再統一されたんだ
そしてそれが今回の主題である
ついによる中華再統一というわけだ
ローマやイスラムを考えると
中華が再統一されたのは奇跡的なことだったんだね
何度分裂しても再統一されるのは中華だけだ
中華とは国家概念であり
国家概念とは内と外を明確に分ける概念だと言える
欧州ではこの国家概念が生まれたのがつい数百年前のことだったが
中華では数千年前のことだった
あまりにも長い歴史があるのだね
ついによる中華再統一がいかに重要だったかを説明するには
中華の概念が確立するまでの過程
分裂していく過程
そして再統一していく過程に触れる必要があるだろうな
ではまず中華の概念が確立するまでの過程だね
中華の概念がいつから存在していたかを知るのは容易ではない
だが確立した時期は明確だ
いつ確立したのかね
始皇帝が七つに分かれていた国を統一した時だ
それまで七つの国は別々の国だった
言葉も違えば通過も違えば法も違う
ただシューという創始国はあったので
中西のフランスに状況は近いかもしれない
シューがフランス王に近い概念かい?
シューとフランスは王国であり
唯一王を名乗れた点も共通している
異なるのはフランス王権が弱体な起源から徐々に強大化していった一方で
シューが強大な起源から徐々に弱体化していった点だな
その辺りは麻楽と言っても良いわけだね
フランス王権は当初パリ周辺にのみ勢力を持っており
その頃は大貴族の力の方が強かった
だが王権は強化され
近世には絶対王政を確立して貴族の力は弱まっていくことになる
一方シューは当初かなりの力を持っており
王室の傑族や建国の行進を各地の諸公に奉じていた
武王の弟の周高譚や大公謀などはその代表例だ
周高譚の国を大公謀が成の国を建てたのだったね
そのような制度は封建制と呼ばれ文献的な仕組みだったと言える
言い換えれば周は統一的な国家を確立しなかったと言える
故に諸公の力を抑えられず
結局諸公の力が周を遥かに超えるようになってしまったわけだ
春秋の後派や戦国の七雄は明らかに周の力を超える勢力だった
周っていつまで存続していたんだっけ?
始皇帝が統一を果たす約35年前紀元前256年まであった
周の時代あるいはそれ以前から開支層はおそらく存在した
おそらく?
現存する書物は周以降のものだからな
それより前の人々がどのような考えを持っていたかは正確にはわからないよ
伝承では火焼印の時代あるいはそれ以前に三益と呼ばれる書物が作成されたとされるが
その伝承が正しいのかはわかっていない
流石にそれは原存していないよね
三益のうちの一つ周益なら残っているぞ
現在では益境と呼ばれているがな
それって五経の一角を占めるあの益境かい?
益境がいつからあるのか作者は誰なのかという点については議論が絶えない
最も古い説では参考が作ったとされる
それって何千年前の話だよ
この辺りの議論は不毛なので開支層の話に戻ろう
開支層はおそらく周の後期に生まれたのではないかと言われている
周の時代には自分たちカカジンとチーを明確に区別する支層が生まれていた
カカジン?チー?
現在世界で最大の民族はカンミン族で
中華人民共和国の9割以上その人数は11億人を優に超えるとされる
カンミン族はカカジンを継承したと言える
つまりカカジンとカンミン族は同じということかい?
そう捉える考え方もあるが実際には少々違いがありニアリーイコールだと言えるだろう
少々の違いとは一体何なのかね
簡潔に言えばカカジンとは基本的には下北の人間を指す言葉で
カンミン族はカナンの人間も含む概念だ
この違いは主に歴史的経緯によって生まれたと言える
全然簡潔じゃないし何を言っているのかまるで分からない
周の勢力範囲は建国当初は基本的には下北に限定されていた
まず下北という言葉が分からない
下北とは抗議には要す考古と調考より北方の地域を指す言葉だが
ここでは考が有益という意味で使う
周は陰を滅ぼし陰は火を滅ぼしたとされる
される?
考古学的な話をすると陰の遺跡は見つかっているが
火の遺跡と断定される遺跡は見つかっていないんだ
なので火の存在は確定的でないとされる
遺跡が見つかっていないのになぜその存在が知られているんだい?
伝承あるいは神話と言えるかもしれないな
だが確かにそれは伝わっているんだ
そして火火陣とは火の人々の光栄を意味する言葉と言える
火というのは一体どこにあったんだい?
考が有益にあったと推定されている
陰も周も結局のところ考が有益にあった
そして周の時代にその範囲は広がった
考が有益以外も含むようになったということかい?
初めて統一を果たした神も初めは異民族扱いだったんだよ
ここでCについて触れておこう
これは簡潔に言えば東西南北四方向に存在する異民族のことだ
異民族って郷土とかかい?
Cに関して言えば遠い、西中、北敵、南蛮の四種に分けられる
郷土はこのうち北敵に分類されるかな
ここで重要なのは内と外を明確に分けたことであり
そして外を内側に取り込んでいったということだ
異民族を取り込んでいったということかい?
異民族の取り込みはある意味この動画の中核を成す部分だ
古代ローマがあそこまで大きくなったのは
異民族であっても同化してしまうその性質ゆえのことであったが
中華にも似たような面があった
明確に区別したのに内側に取り込むというのは矛盾していないかい?
感化、その言葉が今回のキーワードになる
これは異民族の官民族化を意味する言葉で
いがかの内側に入り込む現象だと言えた
そしてそれは官民族が成立する以前から行われていたということなのだね
代表的なのが越の話だろうな
越は明らかに核人と異なる文化風習を有していた
越とは教皇よりもさらに南方にあった国だね
五越道州、合心商丹などの古字でも有名な国だな
越欧交戦を春秋の五波に含めるかどうかは議論があるところだ
春秋の五波に含めるとは?
春秋の五波とは春秋時代に存在した周王をも凌ぐ勢力を誇った五人の諸皇の総称だが
その候補は10人以上いる
まるで意味がわからない?
中華の歴史には最初に数字があって
後でそこに当てはまるのは誰かを考えるという概念が存在する
三皇五帝と春秋の五波はその代表的な概念だと言える
五という数字に何か特別な意味があるのかな?
越欧交戦は明らかに春秋時代における最有力者だが
核人とは言えないので除外するという意見もあるのだよ
このようにどこまでをその範囲とするかは議論があるところだったんだ
だがそれを一刀両断したのが四皇帝であったと言える
一刀両断とな?
四皇帝は下北も下南も一つの中央集権国家のもとに統一してしまった
つまり下北も下南も中華という大きな概念に吸収されたのだ
よく言われるのが四皇帝は欧州で言えば全ての国を統一してしまったようなものだ
つまりEUかい?
もっと強烈だったと言える
EUでは通貨は共通だが言語まで統一されたわけではない
だが四皇帝は通貨はもちろん法や行政言語をも統一してしまった
話し言葉は各地で異なっただろうが
行政言語である書き言葉を統一してしまったのだよ
EUで言えば全ての行政言語をラテン語で統一してしまった感じだね
ブレグジット以前のイギリスのように
EUでは統一通貨ユーロから離脱していた地域もあった
だが四皇帝は例外を許さず絶対的な集権を行ったんだ
改めてとんでもないことをしたね
だがその分反発は強かった
四皇帝の統一からは約15年
四皇帝の死からは約3年で統一国家としての秦は滅びてしまう
滅ぼしたのが長江流域の国だったその将軍の末裔である江雨だったのは象徴的だったと言える
味方によっては下北の文明に吸収されることに抵抗したようにも見えるね
秦の滅亡後中華は分裂の危機に見舞われたと言える
でも分裂しなかったんだね
江雨との戦いに勝ったUFOが秦の体制を引き継いだからな
この意味は非常に大きかった
江河文明を中心とする中華の概念は引き継がれたのだからな
今更ながら中華農家とは一体どういう意味なのだい?
文明を意味する言葉であるとされるな
中は当然世界の中心を意味する
つまり中華とは世界の中心に位置する文明という意味なわけだね
後に西欧で一般的となる秦国家とはその辺りが大きく異なる
主権国家体制ではあくまで主権国家同士は対等だ
だが中華に平等の概念はない
外交という概念もないわけだね
他の勢力は中華に侵入する以外の選択肢はない
その考えの具現化が強硬貿易であり策法体制というわけだ
対等な関係など認めないというわけだね
その考えの到達点が皇帝という称号にあったと言えるだろうな
宗以前君主は帝の称号を用いていた
だが宗はそれよりも下の位である王の位を使うことになる
はじめ王号を用いるのは宗の君主だけであったが
次第に諸公も王号を用いるようになる
宗の力が衰え諸公が対等したからだね
始皇帝も皇帝になる前は親王政だったからな
だが親王政は統一後さらなる上位称号を用いようとした
最初は帝号を用いようとしたのだが
その業績は後帝でさえ及ばないという話になった
後帝?
かよりもさらに前、中華文明を築いたとされる五人の君主のことだ
例によって誰が後帝になるかは議論があるが
中華の正当な歴史書である式は
皇帝、占玉、国、業、旬の五人を後帝としている
かの建国者であるうは旬から前条されてかを建国したとされる
かですらその実在は立証されていないのだろう?
後帝の存在は伝承に近い
だが伝承と歴史の境目とは曖昧なものだ
後帝の存在は中華では疑われることもなく
儒教ではそのうち業と旬を理想化し
その政権以上である前条をも理想とした
武力によらない政権以上だね
そこで帝の上位概念である運行を持ち出した
帝の上位概念があるのかい?
中華文明は参考後帝から始まった
これは中華史において1たす1が2になるのと同じレベルの前提条件だといえる
つまりそこには疑問の余地さえない当然の事実だというわけだね
1たす1が2でなかったら数学の全てが崩れるように
参考後帝から始まっていなかったら
中華は存在そのものが崩れるのだ
後帝は分かったけど参考とは?
例によって参考がどのような存在かは議論がある
この転覆儀や除下などの古の神々を参考とする考えもあるのだが
真の考えは違った
真の考えとは?
天公、飛行、大公を参考とした
公、とは本来神を意味する言葉だ
人に対して使う言葉ではないのだね
公帝の公の字は参考のうち大公に由来がある
というよりも大公から大を取ったのだ
そして古代の帝豪と合わせ公帝としたのだと式本義には書かれている
つまり公帝とは神なわけだね
公帝とは唯一無二の存在であり人ではなく神なのだ
なのでローマ帝国におけるカイザーやインペラトールとは性質がまるで違う
ローマ公帝という言葉は正規の語訳だと言える
でも使っているよね?
公帝とは唯一無二であり他に並立する存在など言おうはずがない
だから対等な外交などありえないし
主権国家体制とはまるで違うのだ
欧米の人間はそれを理解せずに対等な交渉をしようとして失敗したね
そして武力に訴え人類の歴史に消しようもない悪名を残した
西洋の君主は誰も神の化身や神自身を名乗らなかった
唯一ローマ教皇のみが神の代理人を名乗った
欧洲では公帝の上位存在に教皇がいて
さらに上位に唯一神がいたわけだね
対して中華公帝にはさらなる上位存在などいない
公帝が至高の存在であり神なのだ
神聖ローマ公帝にしてナポリオンにしてブルゴーミャ博なんてことはありえないわけだね
全てが至高存在である公帝に吸収されるからな
この点イスラムでは最高指導者カリフは予言者の代理人であった
予言者とは具体的にイスラム教の創始者であるマホメットのことだ
これまた全然違うのだね
なおイスラム教ではイエスを予言者とし
キリスト教ではイエスを神や精霊と同一視する
イスラム教ではマホメットはあくまで予言者であり
神と同一視されるわけではない
アッサーの他に神はなくマホメットはその人であるだったね
官の創始者である流宝ことコウソは
始皇帝の地位そして真の行政機構をほとんどそのまま引き継いだ
そして皇帝の地位は流宝の子孫によって引き継がれることとなる
そのうちの一人官の部廷は中華の概念をさらに広げた
概念を広げるとは?
東西南北4方向に軍事遠征を行い行政機関を置いて統治しようとしたのだ
例えばかつては統一された朝鮮半島には落狼軍などを置いた
かつて外側としていた地を内側に取り込もうとしたわけだね
もっともそれは成功したとも言い難いがな
朝鮮半島ベトナム西域諸国など結局緩和できずにやがては離反してしまう
内側には取り込めなかったというわけだね
流宝が起こした勘は一度は滅亡したが復活し結局400年近く続くことになる
ここまでが中華が確立するまでの過程だ
じゃあここからは中華が分裂していく過程が始まるわけだね
最初の分裂はご存知三国志だ
黄毛による勘の滅亡および新の建国も分裂と言えなくはないが
そちらは結局甲武帝によって勘が復活しているからな
詳しくは甲武帝を見てね
三国志は中華の危機だったと言える
何せ唯一無二だったはずの皇帝が三人も並立してしまったのだからな
中華はそのまま分裂したままという事態もあり得た
でもまた一つになったんだよね
芝一族によって再び中華は統一されたからな
だが芝一族による中華統一は新たな分裂時代の始まりに過ぎなかった
しかもその分裂時代は三国志とは比較にならないほどの深刻さだった
どう違うのかね
三国時代は結局のところ官民族同士の争いだったんだよ
だが新たな分裂時代五湖十六国時代と呼ばれるその時代は
異民族が覇権を握る時代だったんだ
すなわちそれは中華そのものの消滅危機だったと言える
古代ローマもゲルマン民族という異民族の信仰で滅びたわけだしね
滅びたのは西側だけで東側はその後千年近く続いたがな
ただその過程には共通する点がある
共通する点?
どちらも内側から崩されたという事だ
話は三国時代に戻る
この時代異常とも言えるほど人口が減っていた
一体どれくらい減っていたのだい?
推定だが漢が滅亡する少し前には五千万人以上が中華領域に住んでいた
それが三国時代には千万人を下回ってしまったと見られている
数十年で人口が五分の一以下になったって事かい?
疫病、飢饉、戦争
様々な理由があったのだろうな
そして人口は減っていたにも関わらず戦争の数は増えていった
三国史の物語は人気だけど人の愚かさを詰め合わせたような時代だったんだね
絶対的な兵力の不足を三国とも異民族を自分に汲み入れることで賄っていた
この辺りは古代ローマが絶対的な兵力の不足をゲルマン人を雇い入れることで賄ったのに似ている
ゲルマン人とゲルマン人が戦っていたんだよね
そして帝国の西方では軍事力を握ったゲルマン人が覇権を握るようになったわけだ
イギリスやフランスはゲルマン民族が作り上げた国だ
西欧諸国はゲルマン民族が作った国ばかりだもんね
京都、ケツ、センピ、テイ、キョウ
三国が自分に汲み込んだこれらの異民族は五湖と総称された
そして芝居地族の作り上げた神話、五湖によって滅ぼされることになる
西のローマ帝国がゲルマン民族に滅ぼされたのと同じ道理だね
ただ神も完全に滅亡したわけではなかった
正確に言えば滅亡はしたが復興された
神武帝が神を復興させたようなものかい?
神武帝はほぼ完全な形で神を復活させたが
神を復興した芝居はそこまでには至らなかった
彼の復興した国は一般的に東神と呼ばれる
東神?
神の都はもともと長安にあったが占領されてしまった
そこで芝居はかつて後の都であった兼領に都を置いたというわけだ
首都が東側にあったから東神というわけだね
中華の概念は危機的な状況に陥った
概念発祥の地である過北は異民族に支配され
統一国家としての体裁も崩れた
ここで中華の概念は滅びたと言ってもよい
三国時代とは危機の質がまるで違うわけだね
この状況は西側を失った東ローマ帝国ことビザンツ帝国が置かれた状況に近い
帝国西方ではローマの移民たるラテン人がゲルマン民族の支配下に置かれ
千年以上あるいは現在までその支配体制が続いた
過北もそのような状態になったということだね
そのまま過北とカナンで別々の国になり
それが現在まで続く可能性は大いにあり得た
だが中華はローマのようにはならなかった
中華を再び統一する存在が現れたのだ
それが本題であるついによる中華再統一というわけだね
そのためにはなお数百年の時が必要になる
どこまでが分裂期でどこからが統一に向かう時期かは明確に定義するのが難しい
今回は弁儀上北儀の簡化までを分裂期
それ以降を統一に向かう時期としたい
さてどのように秦が一度滅びたかは非常に重要なので触れておこう
時は三国志が終わり
秦が中華を再統一してから少し後に遡る
秦は宗の封建制に似たような制度を採用した
各地に血族や建国の行進を廃して統治したのかい?
血族のみだな
背景には漢の末期及び儀の末期に諸侯の力が強くなりすぎたことがあったのだろう
まさに柴一族は強くなりすぎた諸侯だった
自分たちのような存在を対等させないためだね
秦は柴一族を各地の王とした
そして各地の王が今度は激しい争いを始めたわけだ
それが八王の乱だ
詳しくは八王の乱を見てね
八王は積極的に五個と呼ばれる異民族を自分に組み入れていた
そして起きたのが、八王の乱、だ
八王の乱が終わってまた新たな乱が起きたのかい?
八王の乱がいつ始まったのかは難しいところだが
八王の乱の後という意見もあれば実質的に途中から始まったという意見もある
教科書では八王の乱の後に起こったとしている
教科書様の言うことは絶対
で、八王の乱とは一体何なのだい?
簡潔に言えば五個による官民族への反乱だ
そしてその反乱により秦は滅び
生き残った秦の後族である柴一が江南の地で秦を再興したわけだ
それが東秦だというわけだね
八王の乱、あるいはその直前から北義の下北統一までを五個十六国時代、と呼ぶ
あるいは?
教科書では五個十六国時代を304年からとし
八王の乱は311年から始まったとする
一方で八王の乱の始まりを304年とし
五個十六国時代の始まりと重ねる考えも存在するんだ
なおややこしいことに八王という元号は307年から始まっている
304年に一体何が起こったんだい?
京都族が漢という国を建てた
漢の復興を宣言したと言ってもよい
なぜ京都族が漢を?
漢の公主が京都族の前後と結婚する制度が昔存在したからな
京都族は漢の後族の地を引いているということで漢の復興を宣言したわけだ
この漢は五個の連合政権だったといえ
311年に秦の都である洛陽を陥落させた
秦の都は長安だったのでは?
洛陽が陥落したことで都は長安に移されたんだ
以降数年間秦は五個と戦った
だが316年に力尽き統一中華帝国秦は滅びたわけだ
詳しくは英科の欄を見てね
下北は五個の支配する地となった
だが五個十六国時代の名の通り安定した政権は気づかれず
丹明の勢力が乱立しては滅びていった
丹明の原因はただあれど
圧倒的多数を占める漢民族への支配体制を確立できなかった点が大きい
少数の異民族が多数の漢民族を支配する構造がうまくいかなかったのだね
そのような中下北を統一する勢力が現れた
それが帝族の立てた前進である
他の国とは何が違ったんだい?
前進では漢民族の知識人である黄毛を最初に据えた
漢化したってことかい?
漢化とは根本が違うな
漢化とは自ら漢民族化すること
この場合帝族は漢民族化したのではなく
漢民族を最初に据え内側に取り込んだんだ
そしてそれが限界だった
限界?
黄毛を徴用した府県には夢があった
それを一死同人という
どういう意味だい?
あらゆる民族が差別も偏見もなく平等に暮らせる世の中の実現さ
壮大な夢だね
府県はかなり強引にそれを実現しようとした
そして黄毛はそれを補佐した
最中五戦
黄毛は1年間で5回も昇進し
ついには最小になったのだという
恐ろしいほどのスピード出世だね
黄毛は帝族の有力者であっても容赦なく処罰したという
帝族をはじめとした黄毛は官民族である黄毛に反発した
かなり深刻な民族対立がありそうだね
府県はそのようなことは無視して黄毛に次々と権限を与え
それに異を唱える者あれば容赦なく処罰した
中には府県自身が残殺した者もいたという
理想は立派だけどかなりの暴君気質だね
でに至って軍心
毛を見て皆閉塞す
そのような言葉が残っている
イエスマンばっかりが残ったわけだね
しかも表面上のな
いろいろ問題を抱えてはいたが
黄毛が生きていた頃の前進は連戦連勝し
ついには下北を統一するに至る
その領土はかつての集や下を遥かに上回る広さだったといえる
中華文明発祥の地である黄河流域は
今や完全に異民族の支配下に入ったわけだね
だが中華の概念は既に長江流域にも広がっていた
下北を統一した前進が長江流域も支配し
中華統一を目指すのは自然な流れだった
問題はそれを達成する前に黄毛が死んだことにある
死んだんだね
黄毛は死ぬ前に
戦備族と強族を信用しないこと
闘神を安易に攻めないことを言い言していた
だが府県はその言い言を無視し
領部族を徴用した上で闘神を攻めたのである
383年に起きた翡翠の戦いは
中華の歴史を大きく変えたと言える
この戦いで府県は87万の兵力を率いていたとされる
87万って嘘でしょ
数字自体は誇張されていると考えられるが
かなりの大群であったことは確かだ
数十万人規模の軍団ではあったんじゃないかと思う
欧州でその規模の戦争が行われるのは
近代以降のことだよね
欧州と中華では人口の規模が違うからな
少し先、唐の時代に長安の都の人口が100万人を超えた頃
ロンドンの人口は3万人に満たなかったと言われている
今でも人口で言えば欧州全体を合わせても
中華人民共和国よりも少ない
ナポレオン戦争並の規模の戦争が
4世紀の段階で行われていたのか
対する闘神の戦力は8万ほどだったとみられる
だが勝ったのは闘神だった
十分の一にも満たない兵力でどうやって勝ったんだよ
裏切りだ
府県への不満が土壇場になって爆発した
また、あまりにも数が多すぎた
通信機器もないこの時代
数十万の兵に細かな命令を出すのは事実上不可能だった
結果軍は混乱の極みに達し
全兵団の8割が死に至ったという
内訳は不明だが
多くは味方の下敷きになって死んだとされる
この敗戦で力を失った全身はまたたくまに滅び
下北は再び分裂状態に陥った
主に戦匹族や強族が全身から独立し
全身はそれらの勢力に滅ぼされることとなる
戦匹族の後援や強族の行進などが下北にできるが
いずれも丹明政権で終わっている
その他様々な5個国家が下北にできたが
50年もつくにはなかった
ただ一つ、北義という例外を除いて
ここからはいよいよ中華の再統一編に入る
北義は後援などと同様戦匹族が建てた国だ
アメリカの南北戦争の例でも分かるように
同じ民族同士で争うことは珍しくない
北義を建国したのは
戦匹族の中でも託伐部と呼ばれる部族だ
この部族は3世紀には三国時代の一角である義に従属していたらしい
形としては一応前兆だったがな
北義、とは呼ばれているが
国の正式名称は、義、だ
戦国時代に存在した義や総一族の義とは区別するために
便義上、北義、と呼んでいる
中国の歴史には同じ名前の国が多数あるのだね
先ほど出てきた全神だって国号は神だ
神を国号とする国は多数あって
青神や黄神といった5個16国時代の国々の中にも複数存在する
同じ国号の国が複数存在するというのは
ちょっと理解しがたいところがあるよね
託伐部は4世紀の前半には、大、という名の国を建てていた
だがこの国は全神に滅ぼされてしまっている
全神はとにかく強かったのだね
託伐部の生き残りは独孤部の勇士に身を寄せる
この独孤部は今回大きなポイントとなる存在だ
独孤部とは一体?
郷土族の一派のようだな
それで漢の後続性だった勇士を名乗っているというわけだね
翡翠の戦いから数年がたった386年
託伐系は大王を称し、同年の4月には偽王と改称した
これが伏義の始まりとされる
全神と入れ替わるようにして伏義が対等していくわけだね
託伐系は周辺諸民族と戦い、398年には平城を都として皇帝となった
託伐系は歴史的には伏義の道部帝と呼ばれる
中華風の称号である皇帝を称したのだね
それ以前から五個は皇帝の称号を使用していたがな
ただ称号は使用しても文化習俗などは維持していた
だが道部帝は漢民族の文化や制度を積極的に取り入れたのだ
つまり感化したわけだね
本格的な感化はもう少し後のことだと言えるが
道部帝の感化政策から中華の再統一が始まったと言ってよいだろう
漢民族の支配地を征服したはずの戦備族は
だんだんと漢民族の文化に取り込まれていくのである
西洋でも似たようなことがあったね
クロービスの改修が似たような構図だと言えるな
ゲルマン民族の一派であるフランク族は現在のフランスにあたるガリアを征服したが
住民の大半は旧ローマ移民たるラテン人であり
アタナシウス派のキリスト教徒だった
フランク族はアリウス派のキリスト教徒だったね
ゲルマン民族たちはアリウス派を信奉しており
アタナシウス派のラテン人から見ていたんだった
キリスト教徒にとってイタントは生きたまま焼くべき存在だ
実際生きたまま焼いたから恐ろしいよね
ゲルマン民族たちは欧州で次々と国を建てたがいずれもうまくいかなかった
その中でフランク王クロービスはアタナシウス派に改修し
ラテン人の司教から歓迎された
フランク人のフランク王国はその後フランス、ドイツ、イタリア北部
ベネルクス三国などを支配する巨大国家になる
詳しくはクロービスの改修を見てね
少数民族が圧倒的大多数の民族を支配するには
多数派民族の文化を取り入れる必要がある
東武帝にはそれが分かっていたのかな
それは分からないが
一つ分かるのは漢化した北義だけが五個国家の中で生き残ることができたことだ
北義は時代が進むにつれて首都を南側に移していった
最初は現在の内モンゴル自治区の西岳、次に平城、そして洛陽というようにだ
洛陽は後武帝が復興した漢の都だったね
439年、東武帝の孫にあたる大武帝の時代
教科書では五個十六国時代を304年から439年としており
北義の下北統一をもって五個十六国時代の終焉としているのだと思われる
新たな時代が始まるのだね
この時代がどこからどこまでを含むのかは例によっていろいろな意見がある
そういう歴史用語って多いよね
この点教科書では220年から589年としている
その一方で教科書では439年から589年までを南北朝時代ともしている
589年は何の年代?
今回の主題である随による中華祭統一がなされた年だ
今回の動画の終点というわけだね
北義が漢化政策を本格化させるのは、下北統一後のこととなる
そしてそれは容易なことではなかった
漢化政策に対する戦備族の反発は強く
450年には黒子の極と呼ばれる事件が起きている
一体何が起こったというのだい?
簡潔に言えば戦備族による漢民族虐殺が起きた
漢化政策を推し進めた大武帝はその2年後の452年に死んだ
漢化政策はどうなるのだい?
471年から始まる公文帝の時代に一気に進んだ
この人物は5歳で即位しており、文青文明大綱が実権を握っていた
そうなると漢化政策はその大綱の意向かい?
どうやらそのようだな
なお三朝制、金田制、蘇陽朝制度など
歴史の教科書に出てくるこれらの制度も文青文明大綱が取り入れたと言われている
歴史上の超重要人物やん
公文帝の時代は中華史を語る上では外せないほど重要な時代だ
そしてこの時代は文青文明大綱が実権を握っていた時期と
公文帝が神聖を行っていた時期に分かれる
今回の動画の中でもかなり重要そうだね
文青文明大綱は漢民族だったとみられる
彼女の祖先をたどると北苑の皇族に行き着き
この北苑は漢民族が建てた国なのだ
そのせいなのかはわからないが
文青文明大綱は儒教的な制度を導入し漢人官僚制度を整えている
北苑の漢化には彼女の執事が関係あるのかもしれないのだね
もともと北苑には漢化の傾向があったが
文青文明大綱によってその路線は決定的になったと言える
490年文青文明大綱が死に公文帝の新生が始まった
公文帝は文青文明大綱の路線を引き継ぎさらなる漢化を推進する
具体的には?
493年首都を平城から洛陽に移した
そして戦飛風の勢を漢風に改める要命を下し
自ら託伐勢を捨て中華風の厳政を採用した
思ったよりも強力な進め方をしたね
進化たちにも漢風の勢への改正を強要し
さらに戦飛後や戦飛の習俗を禁止した
つまり戦飛俗に対して完全に漢民俗になるよう強制したことになる
これまでとは訳が違う漢化だね
これまで漢民俗の文化や制度を取り入れたことはあったが
それまでの習俗を禁止することはなかった
戦飛俗は中華の内側に取り込まれたというより
完全に中華そのものになったと言える
皮肉とも言うべきか
漢民俗にとっては異民俗である戦飛俗によって
中華の概念は復活したのだ
中華の担い手は必ずしも漢民俗とは限らないわけだね
先の話をしてしまうと漢民俗以外が中華を担った例は多い
金を建国した女神俗や
真を建国した女神俗改め満州俗はその代表的な例だと言える
最も女神俗は戦飛俗と違い
自分たちの文化は維持したので征服国家と呼ばれる
一方戦飛俗は完全に漢民俗に同化したので
北義は浸透国家と呼ばれるな
自分たちの習俗を捨てるってよっぽどだよね
だが当然歪みも出る
499年公文帝が死ぬとその歪みは表面化した
あるいは死ぬ前に既に表面化していたと言えるかもしれない
一体何が起こったんだい
戦闘前の都であった平城で大規模な反乱が起こり
そこに皇太子も参加していた
反乱は鎮圧されて皇太子は処刑
公文帝が死ぬのは皇太子の処刑からわずか2年後のことであった
大混乱じゃないか
523年中華の歴史を大きく変えた陸鎮の乱が起こる
これは文字通り6つの鎮が起こした反乱だ
6つの鎮と言われてもわからない
鎮とは北義における防衛拠点のことだ
北義は建国から南下し続けたわけだが
北方の領土を捨てたわけではなく
鎮がその防衛を担っていた
だが中央政府で出世するのは緩和した者たちばかり
鎮の有力者たちはそこから取り残されていた
そのことが不満であったわけだね
漢民族の制度では軍人の地位が低く知識人の地位が高い
鎮の担い手たちの地位は中央分官に比べて著しく低かったのだ
だが鎮の担い手は武力を持っていた
そして中央政府への反乱を起こしたわけだね
6つの鎮のうち最も重要なのは武専鎮だ
随はこの武専鎮より始まった
むむ
随だけじゃない党もだ
このような背景から中華史には武専鎮軍閥という言葉がある
むむむ
武専鎮とは元々首都であった平城を騎馬民族
特に従前から防衛する役割を担っていた
だが北義の首都が洛陽に移ったことでその地位は下がってしまったのだ
鎮の担い手は戦匹族なのかい?
戦匹族と郷土族だったようだな
鎮は元々数十あったが北義の南下
管轄政策の推進によって6つまで減らされていた
鎮は一種の軍閥を形成しており
残った6つの鎮が自らの存亡危機を感じるのは自然だったと言える
それで潰される前に反乱を起こそうというわけだね
北義は中央政府から官僚を派遣し
鎮をコントロールしようとした
陸鎮の一つ翼野鎮の有力者破綻官抜良は翼野鎮の長官を殺害してしまった
明らかに官民族の名前ではないね
郷土族の末裔であるようだな
陸鎮では彼に功をして北義に反抗する者が相次いだ
北義は反乱鎮圧のために宿敵とも言える縦前と手を組んだ
縦前から北義を守るための機関が鎮なのにね
破綻官抜良の軍団は縦前に敗北してしまう
結局のところ陸鎮の乱そのものは鎮圧されるのだが
この反乱が原因で北義は分裂することになる
分裂?どういうことだい?
陸鎮の乱を鎮圧したのはジシュエイという人物だった
この人物は郷土族の出身で
陸鎮の乱を鎮圧すると北義の使徒である洛陽に攻め込んだのだ
北義では郷土族出身者が目立つね
北義は戦備族と郷土族の連合政権的性格が強かったようだな
528年ジシュエイは会員の変を起こす
一体何をしたんだい?
北義の有力者を虐殺したんだ
その数は数千人の単位になったという
中華市でも有数の虐殺事件じゃないか
ジシュエイは皇宗邸を供物として北義の実権を握った
だがその戦亡は長くは続かなかった
530年ジシュエイは皇宗邸によって殺害されたのだ
なんかもう色々凄まじい展開になっているね
皇宗邸は同年ジシュエイの家族によって殺された
北義はどうなっちゃうんだい?
まだ10代前半の幼い皇宗邸が即位する
そしてその実権を握っていたのは皇冠であった
いや、誰すか
皇冠は戦備族の出身で改作賃の有力者だ
当初陸賃の乱に参加していたが
ジシュエイに従うようになる
ジシュエイ死後は北義の皇帝を殺した彼の一族を撃破し
皇宗邸を擁立して実権を握ったというわけだ
権力の移り変わりが恐ろしく早いねえ
皇宗邸は皇冠に対抗すべく、ウブン隊と手を組んだ
また新しい人物の名が出てきた
ウブン隊は郷土族の末裔で、武専賃軍閥の有力者だ
ここに武専賃出身者と改作賃出身者の激しい対立が始まる
陸賃の乱は鎮圧されたのに
陸賃の出身者が北義の実権を握るという事態になったのだね
結局のところ軍事力を握る勢力が強いからな
この通りは古今東西変わらない
日からこそパワーというわけだね
皇武邸は洛陽から離れ、長安に入った
一方皇冠は洛陽にて新たに皇政邸を擁立する
こうして北義は正義と統義に分裂してしまったわけだ
再統一に向かう過程ではなかったのかい?
確かに分裂はしたのだが
ここから先急速に統一されることになる
なお正義と統義とは呼んでいるが
どちらも国語は飽き、だ
便宜重正義統義と呼んでいるわけだね
随はこのうち正義から出てくるので
ここからは正義中心に見ていく
長安に移った皇武邸だが
右文体との関係は日々悪化していた
そして534年、右文体は皇武邸を殺害してしまう
皇帝を殺害するのは邪悪すぎないかい?
右文体は新たに文帝を擁立し、苦物とした
結局分裂したどちらの義も北義の後続を苦物としたわけだ
中華史ってこんな話ばっかりだな
正義には八忠国と呼ばれる存在がいた
これは右文体をはじめ忠国大将軍の地位にあった
八名の有力者の総称で
唐の建国者である李縁の祖振子もその一角を占める人物であった
唐の後続は正義の有力者の子孫だったのだね
ここで重要なのは同じく八忠国の一角を占めた毒虎神という人物だ
先ほど出てきた強度計の毒虎部と関係があるのかい?
毒虎神はその毒虎部の出身だ
そして唐の後続は毒虎神の血を引いている
先ほどから唐の後続の話ばかりだね
では隋の後続の話をしようか
まだ隋が建国されていない段階だが、隋は二代で滅びてしまった
そのうちの一人、陽台は毒虎神の孫にあたる
つまり隋の後続と唐の後続は親戚の関係にあるということだね
唐の建国者である李縁と陽台は共に毒虎神の孫、つまりいとこの関係にある
そしてそれが武千鎮軍閥と呼ばれる概念の正体というわけだ
毒虎神が欺瞞なわけだね
毒虎神もまた陸鎮の乱に参加していたが、やがて自主営に従った
彼は若い頃からウブン隊と交流があったようで、正義の陣営に加わるも、一時期南朝の寮に亡命している
いつの間にか南朝が寮に変わっている
南朝には南朝の歴史があるのだが、今回の動画ではそれほど重要でないので割愛する
ついが主役の動画なのに南朝の歴史は重要ではないのか
南朝は漢民族国家だったが、中華を復活させることはできなかった
もっとも、周辺国家からは南朝こそが中華だとみられていたようで
和の豪雨と呼ばれる和国の王たちは南朝に使い送っていたようだな
和とは日本のことだね
おそらくな
毒虎神はやがて正義に戻り、陽起大将軍に任じられている
かなり高い地位での復帰だね
なお毒虎神が忠国大将軍となったのは548年のことだ
彼には何人かの娘がおり、一人はウブンタイの子であるウブンイクに嫁いだ
ウブンタイとの関係の深さを感じさせるね
もう一人は八忠国の独り利子の子供に嫁ぎ、後に塔を建国する利縁を生んだ
もう一人は今回の主役ともいえる、随の建国者陽賢に嫁いだ
開始から50分以上がたってようやく主役が登場した
陽賢は漢の名神陽神の子孫であるという
だがまず間違いなくこの羊は捏造されたものであろう
なお塔の後続である利縁は道家の子孫ともいえる老子こと利治、新末期の将軍利伸の子孫を称している
この羊もほぼ確実に捏造されたものである
なぜ捏造したんだい?
中華、復興させるためだろう
そのためには圧倒的多数派の漢民族である方が都合が良かった
五湖支配の長い河北はともかく、河南はずっと漢民族が支配していた
今更異民族が支配するのは大きな困難が伴う
そこで支配者の方が漢民族を称したというわけだね
後の歴史を考えるにその試みは成功したといえるだろう
何せ随や塔は漢民族の国として扱われているのだ
領や貧、厳に秦のような征服国家でもなく、北義のような浸透国家でもない
漢や民などと同じ扱いだ
先輩族と郷土族の国なのに?
ここで重要なのは民族とは何か、だな
世界史に関して言えば民族は言語、宗教、出生地などで分裂される集団のことだ
その点感化し、先輩族の言葉や宗族を捨てた先輩族はもう先輩族ではなく漢民族だといえる
すでに先輩語を捨てていたのだったね
一方秦の皇族であった満州族は満州語を捨てていなかった
この点は歴史上の分類では非常に大きかったわけだ
もっとも唐の皇族はその出自を隠そうとしていたがな
唐では皇族の起源を調べることは極形に値した
その出自は重大な国家機密だったということだね
陽犬の父である陽中は、十二大将軍の一角を占めていた
十二大将軍とは一体なんだい?
正義における十二人の有力者のことだ
おそらくだが正義は先輩族及び郷土族による部族連合の性格を帯びていたのだろう
その正義だが、556年までとなる
滅びたのかい?
復讐に前兆という形でな
556年はウブン帯が死んだ年でもある
そして息子のウブン閣が後継者になり
彼は歴史上は復讐の孝賓帝と呼ばれる
ウブン帯が死んでウブン氏を皇帝とする復讐ができたというわけだね
だが孝賓帝は即位置まだ十五歳前後
実験はウブン帯の老いのウブン五が握っていた
なお正義の皇帝だった京帝は復讐ができるとすぐに殺されている
前兆の意味か
漢を一度滅ぼした黄毛以降
形ばかりの前兆が続くようになってしまったな
詳しくは黄毛を見てね
一方で復讐の初代皇帝となった孝賓帝は在役八ヶ月で死んだ
ウブン五によって殺されたのだ
孝賓帝はいとこだろう
孝賓帝はウブン五の抹殺を計画していた
だが計画が露見して逆に殺されたというわけだ
この国はどないなるねん
ちなみにだが独孤心もこの年死んでいる
ウブン五に追い詰められての自死だったという
そしてウブン五は新たに明帝を擁立した
明帝の皇后は先ほども触れたように独孤心の娘だ
明帝はウブン五に良い感情を持たないだろうね
ウブン五の方もそうだったようで
五百六十年に明帝を独殺している
いくらなんでも邪悪すぎないか
ウブン五は新たに愚鈍と評判の武帝を擁立した
ウブン五は安心して戦争を続けたが
ある日武帝に殺された
武帝は愚鈍なふりをし続けていたのだ
感心遂に滅びる、だね
武帝はまたたくまにウブン五に苦味していた者たちを殲滅するも
五百七十八年に病死してしまった
そして武帝の長男の選定の時代となる
この選定の後豪の父親こそが陽拳だった
ようやく陽拳の出番が来た感じだね
武帝は愚鈍なふりをしていたが
選定は本当に愚鈍だった
この人物は洛陽に巨大な宮殿を造営し
遊びまくる毎日を過ごす
そのために在位一年ほどで七歳の長男に皇帝の位を譲り
自らは天元皇帝を称する
色々とダメな匂いがする
この再生時は義理の父親ともいえる陽拳に任せた
そして五百八十年皇帝大位から一年ほどで選定は死んだ
まだ二十二歳だった
随分と若くして死んでしまったんだね
一方陽拳は復讐の実験を握り
反対勢力を抑えることに成功していた
そして選定の死からまだ一年と経たない
五百八十一年の二月に前条によって自ら皇帝となり
新たに随を建国したのである
ついに随の建国まで来たね
随の建国から中華統一まではあっという間だ
随が誕生した段階で中華には黄陵と陳があった
南朝の陳はわかるけど黄陵とは?
黄陵あるいは清陵とも呼ばれる国で
南朝陵の皇族が建てた政権だ
五百八十七年に陽拳によって滅ぼされている
そういえば北西は?
五百七十七年に滅びている
滅ぼしたのは北州の武帝だ
この人物がもう少し長生きしていたら
中華氏は違った形になっていたのかもね
武帝の時代に既に形勢は決まっていた
陳はそれまでの南朝に比べても脆弱で
陽拳は息子の陽大を総司令官とする軍団を陳に派遣し
五百八十九年にその滅亡に成功した
隠して陳は新依頼約二百七十年ぶりに中華統一を果たしたのである
かなりの期間分裂していたね
陽拳こと陳の分邸は山椒陸部など中央管制を整え
新たな管理東洋制度架橋を制定した
だが陳の天下は三十年ともたなかった
朝鮮半島にあった黄陵への旅重なる遠征
大運河の建造など国民に多大な負担をかけた結果
陳は六百十八年に二代で滅ぶことになったのである
詳しくは大運河の建造を見てね
再び分裂した中華を一つにしたのは
唐の建国者である李縁であった
中華の概念を真に確立したのは唐だったという意見もある
そうなのかい?
唐は周辺諸国家に対する優越的な創始権を確立し
中華思想を体現して世界帝国を確立した
もちろんそれは随による中華の再統一があってのことだった
以降も中華は幾度となく分裂する
だがどれだけ分裂してもまた統一される
中華だけだね
ローマもイスラムも分裂した後は再び一つになることはなかった
中華史だけ見ているとそう大きな出来事のようには見えないのだが
世界史全体で見れば
随の中華再統一がどれだけ大きなことだったかがわかるだろう
と言ったところで今回の動画は終了だ
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