【百年の真相】戦力は上でも敗北した理由 蔣介石陣営に潜む共産党スパイの謎

大紀元 エポックタイムズ・ジャパン
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1945年、戦火は収まり、日中戦争が終結した。だが、中国本土に平和は訪れなかった。待っていたのは、国共内戦という新たな激流だった。国民政府軍は兵力に勝り、装備も整い、共産党軍を大きく上回っていた。ところが、そのわずか4年後の1949年、蔣介石は失意のうちに台湾へ退き、毛沢東は天安門城楼に立った。なぜだったのか。
1945年、戦火は収まり、日中戦争は終結しました。
ですが、中国本土に平和は訪れませんでした。
待っていたのは、国境内戦という新たな激流でした。
国民政府軍は兵力に勝り、装備も整い、共産党軍を大きく上回っていました。
ところが、そのわずか4年後の1949年、
小海石は失意のうちに台湾へ退き、毛沢東は天安門城楼に立ちました。
なぜだったのでしょうか。
その背後には、小海石の周囲に複数の共産党スパイが潜んでおり、
中には好意についていた者もいたという事情がありました。
各助会は、小海石に目をかけられた文科生であり、国民党軍切手の参謀の一人でした。
彼は数々の極秘軍事情報を密かに延安へ送り、
小海石の生難死守の望みを断ち、自らの人生もまた破滅へと向かわせました。
台湾の新聞には、彼を表してこの言葉があります。
一人の潜入スパイが天下の行方を影響し、領軍の勝敗はすでに決していた。
今回は、小海石に痛恨を残した最大の共産党スパイ、各助会の軌跡をたどります。
彼はなぜその道を選んだのでしょうか。
そして中共政権の下で、なぜ悲惨な歳月を送ることになったのでしょうか。
1907年、各助会は師専の学問をおもんじる家に生まれました。
家には書物があふれていましたが、本人の寄室にはどこか反骨精神がありました。
1919年、腰運動が全国を席巻する中、各助会は生徒連合中学で学んでいました。
身長派教師の腰輪の影響を受け、社会主義に惹かれ、運動を起こして国を救うという発想に強く心を動かされました。
しかし、この熱意はほどなく彼自身に痛手をもたらします。
学校の校長は保守的で厳格な伝統的教育を進めており、生徒たちの不満を買っていました。
各助会は戦闘に立って抗議運動を起こし、校長を追い出しました。
生徒たちは歓声を上げて新校長を迎えました。
ところが、事態は期待とは逆の方向へ進みました。
新校長は汚職に手を染め、教育現場は混乱を極めました。
同級生たちは怒りの矛先を各助会ら、騒動の英雄たちへ向けました。
彼はすっかり面目を失って学校を去り、後に回想録の中で当時の心境を内心不安で、非常に気まずかったと振り返っています。
この経験は大きな教訓になってもおかしくありませんでした。
ですが、各助会はそれを深く受け止めることなく、かえって反伝統の道をさらに進んでいきました。
1925年、各助会は広歩軍艦学校第5期に入学し、ここから軍歴が始まりました。
当時は第一次国共合作の時期で、一部の共産党員が広歩軍艦学校で教えていました。
各助会はそうした共産党の人たちと知り合い、強い影響を受けました。
共産主義の理念に惑わされ、自分こそが旧国の真理を見出したと信じ込んでしまいました。
その後、広歩軍艦学校の同期で親友でもあった遠慶明の紹介により、ひそかに中国共産党に入党しました。
1927年に国境が決裂した後、彼は何度か兵変を起こそうとしましたが成功せず、危うく小隊が露見しかけました。
1930年には、重型の各助党が彼を守るため、急いで日本留学へ送り出しました。
各助会は陸軍士官学校で軍事を学び、体系的な軍事訓練を受けました。
この時期、彼は中国共産党との連絡を失っています。
1931年、満州事変が勃発し、日本軍が中国東北部を侵略しました。各助会は行き通って退学し、帰国しました。
いとこの手配により陸軍大学に進み、紹介席の指導を受けました。
広歩軍艦学校、日本陸軍士官学校、陸軍大学、これらの経歴によって、各助会は国民党軍内でも屈指のエリート将校へと成長していきました。
日本語とドイツ語に通じ、軍事理論にも強く、実戦経験があり、教官も勤めました。軍部両面を備えた将校でした。
1937年、日中の全面的な戦争が勃発し、各助会は鎮西率いる国民革命軍第18軍第14師の参謀長に任命され、上海事変に身を投じました。
戦場では日本軍の航空機が押し寄せ、爆撃を繰り返しました。
国民党軍の陣地は風前の倒下となりました。各助会は自ら進み出て、兵を率いて陣地を守り抜くことを志願しました。
出陣の際、彼は鎮西へ遺書を託しました。
もし陣地が持ちこたえれば、生きて戻り閣下に拝越いたします。
もし陣地が疾患すれば、私は必ず戦場に散ります。
いつの日か抗日戦争に勝利し、将軍が勘で御正口を通過する際、もし山のごとき荒波をご覧になれば、それは私の魂がかえってお目にかかる姿だと思ってください。
7日7番に渡り、各助会は二つの連隊を率いて日本軍と死闘を繰り広げました。
八千の将兵のうち、生き残ったのはわずか二千でしたが、見事に陣地を支守しました。
この戦いで各助会は軍内にその名を轟かせ、鎮西からは厚い信頼を寄せられ、紹介席からも一目置かれる存在となりました。
以来、彼は将森を重ね、国民党軍のスター将軍として頭角を表しました。
武漢開戦を控えた時期、彼は武漢を守るが、武漢では決戦しないという大胆な作戦を提案しました。
つまり、領土的な余地を利用して時間を稼ぎ、その間に日本軍の戦力を消耗させるという考えでした。
鎮西がこの案を採用したところ、見事に功を奏しました。
武漢は疾患したものの、国民党軍の主力は温存され、日本軍も攻撃を継続する余力を失ったことで、戦争は硬着段階へと移行しました。
各助会の軍事的手腕は君を抜いたものでした。
1945年、日本が降伏すると、各助会は降伏調印式に参加し、意気揚々としていました。
紹介席の側近として映画を極めましたが、彼は一部の国民党将校の汚職に深い不満を抱き、内心では共産党が描く世界に憧れ、中共との接触を狙っていました。
中共側は、これほど地位の高い国民党将軍が基準を望んでいることを知ると、この好奇を逃す前と直ちに接近しました。
1945年と1946年、各助会は中共南方局の党筆部と二度、秘密裏に面会しました。
党筆部は彼に対し、延安へ行くのではなく、国民党軍内に留まってスパイとなり、中共へ情報を流すよう指示しました。
その日から、各助会は二重生活を送ることになります。
昼間は、国防部第五町長として国民党軍の編成と訓練を担い、紹介席が信頼する側近でした。
夜になると極秘文書を書き写し、こっそりと延安へ送り届けました。
彼が残した八冊の日記には、中共の連絡員との二三百回に及ぶ密会記録や、国民党軍の戦略配置が詳細に記されていました。
彼が送り出した情報は、驚くべきものばかりでした。
三党への攻撃計画、徐州の兵力配置、大別山への増援案、延州救援作戦、長春救援作戦、超高防衛戦の不時、西南方面部隊の編成。
こうした情報は、国民党軍の急所をつく派のようなものでした。
1947年、蒙領抗戦役の直前、各助会は国民党軍の作戦計画を書き写して中共へ渡しただけでなく、米軍装備の火力に注意するよう警告まで与えました。
情報を得た共産党軍は待ち伏せを準備し、さらには地主や不能、国民党関係者の家族を人間の盾として前面に立たせ、国民党軍の弾薬を消耗させるとともに死期を削ぐ戦法まで用いました。
結果、国民党軍の精鋭である第74師は壊滅し、日中戦争の英雄、張霊保は戦死しました。
1948年、外海戦役を前に、ガオーキンが朝攻を守るには必ずワイガを守るべしという計画を提案しましたが、国民党軍が動くよりも先に、すでに蒙特党はその作戦案を入手していました。
さらに各助会は紹介席を説得し、助州付近での決戦を強行させ、国民党軍を絶体絶命の窮地へと追い込みました。
公日の名称、旧聖戦は会議の場で憤慨し、「貴様の配置は、皇后が外科で市地へ赴くのと何が違うのか?」と罵倒しました。
結局旧聖戦は戦死し、国民党軍は大敗を喫しました。
各助会は機密を漏らしていただけではなく、国民党軍内部で対立を煽り、偽情報まで流していました。
国民党軍の都一名将軍は、早くから各助会に疑いの目を向け、紹介席に告発しました。
各助会の家を訪ねると、町長という地位にありながら、王節間のソファには継ぎ当てが目立ちました。
これを聞いた紹介席は、革命軍人が精錬であって、何が悪いのかと激怒しました。
念のため紹介席は小渓谷に内々に確かめさせました。
ある夜、小渓谷が突然くる若を訪れると、食卓に並んでいたのは数皿の質素なおかずだけでした。
各助会は大根をかじりながら、作戦研究にふけていました。
紹渓谷はすっかり感心したと言います。
帰宅後、紹渓谷は紹介席に、各助会は精錬潔白で、まさに模範とすべき人物ですと報告しました。
これで紹介席は各助会をますます信頼するようになり、1948年には長所に昇進させました。
1949年、国民党軍は三大戦役で連敗を起し、紹介席は西南に退いて固守するつもりでした。
各助会はこの機を捉え、自ら部隊を率いて試戦へ赴きたいと願い出ました。
紹介席は即座にこれを認め、第72軍軍長に任じ、多くの武器弾薬と歴戦の兵を与えました。
各助会は部隊を内耕と義賓に中途させ、長耕の要所を抑える有利な婦人を敷きました。
さらに福神を要所に配置し、軍の主導権を握りました。
1949年12月、各助会は義賓で部隊を挙げて共産党側に寝返りました。
これにより、紹介席の西南士種の思いは完全に打ち砕かれました。
台湾へ配送した紹介席は、この時になって初めて気づきました。
最も信頼していた各助会こそが、長年潜伏していた中共のスパイだったのです。
各助会は中共に大きな功績を立てました。
ですが、中共政権の成立後も徴用されることはなく、十分な信頼すら得られませんでした。
与えられたのは、西南公所交通庁長という官職同然の職で、事実上、脇へ置かれた形でした。
統席の回復も願い出ましたが、中共は当時の紹介者の証言を求めました。
しかし、その人物はすでに亡くなっていました。
1951年、各助会は南京人民解放軍軍事学院の教官に移動しました。
その後も、中共が繰り返し言った政治運動の度に、彼は例外なく巻き込まれました。
1957年の西風運動では、長く安定した統治には民主と法治が必要だと口にしたため、
ウハとされ、農場へ送られて労働による改造を強いられました。
文化大革命では堅く捜索を受け、引き回しにも遭い、屈辱の限りを味わいました。
かつて各助会と共に共産党側に転じた部下たちも厳しい運命を免れませんでした。
市長から班長に至るまで、スパイのレッテルを張られ、取り調べを受け、処刑された者も少なくありませんでした。
その惨状は目を覆うばかりでした。
1979年、71歳になってようやく各助会は再入党を許されました。
晩年は執筆に打ち込み、中国軍事史や中国抗日戦争正面戦場作戦記を着しました。
その中で彼は、覆い隠されてきた歴史の実装を書き残しています。
抗日戦争中、国民党軍は22回の大海戦、1100回を超える重要戦闘、さらに約3万回に及ぶ小規模戦闘を戦い、陸軍の死傷者は320万人を超え、空軍も4000人以上を失い、約2500機の航空機を失ったといいます。
その記述は、歴史に対する彼なりの介護と贖罪にも見えます。
1997年、核除解は娘を空港へ送る途中、交通事故にあって亡くなりました。
核除解の死後、息子の元には陸軍大学時代の旧友達から数通の手紙が届きました。
封を開けると、中には白紙一枚が入っていました。
陸軍大学の卒業時、彼らは互いに、一切は言葉にせずとも通じると書き交わしていたといいます。
その白紙には、複雑な感情が込められていました。
核除解の行為によって、200万人の国民党軍将兵が台湾へ退くことになったと恨む気持ちがある一方で、
闘争の情を捨て切れなかったのです。
核除解の人生は、理想と現実の狭間で引き裂かれた悲劇でした。
彼は国民党を裏切れば、より明るい未来が開けると信じていました。
国民党の汚職を嫌いましたが、中共政権成立後の汚職は、それに劣らず深刻でした。
中共のために命がけで動いたにも関わらず、自らもまた政治運動の中で徹底的に打ちのめされました。
毛沢東の独裁を目の当たりにした時、核除解は障害石から寄せられた信頼を思い出したでしょうか。
粛清される人々の悲惨な姿を見た時、生徒連合中学でのあの経験を思い起こしたでしょうか。
そして、自分がかつて信じた共産主義が美しい虚言に過ぎなかったと悟ったのでしょうか。
核除解は決して例外ではありません。
彼のような潜入工作員やスパイは少なくありませんでした。
共産主義という虚しい約束を信じ、かつての誓いを捨てた末に、最後は歴史に押しつぶされていったのです。
