【三菱】販売不振から一転 米軍採用された伝説のビジネスジェット【ゆっくり解説】【航空工学】【MU-300】

航空工学館【航空技術ゆっくり解説】
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#飛行機 #航空 #ゆっくり解説
◆チャンネルについて
このチャンネルでは航空機技術に関する仕組み、構造などをゆっくり解説していきます。
◆動画について
今回は三菱の小型ビジネス機MU-2、MU-300についてゆっくり解説していきます。
魔理沙大変よ
霊夢どうしたんだぜ以前解説してくれた
ホンダジェットの動画が好評みたいで再生
数が伸びているわおーそれは嬉しい限りだ
なコメントもたくさんしてくれて本当に
ありがたいわあの動画では確か三菱の
スペースジェットを引き合いにホンダ
ジェットの成功の要因も話したなそうだっ
たわねでもあの解説を聞いて三菱も小型
ビジネスジェットを作っていたらどうなっ
ていたかを考えてしまったわ作ってるぜえ
三菱は昔小型ビジネスジェット機も作って
いるんだぜそうだったのねそれは知ら
なかったわよしそれじゃあ今回は三菱の
小型ビジネスジェットMU2MU300に
ついて解説していこうお願いするわこの
チャンネルでは航空機技術に関する仕組み
構造などを解説していくから良かったら
チャンネル登録で応援してもらえると
嬉しいんだぜ
まず三菱MU2は1960年代に登場した
小型ビジネス機でMU300はその後継機
として登場した機体だなMU300は当初
は全く売れず不発に終わったかと思いきや
後にアメリカ空軍の練習機として採用され
1点大きく売り上げを伸ばした機体なんだ
ちょっと待ってアメリカ空軍が日本製の
航空機をそんなにたくさん買うとは思え
ないんだけどこれには理由があるんだその
あたりの理由や経緯もMU300の歴史と
ともにこれから解説していくぜわかったわ
そもそも何で三菱はビジネスジェットを
作ろうと思ったの三菱は1960年代に
日本初のビジネス航空機としてまず小型
ターボプロッププロペラ機のMU2を開発
した当時は日本航空機製造でYS11の
開発が行われていた頃で三菱重工からも
多数の技術者が派遣されていたさらに当時
の三菱はF86Fなどのアメリカ製軍用機
のノックダウン生産も手掛けておりその
技術力に自信をいたんだそしてこの頃三菱
は次期主力戦闘機の調査のためアメリカで
リサーチ活動を行っていたんだがそこで
多数の小型ビジネス機を目の当たりにした
時にこのレベルなら自社でも作れそうだと
考えたこうして
軍民療養の小型ビジネス機のプロジェクト
が始まったんだそれだけ自信があったのね
当時の小型飛行機は戦前のレシプロ
エンジンをそのままターボプロップに
置き換えたような機体が多く
独自設計の期待を作ればそれなりに勝機が
あるだろうと考えていたらしいな
期待の設計にあたっては三菱が戦前から
保管していた軍用機の図面や当時手掛けて
いたF86Fそしてなんとアメリカの航空
雑誌のコピーなんかを参考にしたそうだ
情報が少ない時代とはいえ三菱ほどの企業
が航空機の設計に雑誌の記事を参考にして
いたなんて
びっくりねこうして完成したのが三菱MU
2だぜMU2は外見こそをよく
双発ターボプロップのオーソドックスな
ものだったがキャビンのスペースを
なるべく広く確保するが施されたそして
500キロを超える高速巡航性能を持ち
安定した操縦性を実現さらに主翼幅を一杯
まで使った公園フラップを採用したことで
エストールと呼ばれる短距離着陸性能を
持っていた運用する側に非常に使い勝手が
よく乗客にも快適な機体となっていたんだ
時代も期待の種類も全然違うから比べる
ものじゃないとわかっているんだけど
スペースジェットの時とは大違いで順調
そうねしかし実用化に向け大きな壁が
立ちはだかったのはこの後だもしかして
型式証明をよくわかったな霊夢アメリカと
の対空照明の相互協定があったことから
三菱は当初国内の照明だけでMU2を輸出
販売できると考えていたしかしアメリカの
メーカーから指摘が入り
急遽アメリカでも型式証明を取る必要が出
てきたんだうーんなんか潰しにかかられて
いる感じがするわねまあアメリカの
メーカーからしたら面白くないだろうな
結局FAAの型式証明の取得は難航し取得
に1年ほどを要したらしいこうしてMU2
は何とか販売にこぎつけたんだなんとか
販売まで行けて良かったわねしかしこの後
また問題が発生する三菱は北米での販売網
を持たなかったため
販売を現地の小型機メーカー
ムーニーに委託したんだが
販売開始から間もなくしてムーニーが倒産
危機に陥ってしまったそこで三菱は現地
法人三菱アメリカインダストリーMaiを
設立してアメリカでの販売を全て自分たち
でやらなくてはならなくなったんだ現地
法人とはいえ日本のメーカーがアメリカで
販売するのは大変そうねアメリカで販売
する航空機は半分以上をアメリカの部品で
作らなければならないという法律があった
んだが日本人営業マンがその部品を調達し
に行くと以上に価格を釣り上げられたり
売ってくれないということがあったらしい
試しにアメリカ人に調達しに行かせた
ところ価格が下がったそうだぜだいぶ舐め
られていたのねあーこうした苦労を
乗り越えてMU2は高い飛行性能が評価さ
れ受注数を伸ばしていったんだ
MU2が公表を見せると三菱は60年代
後半に後継機の開発に取り掛かることに
なるぜそれがMU300ってことあー三菱
はアメリカで市場調査を実施し新型機の
コンセプトを最高速度800キロ高い燃費
効率と経済性を兼ね備えた高級ビジネス機
としプロジェクトが進められていったんだ
三菱はその後も入念な調査と計画を
繰り返し1975年に大まかな計画が
まとまったんだぜ機関を見るといかに慎重
に検討されたかがわかるわねそうだな三菱
としては何としてでも後継機も成功させ
たかったんだろう開発も慎重に進められ
性能試験は2年間をかけて行われたその
結果をもとに慎重に経営判断をした結果
量産段階に進められることになったんだぜ
こうして1979年にはFAAの対空審査
に合格MU2での実績があったこともあり
顧客からの期待も高かったんだそっかMU
2の成功があっただからこそアメリカで
すでに受け入れられていたのね機体の特徴
はどんな感じだったのMU300は乗員2
名乗客8名を店員とする小型ビジネス機と
なったエンジンは先代ターボプロップから
ターボファンに変わり
プラットアンドホイットニーのJI15D
4が2機搭載されたぜそしてこのMU
300で最も特徴的だったのは当時の最
先端技術によって生まれたスーパー
クリティカル力型の採用だスーパー
クリティカル欲型あこれは主翼断面の形状
を工夫し調和音速領域とあ音速領域の境目
に生じる衝撃波を弱くする工夫だったんだ
これによってどういう影響があるのこれに
より高速飛行時の抵抗が削減できるから
最高速も伸ばせるし
燃費も良くなるんだぜ
民間機では1972年のエアバスA300
が初採用していたがそれを小型ビジネス機
にも持ち込んだ形だなそれは大きな武器に
なりそうねさらに機体のデザインも当時
発展著しかったけどキャムなどを駆使して
設計され空気抵抗の削減や操縦安定性を
高められていたこれにより当時の同クラス
の期待よりも早い805キロの巡航速度を
実現したんだぜ
競合機よりも高性能ですすでに実績も認め
られているならユーザーの反応も良かった
んじゃないあ当時はアメリカの経済が好調
だったこともありMU300はすでに多く
の注文を抱えていたぜここまではすごく
順調そうに見えるわここまではなあ
やっぱり何かあるのねあー1979年
マクドネルダグラスのDC10が相次いで
墜落事故を起こしたことをきっかけに
FAAの審査基準の甘さが指摘されるよう
になっていったんだこれによりFAAが
その審査基準を厳しくせざるを得ない状況
となっていた当初はDC10のような大型
機のみ
審査厳格化の対象になるだろうと見られて
いたんだが
結局FAAは全ての期待を対象に
審査を厳格化したんだあららそれは三菱に
とっては厄介ね
審査が厳しくても前例があれば色々と対策
できるがそれもないからな三菱は機体の
回収に苦労したんだぜ
順調に進んでいたのに
富んだ災難ねそうだな
結局MU300は79年の8月に対空試験
に合格していたにもかかわらず飛行試験の
許可を得たのはその9ヶ月後の80年の5
月となったさらにMU300は基準改正後
の最初の試験対象機となり
注目を集めたことからFAAもより慎重な
判断を下さざるを得なかった
結局こうした背景が影響しさらなる回収を
強いられたことから
型式証明を取得できたのは81年の11月
までずれ込んでしまったんだでも機体自体
は好評だったんだからこれで問題解決じゃ
ないのしかし
販売開始がずれ込んだことで状況は一変し
たんだMU300は100機を超える狩り
受注を抱えていたんだが
期待が型式証明取得に手間取る間アメリカ
では政府の高金利政策などにより景気が
悪化したさらに前述の理由で納入が遅れて
いたことも影響し
契約のキャンセルが相次いだんだぜ
やっぱり世の中なかなか一筋縄にはいか
ないものね
結局その後もMU300の販売不振は続き
売上は伸び悩んだ
慎重に計画されたはずのMU300の失敗
により三菱は多くの負債を抱え
航空事業の見直しを迫られる事態となった
んだ
結局この不発によりアメリカ現地法人の
Maiを生産するべきだという話まで議題
に上がった83年の3月にはMU300の
改良版を市場に投入したがこれも売れずに
帰って赤字を拡大させてしまったんだぜ
負のスパイラルに陥っているわそこで
Maiは打開策としてアメリカの軍需製品
メーカーレイセオンの子会社で小型航空機
を多数扱うビーチクラフトと提携MU
300をビーチクラフトの持つ豊富な小型
機販売網に乗せてもらうことで形勢逆転を
狙ったんだビーチクラフトからしたら同じ
小型機を扱う三菱はライバルじゃないの
なんで定型に応じたのビーチクラフトも
当時経営が厳しくさらにラインナップに
ジェット機がなかったんだだからジェ
エンジンを採用しているMU300が
ラインナップとして増えるのはビーチ
クラフトにとってもメリットだったんだ
なるほどねしかしここでまた厄介な事態に
見舞われる不況が続いた当時のアメリカで
は
政府が対日収支の悪化や日本経済の急成長
が自国の不況に影響しているとし対日感情
が悪化していたこれにより日本のメーカー
は部品調達でアメリカの部品の調達を拒否
されたり
価格を釣り上げられたりしていた
肩身の狭い思いをしていたんだそんな状況
を見たビーチクラフトは三菱ブランドで
MU300を販売することはデメリットが
大きいと判断したそこで
期待をビーチジェット400という名前に
変更して販売することになったんだぜ三菱
側からしたらあまり気持ちよくないことか
もしれないけどこの状況からしたら仕方が
ないわねああその後も三菱はビーチ
ジェット400の生産を手掛けたがビーチ
クラフトは円高による輸入価格の高騰に頭
を悩ませたそこでビーチクラフトはMU
300の生産
販売を含めた全ての権利を三菱要求三菱も
大きな赤字を生んでいた小型航空機事業を
どうするか
議論が続いていたからこれを機にMU
300の権利を全てビーチクラフトへ売却
市場から撤退したんだうーん
悲しいけど市場の状況を考えたら勝ち目が
あったようには思えないから
仕方がなかったと思うわそうだよなこうし
てMU300は失敗に終わったかに思われ
たところがビーチクラフトが1990年に
ビーチジェット400の胴体を延長した
400Aを発表するとこれにアメリカ空軍
が目をつけたアメリカ空軍は400Aを
ベースとした400Tを
練習機として採用これによって売り上げを
大きく伸ばしていったんだええアメリカ
空軍に採用されたことで一発逆転したって
ことそういうことだなその後ビーチ
クラフトがホーカーシドレート事業統合し
たことから
期待はホーカー400となったがその後も
生産販売を継続現在も現役で活躍している
んだ
ちなみに三菱ブランド時代のMU300が
100機ほどしか生産されなかったのに
対しビーチクラフトが権利を取得した後の
400は実に700機以上が生産されたぜ
三菱というか日本としては悔やんでも
悔やみきれない結末ねそうだなまあでも
あのまま三菱がアメリカで販売を続けてい
たとしてもこの結果はなかっただろうし
MU300がコケた時点で三菱側としては
やれることはほとんどなかっただろうな
その後のスペースジェットといい三菱の
民間機事業はいずれも辛い結末を迎える
ことになったんだぜ
[音楽]
今回は三菱の小型ビジネス機プロジェクト
について解説したぜうーんなんというか
アメリカで航空機を売る難しさを感じたわ
ねただいいものを作れば売れるというわけ
ではないのよねそうだなその後アメリカ
空軍に採用されたところを見てもMU
300の飛行性能なんかは優れていたと
言えるわけだからなこればかりはなかなか
難しいんだぜでも三菱がこんなにすごい
期待を作っていたことを知れて良かったわ
よし今日はここまでだこの動画を面白いと
思ってくれたらチャンネル登録や高評価を
してくれると嬉しいわそれではご視聴
ありがとうございました
