【ゆっくり解説】戦国もう一人の魔王 武田光和

にっぽんぽん【ゆっくり日本史解説】
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歴史は何のために学ぶのか。この疑問を持ったことがある方は少なくないでしょう。仕事では直接使うことはほとんどないですよね。
過去を学ぶことで未来に活かせると私は考えています。教養という意味でも社会で必要な知識でしょう。
先人たちはどのような暮らしでなぜそのような文化が形成されたのか。面白いことばかりです。
こういった考えから、このチャンネルでは社会人の方が、ゆっくり楽しく歴史上の偉人のことを学べ、更に、そこから日常でも役立てられるような動画を作っています。
このチャンネルを通して学び、役立てられる人が1人でも多くなるようにチャンネル運営を頑張っていきます。応援してもらえると嬉しいです。
ほぼ毎日17時に動画を配信中 にっぽんぽん 運営 山本陽太
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#ゆっくり #ゆっくり日本史 #ゆっくり解説
ゆっくりレイムと
ゆっくりマリサだぜ
レイム、これまでたくさん歴史上の人物の話をしてきたけれど、歴史は好きになったか?
そうね、おかげさまで結構好きになったわ
印象に残っている人はいるか?
私は豪快な人が好きだから、源のため友は好きだな
過去動画平安時代の最強の男で解説したアレだな
エピソードが豪快すぎるものねー
そうだ、豪快すぎるエピソードを持つ人物がもう一人いるんだけど、知りたいか?
えー、そうなの?知りたい、誰なの?
では、今日は戦国もう一人の魔王と呼ばれた武田見つかずについて解説するぜ
それじゃあ、ゆっくりしていってねー
マリサ、武田見つかずって初めて聞く名前だけど、一体何者なのよ?
レイムは、秋武田氏って聞いたことがあるか?
え?武田氏なら武田信玄とか武田勝頼なら知ってるけど、その武田氏と秋武田氏って関係しているの?
関係しているぜ。もともとは同じ武田氏から別れたんだが、ちょっとここで、秋武田氏の理解を深めるためにも、武田氏のルーツを簡単に紹介するぜ
はい、お願いします
レイムは武田氏のルーツはどこだと思う?
そりゃあ、信玄だから開国じゃないの?
残念。武田氏のルーツはこの経図を見て欲しいんだけど、第56代天皇清和天皇の孫になる源の常元が源氏を名乗ってから始まるんだぜ
源氏がルーツになるのか
そうだ。そうして時代は下って、武田氏の祖と言われているのが、源義満だ
へえ、この人は何をしたの?
源の義家は以前の解説動画にもたくさん出てきたと思うけど、1083年英宝三年から始まった五三年の益で活躍したのが義家だったよな
別名矢渡太郎って言ったけど、この人物も豪傑伝説があったよな
そうだったわね。立割石伝説はすごかったわね
ああ、欧州征伐に向かう義家が老人からもらった太刀を持って、目の前にあった大石めがけて太刀を振り下ろしたところ、大石は真っ二つに割れ、片方は転がり、もう片方は大地にめり込んだっていう伝説だな
すさまじい
その義家の弟が義満なんだよ。別名新羅三郎って言われていたぜ
義満は、幼少から窮場をよく行い、章っていう笛のような楽器の名手だったんだ
この兄弟半端ないね
1087年漢字元年、兄義家が平定した後三年の役では、兄を助けて武名を挙げているんだ。義満は後に父や兄たちと同じように日立之助、貝野神など国師の役職に就いて、子孫がこれらの国々に根を下ろすきっかけとなったんだぜ
やっぱり貝ってことは、山梨県にいたのね?
一般に竹田氏の苗字の地は、貝野国駒群竹田とされているのだ。それで、初めて竹田氏を名乗るのは、義満の子である義貴代の時からなんだぜ
その義貴代は、初め日立国中軍竹田号にいて竹田氏を名乗ったという。だけど義貴代はその後貝に移住して、一族が国内各地に土着することになるんだ
竹田氏の初めは日立国だったとは意外ね
確かにあまり知られてないな
それで経図を見てもらうと、義貴代の孫になる竹田信吉は源の頼朝に応じて巨兵して先行を挙げたんだ
頼朝の仲間なのね
その後、信吉の後男信光が竹田の家族を継ぐことになるよ
信吉も頼朝の味方をしたの?
そうだよ。1189年分時5年の頼朝の欧州合戦に秋の国の武士を率いて参戦してるぜ
おお、やっと秋の国が出てきたね
うん、当時信吉は秋国守護の地位にあったと思われる
こうして鎌倉時代から竹田氏が秋の国の守護になったり、違う種族が守護になったりしながら、時代が下ることになるんだよ
秋の国は竹田氏が治めていたっていうのは意外だったけど、ルーツをたどるとよくわかったわ
それはよかったぜ。本当ならこの続きである鎌倉時代からの秋竹田氏について、解説したいところなんだが、今回のメインは竹田見つかずだから、南北朝時代の竹田氏について話をするぜ
残念だけど仕方ないわ
南北朝時代の1335年建武2年に足利孝児が朝廷に範囲を明らかにしたよな
竹田信竹という人なんだが、彼は1359年延分4年に生涯を終えるまで、ずっと秋国の守護の地位にあったと言われている
だけど信竹自身はずっと京都周辺にいて、実質秋国を現地で取り仕切っていたのは、地難の竹田氏信だったんだよ
この時代の守護って、現地にいたんじゃないの?
いい疑問だぜ。ところで霊夢、鎌倉時代の守護の仕事は何か言えるかな?
えーっと、なんか習った気がするけど
忘れたわー
3つの大事な役割があっただろう?大凡参加状って聞いたことがないか?
あー、なんか聞いたことあるわ
横斑採捕、つまり皇居の警備役、無本人の捜査、逮捕、殺害人の捜査、逮捕だ
なんか今の警察みたいだね
まさに警察だよ。室町時代の守護はこの3つの仕事に加えて、施設巡業権、権処置処分権、犯罪権などの権限が加わったんだ
なになに?
全然わからん。施設巡業権っていうのは、地元の黒人などが省円を応用した場合、幕府が採決した内容を、守護が強制的に実行する権利だ
やっぱり警察ね
あー。だから、この権利を与えられた守護はだんだん強大になっていくわけだ
権処置は文字通り持ち主の欠けた土地で、室町幕府では権処置に新たな領主をあてがう権利を守護に与えたぜ
犯罪令っていうのは、守護に対して、省円や工業の年貢の半分を取ってもいいと認める権限だな
えー、これじゃあ、守護は独り勝ちじゃん。だから守護大名が生まれたのか
まあ、それだけ室町将軍というのは権限が強くなかったとも言えるよな
それで室町時代は秋の国はずっと武田氏が守護だったの?
いや、それが1367年常治6年頃までは武田氏の部が守護のようだったんだが、それ以降は違う種族の名前が出てきているんだ
例えば巣王の国の財長官人がルーツの大内氏がいるんだけど、大内博世の頃、南朝方に味方して、1357年円分2年までに巣王長戸の2か国を制圧したぞ
あー大内氏はこの頃から出てくるんだね
そうなんだ。1363年常治2年、北朝方に転じて、翌年に岩見の守護職も併せて任じられたからな
3か国ってすごいんじゃない?
大内氏絶頂期に入る頃だからな
岩見平定後に、秋の国山形郡太田にも侵入したようだ
武田氏は大丈夫だった?
なんとかな。だけど南朝勢力の打倒が武田氏の下で思うように進まず、大内氏の秋進行もあって、武田氏の守護としての権威も急速に低下したんだぜ
そうして、1368年常治6年に武田氏は守護職を解任されてしまうぜ
あらら、じゃあ代わりは誰になったの?
1371年王安4年に、前年九州短大に任じられていた北朝方の今川陽春が、秋と備後の2つの国の守護職を兼任するんだ
九州短大ってなんだっけ?
京都から九州は遠いから、九州を統括するための幕府の機関なんだ
九州は南朝勢力が強かったから、秋の国と備後の国を陽春に与えて、九州の南朝勢力討伐のために両国の武士を動員させる目的もあったんだな
あら?もう武田氏は滅亡したの?
今回のメイン武田見つかずはどうなっちゃうの?
まあまあ、霊夢、早まらないでくれよな
資料があまり残っていないので、武田氏の部がどんな行動をしたのかはわからないんだけど
武田氏が秋一国守護職を失った後も、この地域の守護権は依然として認められていたようだな
そうなんだ
今川陽春の後の秋の国守護は、1392年明徳三年頃から細川よりもと、1394年欧英元年から渋川光より、1404年から山名光二と続いて、以後は代々山名氏が認じられたんだぜ
じゃあ、武田氏はやっぱり滅亡したんじゃない?
いや、鎌倉時代以来、特に太田川下流に強固な支配基盤を築いてきた武田氏の伝統的な地位を
無視することはできず、幕府は武田氏の地位を文軍守護として公認したんだ
文軍守護って、初めて聞くんだけど、何のこと?
守護っていうのは、普通国ごとに置くんだ
だけど、その守護とは別に、軍単位で置いた守護のことを言うんだよ
当時の秋国はこの地図のような軍になっていたからな
この地図で言うと、武田氏の軍はどこなの?
阿南、佐藤、山形の3つだな
幕府が武田信繁にこの3軍の薬服米を徴収するように命じた資料が残っている
薬服米っていうのは、本来朝廷が各国の国がを通じて徴収する臨時課税なんだけど
伊勢神宮の造営費用として使われるものなんだ
伊勢神宮かー
それで1431年英京3年に、九州で大内氏と省二、大友氏との交渉があったんだが
室町幕府は翌年、秋、岩見、伊予三河国の軍勢を大内氏支援のために派遣することにしたんだぜ
九州は南朝側の味方が多かったんだったね
それで文軍支配の武田氏も参戦したの?
それが参戦はしたんだが、どうやら将軍の許可を得ずに帰国したようで
それが将軍吉典にも知れてしまい、激怒したようだ
まあ寒霊細川持幸の仲介で許されたんだがな
ああ、あのくじ引き将軍吉典か
ああ、番人から恐れられた先世将軍吉典は、1440年英京12年5月に
大和に出陣中の一式よしつら、時持よりを、大した理由もなく殺してしまった
怖すぎる
この時一式氏の殺害を命令されたのが、武田信秀なんだ
そうなのかー
この一式よしつらの領地のうち、信秀は若狭の守護職を配慮することになって
武田氏は待望の一刻一守護職を得たんだぜ
このまま滅亡すると思ったけど、やるわね、秋武だし
若狭って、大きい国なの?
この地図のように、当時は3つの軍があったんだ
若狭は重要な港の小浜があったし、京都にも近くて
政治的にも経済的にも秋よりも魅力的だったぜ
だから武田氏やその家臣も含めると、以後の武田氏はむしろ若狭を本拠とするようになってたんだ
確かに、若狭全域に武田氏の一族がいるわね
ちょっとマリサ、今回の主人公武田見つかず派、まだ出てこないの?
あー、ごめん、ついつい前提を話さないと気が済まないもんで
ここから少しはしょって武田見つかずまで行くぞ
霊夢、室町時代の戦争で思いつくのはなんだ?
えーと、やっぱり応仁の乱かな?
そうだよな、武田氏がいる秋の隣にいたのが大岸だったよな?
えー、そうね、その大岸の動向に敏感だったのが、あの細川氏なんだ
だから、細川氏は御方で大岸と対立していた武田氏を支援するようになったんだぜ
ってことは、大岸の仲間には山名氏がいたってことね?
そういうことだ。応仁の乱については、過去動画応仁の乱の謎をご覧ください
細川、山名両氏の対立は、将軍家や柴、畠山良寛礼家の家徳をめぐる対立も絡んで深刻化し
1467年応仁元年5月、ついに両陣営は全面衝突した
秋の武田氏は東軍ね?
ああ、細川方の東軍営は、武田、毛利、福原、菊川、獅子戸、沼田小林河原で
山名方の西軍は、大岸の廃下にあった五福島官主家、阿蘇沼、沼、平賀、武原小林河原の書士が三次多ぜ
1471年文明二年になると、両軍に寝返る者が相次いだ
え?そうなんだ。意外ね。この時代は寝返りは当たり前だからな
秋では、武田元綱は兄の信方、国の部に背き、西軍に走ったんだ
この元綱が武田見つかずのおじいさんにあたるぜ
おおおやっと出てきましたね
元綱は大内氏の誘いに応じて寝返ったと考えられるが、秋の武田勢は元綱の寝返り後も
東軍として動いており、元綱はこれらを掌握していないことが伺える
武田勢がみんな大内氏についたわけじゃないんだ
ああ。元綱は兄たちと一旦和睦したこともあったんだけど、長くは続かなかったんだ
大内氏と武田氏の関係は1493年明王二年に起こった明王の製編で決裂したと考えられている
明王の製編?
ああ。詳しく解説したいところだが、話がそれちゃうので、今回は割愛するぜ
要するにこれによって、細川氏側についた武田氏と、これに従わなかった大内氏で再び対立が起こったんだ
なんだか複雑ねえ
そうなんだ。この辺は将軍家も対立していて、複雑決まりなんだぜ
だから簡単にしちゃうと、この時期に武田元信という若さ武田氏から、武田元綱の子である元重、いわば秋武だけは自立したんだ
秋武田氏は大内側についたってことね
ああ。この時期は大内氏の勢力は兄弟だからな
だからつかざるを得なかったんだ。この武田元重が、見つかずのお父さんだぞ
おお、やっと父ちゃんまで来たか
元重は出雲の国の天骨根久と手を結び、大内氏と戦うことになるぜ
それで大内氏を破った?
元重はまず大野川内城を攻略して、小井城も包囲したんだ
だけど小井城は強固でなかなか落ちない
そのうち大内氏は、毛利氏や菊川氏に救援を命じて、毛利・菊川軍は山形軍の有田城を攻略しようとしたんだ
大内や、毛利、菊川と戦うなんて、武田元重もやるわね
それでどうなったの?
この戦いには、武田見つかずも参加しているんだ
おお、魔王と呼ばれたんだったら、めちゃくちゃ活躍した?
じゃあ、お待たせ。一旦有田合戦の話を中断して、ここからは武田見つかずについて詳しく話すことにしよう
見つかずについての資料はほぼ、陰徳太平気によるものが多いんだぜ
陰徳太平気って有名なの?
いや、どうだろうな。室町時代12代将軍足利義種の時代、つまり永昌8年1507年頃から、京長の役つまり京長3年1598年頃までの約90年間を記述した軍旗物語なんだ
軍旗物語ってことは、結構面白おかしく作ってるってことね
まあそうだな。この軍旗物語には、武田見つかずの数々の伝説が出てくるんだぜ
ためとも伝説を聞いているから驚かないよ
どうかな?まず、生まれたところかすでに伝説だ。見つかず刃分1502年分岐2年3月3日に生まれたが、生まれた時すでに、33枚の刃が生えていたと言われ、また3日目まで産声を上げなかったんだ
33枚って、怖い、しかも泣かなかったの?
ああ、心配して宮島の官主を招き、お祓いをしていたら、初めて大声を上げて泣いたそうだぞ
それから、広島市浅南区義温のホタテにイボジゾウというのがあるんだけど、別名トウセキジゾウといい、その石は見つかずが武田山から投げた石であると伝えられているぜ
豪快だわ
見つかずの怪力はこんなエピソードもあるぞ
武田山に登る途中に50-60人が狩りでやっと動かせるほどの大岩があって人々が困っていたのを、力試しにと一人で軽々と谷底に落としてしまったというからな
さらにこんな伝説もある
当時佐藤郡に古い門珠堂があり、そこに化け物がいて、人を化かすとの噂があった
見つかずはこれを聞き、きっと古田抜きどもに違いない
俺が生け取ってやる、とただ一人その堂に行ったところ
年の頃670ばかりの盲人が一人、杖をついて、袋を覆ってやってきた
人の音がしますが誰かいますかと盲人が言うと、見つかずは盲の坊さんはどこの人かと尋ねた
五福島のもので、この頃の暑さに、貧しい粗末な我が家は暑苦しいので、夜々はこの堂に来て寮を求め
昼はこの里の人に歌を聞かせて生活を立てているものですが、まだ武田のお侍の中には、一人の知り合いもない
しかしあなたのものの言い方や態度は、ただの人とは思われない
と言った
見つかずは盲人の持っている袋の中にある琵琶を見て、平家物語を一つ頼むと言うと
やがて盲人は琵琶を断じて朗々と平家物語を栄じ始めた
そのうまさに、見つかずはすっかり驚き、化け物などとは考えられないと一時は思った
しかし、人を騙すほどのもの、油断はできぬとも思い
また一方では、もし斬り殺した木、真の盲人であったら、見つかずの何か変わるも考え
これは一つ筆捕らえてやろうと詰め寄って組みつくと、盲人は悲しい声を上げ
自分は盲人であるから命が惜しいとは思わぬが、立派なお侍がこの不愚者を捕らえて何するかと言ったので
見つかずもさては真の盲人なのか?
もし本当だったら世の人に笑われてしまう
いっそのこと締め殺そうと思うと、盲人は情けないことをお考えになると言った
自分の考えていることを早くも見抜くとは
さては間違いなく化け物だと、力任せに首を締めると、七点抜刀し、血を吐いて死んでしまった
夜が明けてみると、やはり古田抜きで、背中には一本の毛もなく、2歳の孔子ぐらいの大きさであった
という伝説だ
なんも恐れるものがない感じだね
そうだよな
だけど見つかずは病気には勝てず、1540年天文9年に37歳の若さで亡くなってしまうんだ
33歳?
若いなあ
見つかずが死んだ時には黒雲が空にたなびき、雲の中に鎧の擦れ合う音、刀の勝ち合う音などがして
その背後の銀杏は機械なことばかり起こる大魔女となったと伝えられている
こりゃあ、確かに魔王だわ
いやもっと魔王のエピソードがあるぜ
見つかずは、成長した時の身長は7尺余り、つまり2.1メートルもあり
目は逆さに裂け、顔にはたくさんの毛が生えており、極めて大力で鉄の弓を用いていたという
とにかく強かったんだろうねえ
ああ、敵方をバッタバッタとその鉄の弓で倒す様子は
音に聞く方言の乱の陳勢八郎源のためともや、八島の戦いののとの神平の律根でもよもやこれほどではあるまい
と恐れおののき、大内方はそう崩れになったと言われているぜ
事実はどうだったのかなあ
じゃあ、見つかずが参加した有田合戦の様子について解説するぜ
お願いします
有田城は毛利おきもとが奪ったんだが、協力した結果は元常に譲ることになった
毛利氏ってあの有名な毛利だよね
ああそうだ、この時期は大内方の有力な黒人領主となっていたんだ
1516年永生13年に、おきもとが2歳の着死公松丸を残して死んでしまったのをチャンスとみて
武田本重は翌年から攻撃に出て、有田城落城の寸前まで行ったんだんぜ
だけど着死公松丸の叔父である毛利本成が出陣して、武田軍の背後を襲ったんだ
毛利本成は流石に私も知ってるわ、ここで登場するのか
21歳の老人なんだぜ
陰徳太平紀は両軍の戦いを次のように書いているから紹介するぞ
本重は毛利軍の来襲を聞くと、神河東岸の中いでに柵や奴隷で防御船を作って
熊貝大人尾に守らせたんだけど援軍派遣が遅れてしまい、大人尾は菊川市の武将に撃たれたんだ
これはやばい
このため本重は軍勢を御手に分け、直ちに反撃に転じた
毛利軍の軍勢は武田軍の半分にも満たなかったから、たまらず押し戻されたんだけど
本成は兵に向かって、もはや本成が討ち死にすべつ時に至った
本重と差し違えるぞ、と覚悟を決めて自ら敵陣に突進したんだ
これを見た本重も、本成めがけて駆け出したぜ
対象同士の一騎打ちだね、どうなちゃうの?
数で劣る毛利軍は劣勢になって、たちまちまた内川の東へ追いやれてしまうんだが
勢いに乗った本重が馬で川を飛び越えようとしたその時
本成があれ追い落とせと号令すると、七、八騎が一斉に矢を放ち
矢は本重の胸から背中に貫通し、本重が馬から落ちたところへ首を取られたんだ
ああ、本重る油断しちゃったのか
対象を失った武田勢はそう崩れになり、残った武田の武将たちは
今後の対策を協議して、本重の意思見つかずを奉じて将来を競うとする派と
今直ちに反撃すべき派とに分かれてしまった
それで反撃派が押し切って敵陣に突入して、結局討ち死にしてしまった
元成は本重やその他の武将の以外も探させて
全て埋葬したと、陰徳太平記では書かれている
この物語は誰が作ったの?
誰が作ったのかは大事だな
これは1700年代になって岩国藩という毛利家一門の人が作ったから
当然元成の都合のいいように書いてあるぞ
鵜呑みにしちゃいけないわね
日本初期の蘇我氏の記述と一緒だわ
そうだ、歴史を語るのは勝者だからな
そうなると、元重が撃たれた後の見つかずの存在は重要になるね
秋の国佐西郡を事実上直下地扱いしてた大内義之は
ここを足場として、武田氏に対して本格的に攻勢を展開してくるぜ
1524年代A4年だな
大内義之、義高富氏は、見つかずの居場である佐藤金山城を包囲した
見つかずピンチね
それが、見つかずの勇猛な戦いと、手を結んでいた天越の救援もあって金山城はなかなか落ちなかったぜ
ちなみに大内義高はこの戦いが偉人なんだよ
どうする?
見つかず、15000の敵に対して見つかずは城兵3000と共に牢城していたんだが
城外に出て大内の大軍と戦った
武田軍は少数だったけど奮戦したよ
この戦いでは、見つかず自身が
兵士たちと共に最前線で戦って武勇を誇ったとの伝説が残っているぞ
またまた伝説か
大内義高が金山城を攻めたとき
見つかずは自分の勇を誇りたいので常に足軽の中に混じり
敵を数多く打ち取ってたんだが
それが大内方にしれ、何とかして彼を取り押さえようということになった
あらら、やばいわね
それで若杉四郎三郎という
その頃敵う相手がないと言われた大力の者に
その弟で、これまた兄に劣らぬ強力であった者を付け
さらに大黒兄政といって大力ある男と
吉高の金獣中の妥物達者と言われていた者をも加え
見つかずと組み合うところを手早く突き殺そうと計画したんだ
これじゃあ、流石に見つかずも買わないんじゃない?
見つかずはその日も足軽に混じって盛んに敵を打ち取っているとき
大内勢は偽って退却し、しばらくして急に大勢で撃って出たので
武田方は退却を始めたんだ
その時見つかずはただ一人味方に遅れて退却していたが
若杉らが、ただいま退却しているのは見つかずこうであろうと
罵ったので、見つかずが怒って引っ返すと
若杉の弟が一番に撃ってかかった
これは危ない
いや、だけど見つかずが大立ちをもって彼の意を強く撃つと
ひとたまりもなく死んでしまった
見つかずは、続いて寄ってきた兄の若杉をつまんで宙に差し上げ
後ろに続く大黒に投げつけると、二人とも死んでしまい
残る一人も怯むところをひとたちで切り落とした
やっぱり無敵だね
見つかずの持っていた太刀は
微善一文字で三尺四余りもあったらしいぜ
それで見つかずは秋金山城を守りきったの?
守りきったんだ
だけど翌1525年大英語年3月には
毛利氏が天子氏を離反して大内方についたため
秋をめぐる情勢は一気に大内氏が優勢になった
さらに秋竹田氏の家臣だった熊貝信直も
大内側についてしまったんだぜ
えー見つかずかわいそう
まあこれは、毛利も隣の契約によるところもあるんだがな
どうな契約よ?
壁の地を譲るから、竹田氏からの離反を進めたんだ
見つかずは怒った?
そりゃあ、怒ったさ
1533年天文2年8月
高松城に信直を攻め
横川という地で激戦のあったことを資料は伝えているので
熊貝氏の離反もこの頃だな
熊貝氏は元直が戦死してまだ竹田氏に忠説を尽くしたんでしょ?
見つかずにとってもショックよね
大ショックだったろうな
もう秋竹田氏の滅亡は決定的になっていたぜ
いくら武勇があっても運命にはかなわないんだね
そうだな
もう秋竹田氏の衰退は深刻化しており
そんな中で、見つかずの死を迎えることになる
信直の討伐を再度進めていた1540年天文9年6月9日
子供はいたの?
それがいなかったんだよ
だから若狭国の守護だった竹田元光の子である信長を養子にしたんだ
若狭国から連れてきたのか
うん
だけど見つかずの家臣たちも竹田氏を見限って毛利氏に基準したり
竹田家を去っていったりしたんだ
まあそうなっちゃうよな
信長はどうしたの?
信長ももはや命運が尽きたことを悟り
若狭に帰り漂白を重ねた末に
天越の元に身を寄せて
その支援により再び金山城に入ったというぜ
ってことはもう天越の支配に入ったってことね
その後金山城は1541年天文10年正月に
天越軍の配送を聞いた信長は
その日の夜に大雪に紛れて金山城を忍び出て
出雲に逃れたんだ
こうして竹田信三の秋守護在職が伺える1185年分時5年から数えて354年
さまざまな曲折を経ながらも
守護家として秋の政治史に大きな役割を果たしてきた竹田氏は
滅び去ったんだ
滅亡か
寂しいなあ
ちなみに金山落城にあたって竹田家に代々伝えられていた家宝のうち
司祖の神羅三郎義光の鎧が
大内家臣の末鷹夫妻から大内義鷹に差し戻され
義鷹はこれを五苦島神社に寄信したんだ
的ながらあっぱれね
じゃあ今でも残っているの?
ああ五苦島神社に行けば見られるよ
と言いたいところだが見ることはできないぞ
残念
だけど山梨の姿天神社の収蔵庫に保管されていて
ごくたまに公開されることがあるからお見逃しなく
そうなのかあ
忘れそうだ
ということで今回の解説はここまでだぜ
次回もぜひ見てくれよな
チャンネル登録高評価もよろしくね
ご視聴ありがとうございました
