(1)【東海道五十三次の旅】自転車で行く 東京→大阪の旅《江戸・日本橋→川崎宿》東海道の旅第1日目
2024/10/30
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2020年10月1日
東海道の旅 第1日目
東京から大阪まで、新型コロナウイルス感染対策を徹底しながら、自転車での旅を決行しました。
ルートには国道1号ではなく、江戸時代の東海道を採用しています。江戸時代の旅を感じること、明治時代の鉄道とそれ以前の交通を比べることもテーマのひとつとしました。なお、分かりやすいように「東海道五十三次」のタイトルを設定していますが、京都到着後、残り4つの宿場を通過した、大坂を最終目的地としていますので、実際には57の宿場を通過します。
主な用語
宿場…幕府が公認した街道の中継地点のこと。問屋場、本陣、脇本陣と、旅籠などがある。
間の宿…宿場と宿場の間が離れているとき、間にできる非公式の街。大森など
問屋場…各宿場にある貨物輸送の拠点。今回の旅ではあまり関係ありません。
本陣…大名、勅使専用の大旅館。今回は各宿場町で一番良いホテルに泊まり「本陣」と称することにします。
旅籠…2食付きの上等な旅館。一般の武士や町人が泊まる。
脇本陣…本陣が使えないときに予備となる宿。旅籠などを兼ねることが多い。今回は「本陣」となるホテルが満室のとき「脇本陣」に相応しいホテルを利用します。
立場…休憩所などがある小規模な街。
00:00オープニング
04:54日本橋
07:41日本橋~品川宿
19:52品川宿内
25:00品川宿~川崎宿
32:21川崎宿内
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多くの動画に複数の誤った情報が盛り込まれています。そして大抵、視聴者から訂正いただいています。こちらではそのような有益な情報が判別しやすいようハートマークをつけています。
2020年3月27日、東京都知事をリトミンに対し、不要不急の外出自粛が呼びかけられました。
当日以降、スーツ交通チャンネル及びスーツ旅行チャンネルでは、外出を伴うすべての活動を取りやめました。
2020年の夏に実施することを予定していた、2度目の日本一周旅行も収集を決めざるを得ませんでした。
続く7月7日には緊急事態宣言が発令されましたが、それによると適正な感染対策を実施した上での運動はむしろ奨励されるとのことだったので、無人土など深夜帯を中心に自転車を活用した撮影を再開することにしました。
やってみると、山手線一周などの長距離運転でも電動アシスト自転車なら難なくこなせるということが分かって、これ一台と十分な充電さえあればどこまででも行けてしまうような気がしてきましたし、
実際どこまで行っても人と接触する機会は大してなさそうに思われました。
そこで急遽、今回の目玉シリーズを、自転車一台のみを使った長距離旅行とすることに決め、そしてその区間は古くから国内トップレベルに旅行者が多いと思われる東京大阪間と定めました。
現在この区間では、東海道新幹線が輸送の派遣を掌握していて、遡れば明治時代から現代までずっと、東京大阪間の旅行には鉄道を使うことが当たり前という状態を続いています。
それではその前は一体どうなっていたのかということが気になるわけですが、もちろん江戸時代までは徒歩で東海道を進んでいったのでした。
特に1601年から徳川家康が整備させた五海道の一つとしてのものが有名で、東海道五十三次の名前で知られる道はこれに当たるわけであります。
江戸幕府は、東海道の起点、江戸の日本橋から終点の京都三条大橋までのおよそ500キロの道中に、53カ所の宿場を設置しました。
東海道のルートを今の東海道本線、鉄道と比較しながらお伝えします。
東京を出てしばらくの間は東海道本線と大体同じようにして走ります。
小田原からは箱根登山電車と同じように走った後、鉄道が全く通ることができなかった険しい箱根の山並みを越えて、その32キロの道のりを過ぎた後はまた引き続き東海道本線と同じように進んでいきます。
ただし途中やはり東海道本線が越えることのできなかった険しい峠道を何度か越えることになっていて、これが旧東海道を自転車もしくは徒歩で進むときの大きな楽しみかと思います。
豊橋の辺りまで東海道本線、鉄道と並行した後は、名鉄線と並行するような形で名古屋の方面に向かいます。
これから先は今の東海道線とは全く違うルートです。
まず南下をして三重県伊勢の国に入り、険しい鈴鹿峠を越えて南側から滋賀県に入ります。
最後は大阪山を越えて都に入ることになっています。
各宿場には本陣と呼ばれる庶民お断りの高級旅館や、本陣が使えないときに予備として活躍する格式高い旅館、脇本陣が置かれました。
その他に一般の旅人が泊まるための二色付き旅館、旗子や、現代の簡易宿泊施設に相当する基地に宿なども設置されていたそうです。
各宿場に重要な施設として問屋場というのがあって、これは隣の宿場まで幕府の貨物を運送し、馬や人員を交換するための拠点でした。
今で言えば貨物列車の機関車を交換するようなものです。
そもそも江戸時代以前は、馬の中継をするための施設を駅と呼んでいたそうでした。
各宿場での53回の中継、すなわち53継を経て、貨物は江戸、京都間を行き来していたというわけです。
なお、東海道53継という言葉はあまりに有名ですが、実は大阪の陣で豊臣家が滅亡してからは東海道の終点近くで分岐して、
大阪、舗雷橋へ向かう京海道という別の道も整備がなされていて、また実際にはこれは江戸時代の終わりまでずっと東海道と一体的に、そして圧倒的な需要の下で運用されていたのだそうです。
大阪へ向かう京海道には、伏見、与都、平方、森口の宿場が設置されており、東海道は事実上、江戸・大阪間の57継であったとも聞きます。
今回は近代的な旅のスタイルが確立される前に立ち帰り、主に旧東海道及び旧京海道を辿りながら、東京日本橋と京都三条大橋、そして大阪舗雷橋までの自転車の旅を楽しみます。
2日目以降は急な峠道を何度も越えながらの難所続きの過酷な旅になりました。
古き江戸時代を見つめ、今の優れた技術による快適な旅の素晴らしさを感じるきっかけを、皆さんに提供できれば幸いです。
宿場町の基本的な知識もこの動画冒頭部分であらかた含めることができたかと思います。
ぜひ楽しんでください。よろしくお願いいたします。
このまま吉信さんのお書きになった日本橋のプレートをご覧ください。
明治20年代に作られて、戦災も震災も何度も乗り越えてきましたこの日本橋。東京で一番立派でまた大変歴史のある橋です。
本日は2020年の10月の1日、ここは東京中央区、今、日本橋です。
ここから大阪までおよそ500キロ、大変な長旅の始まりです。どうぞよろしくお願いいたします。
今言うのは簡単なんですけど、そこなんで行けるのかっていうのはね、本当に気になるところですが、行けるんじゃないですか。
道は繋がってますから、箱根のところの坂道が越えられるかとかいうのは大きな懸念点でしたが、
多分ね、なんとかなると思います。だから頑張りますよ。
まず最初の目的地は京都、京都までおよそ480キロです。
本日の工程を皆さんにご覧に入れます。
今日はですね、この日本橋から立って目的地は内沢市区までです。
途中いくつか東海道の宿場を通るということになります。
最初は東京都内、品川、続いて現在では政令指定都市の川崎、続いて現在は横浜と呼ばれております神奈川、その先同じ神奈川県横浜市に現在では区分されております。
私の大学もあります、小戸部屋、続いて戸塚、戸塚までは横浜市ということになりますが、次は内沢市です。
本日の目的地は内沢市、内沢市区でございます。よろしくお願いいたします。
色々とお話しするべきことがこの日本橋にもありますが、しかし早く出発したいとも思うものです。
ここにね、解説書がありますんで、これ一つだけ皆さんにご覧に入れておこうと思います。
これですね、ここが日本の道路の中心ということになっています。
江戸時代からずっとその歴史が受け付かれているのです。
横浜まで29km、名古屋まで370km、京都までは503kmということで書いてあります。
これは多分ね、国道1号線で行った場合のルートとかなんじゃないかな。
自転車で行くともう少し短くなります。箱根の山などはもう少し急な道を進むということにその代わりになるわけです。
上に架かっている首都高もこれから日本橋の魅力を取り戻すためにまた地下へ埋設される予定だということで、今後も日本の大切な文化財として将来にわたって保存され続けていくはずです。
さて、それではいい加減出発しようと思います。上川東海道はこちらです。
あちら見てください。交差点のところ、日本橋交差点にですね、国道1号線は右折とあります。
ちょうどこの日本橋を起点に国道1号線が大阪まで出発しています。
こちら方面が東海道、そしてあちら方面日本橋を逆向きに進むと中川道ということになります。
東京から大阪、京都方面までには2つの行き方がありまして、1つがこちら東海道で向こうが中川道でした。
さまざまな事情によって東海道および中川道を選ぶということになっていましたが、基本的にメインルートは東海道です。
この東海道と先ほど分かれた中川道はこれから450キロほど離れた滋賀県の草津で再び合流するということになります。
ですからこの東海道と中川道の関係についてもこれからだいぶ先になって改めて皆さんにお話しすることにします。
見ていただいて分かると思いますが今日はあまり天気が良くありませんのでね、出発は4時間ほど遅らせました予定より。
日本橋から自転車で5分ほど走りますとすぐにまた橋と名のつくところに出ます。ここは京橋です。
もともとはここ右から左へ川が流れていましたが、現在は埋め立てられてしまっています。
昭和の時代まではここに確かに橋がありました。それが京橋でした。
江戸には3つの有名な橋がありました。幕府が自分で作る、大変格の高い橋。
1つが日本橋、そして1つが京橋、残りの1つは新橋です。
この京橋から銀座通りとなります。この銀座通りをずっとまっすぐ行きますと向こうにもう1つ橋がかかっていてそこがかつて新橋と呼ばれていたのでした。
東京の街の開発が著しく、特に戦争が終わってからもう江戸時代の時に使っていた水源というのがほぼなくなってしまったので
そんなものはいらないじゃないか、欄管だけを残して新橋と京橋は姿を消しました。
さてそれでは、昔ここに存在していたらしいその京橋の跡を渡って、ここから先が銀座です。
銀座は確か1丁目から8丁目まであったと思いますが、戦前の日本でもやはり世界に誇ることができる、おそらく当時の日本では唯一の繁華街だったかと思います。
江戸時代から繁華街だったのかというと決してそうではなくて、もともと銀座とこれよく聞く話だと思いますが
ここでですね、貨幣の注文を行っていたと。
江戸時代というのは金貨よりも銀貨の方が主流であったので、ここで銀をいっぱい作っていたから銀座。
確かどっか別の地方には金座もあったとかね、そういう言い方をよく聞きます。
特に有名なのが銀座4丁目の交差点です。
松屋銀座、それに続く三越本店、間違えました三越の銀座。
それからですね、右手には和粉、飽食品のお店などザラッと並ぶこのエリアが、
ハイヒールの先っぽだけでも100万円、そういう風に言われるところです。
徳川家が江戸へやってくるまでの間、この銀座のあたりで江戸も陸地が終わっていたようでして、ここから先は海でした。
それを埋め立てて人々が使えるようになったわけですが、
だいたいですね、江戸の中心もこの銀座あたりまでなのかなと。
実際自転車に乗っていても、この銀座を過ぎるとなんとなく街がだんだんとですね、少しずつその規模を少しずつですが小さくしていく、そういうところに出ます。
といってもまだ新橋ですから、それが本当に少しずつ少しずつで、気づかない間にあら郊外に入ってきたのかなと、だんだんそんな感想を持つようになるかもしれません。
さて続いて着きました新橋です。
すぐに通過しますが、東京の有名な地名新橋も元々はここに大きな橋が架かっていたから、だから新橋だったわけです。
今でもその欄間だけは残されています。
さて東海道新幹線や東海道本線などの線路も見えてきました。
ここが新橋です。
昔東京から大阪へ向かう東海道本線が最初に出発していたのがこの新橋でした。
東京駅というのは割と歴史が新しいのですが、昔の新橋駅というのはちょうど向こうに高層ビル、大きなガラスがいろいろ立ち並んでいますけれど、
あのあたりに日本で最初の鉄道東海道線の始発駅があったのです。
まあなぜあそこにあったのかというと、まあ簡単ですが、今まで通ってきた後ろ銀座方面はですね、もう物が多すぎて、いろんな建物が建っていたのでそこに鉄道を引くなんていうことができなかったからです。
だからまあ逆に言うとここから先は東京のちょっと情末っつったらあれですけどね。
はいすいません。
新幹線、あれに乗ればあと2時間半後、昼飯食べるときには大阪に着きますからね。
信じられんことですよ、この自転車で大阪を目指している身分としては。
まあ自転車だってね、こんな漕いでるだけで1日で富士山まで行けちゃうのか江戸の人からしたらびっくりでしょうけど。
さあここから先、ここまではですね、中央通りという道でしたがここから先名前が変わります。
第一京浜です。東京と横浜の間を結ぶ道です。いくつもなんたら京浜というシリーズがあります。
少し進みましてここは港区大門の交差点です。私のすぐ後ろが浜松町の駅です。向こうに東京タワーがあります。
大門は大きな門と書きますがちょうど今、あいつが邪魔か、しょうがないですね仕事なんだからね。
あそこに大きな門がありますけれど、あそこに徳川家の古代寺の象城寺がありました。
ここが上野の官営寺、どちらかに交代で訪問られました。
空いている土地が結構たくさんあったんで、おそらくその跡地でしょうね、東京タワーをここに建っています。
今自転車で過ぎ去っていったお巡りさんもね、視聴者の方で応援してくれましたよ、お気を付けてって。
今私が登っていったJRの湖泉橋、あれが福田の辻橋で、この交差点を福田の辻と呼びます。
なんでここを福田の辻と呼んだか、それはここに札があったからですが、札とは何か。
その札というのはね、考察のことです。
高い札と書きますが、要するにおふれ書きでして、ここから江戸市中に入る者はいかのことを守りなさいと、そういうですね、注意書きが書いてあるわけです。
違反すると罰せられます。
要するにこの辺りが江戸の西の入り口ということですが、ちょうどここがですね、まさに江戸時代のこれですね、江戸の西の入り口、ゲートの後です。
ここをですね、高輪大木戸と呼びます。
要するに今のところまでで江戸時代に江戸とされていたその市中は完全に終わり、ここから先またどんどん郊外へ進んでいくというわけです。
現在はこの先の玉川のところまで東京都なんですけども。
その江戸市中、江戸市内とのちょうど境目のところには、最近話題の施設ができましたのでちょっと寄り道してみようと思います。
まさに工事が盛んでですね、東京で一番広い空を拝めるところじゃないかと思いますが。
左側はですね、高輪ゲートウェイ。JR東日本のこの3月にできた新しい駅ですが、駅の名前が決まったときは叩かれましたよね。
私もね、この駅名のおかげでこの高輪大木戸の歴史を知ったんですけども、歴史を知ればね、そんな別に変な名前じゃないんじゃないか。
むしろ、昔の江戸時代のね、町の特性と、今の町の再開発のあれをうまく合わせて、まあ温庫地震的ないい駅名なんじゃないかなと私なんかは思うんですけど。
ちょうどね、ゲートウェイから少し外れたところにやっぱりありましたよ、こういうの。いやいいですね。
東海道高輪風景って書いてあるけど、これは明治天皇の時のとは違うのかな。ちょうどこのあたりの昔の景色です。
多分高輪ゲートウェイの駅はどっかこの辺とかにあるんじゃないですか。
貴重な資料ですよね、これ。宇多川弘成ですが、初代の人ですね。
えー、島と名所、高輪の遊景、こんな大きなほかけ船と、それから船にちょうど乗せて物を贈ろうとする人たちでにぎわっていますが、ザーザーとこういう波打ち際なんですね。
それからこれですね、多分ここがね、高輪大木路なんじゃないですか。あの、見るとちょうど本当にここに考察がかかっています。
こっちにはですね、こんな石垣がありまして、これ江戸時代の五眼工場をしていた時の石垣をそのままここで保存しているそうです。
まあここでっていうか、馬車もちょっと波打ち際向こうだったと思いますが。
まあしかし、寄り道もほとんどにまた再出発しなければいけません。
電動アシスト自転車はね、あまり使えないというのはいいところなんですけども、ただね、その代わりあまりスピードも出なくて、速度はまあ最高でも20キロと思っておいた方がいいですね。
だからずーっとダラダラダラダラダラとこぎ続ける。
で、坂道でも問題ないし、最高速度が出ませんので、万が一のね、例えば転倒とかの事故が最悪あったとしても、
まあ車に轢かれなければ、20キロくらいなら死ぬことはないんじゃないですか。
さて、そして来ました。右手にですね、品川プリンスホテルをご覧いただいています。
日本で一番客室の多いホテルということになっています。
そして左手がJR東日本京急JR東海の品川駅です。
ここはね、まだ品川市区というわけではないんですよ。
あ、そうなんです。どうもどうも、お世話になってます。これで大阪まで行くんですよ。
ありがとうございます。
今ね、おまわりさんに、車輪交通室も乗るんですね、とまた品川の交番の人に話しかけられたんですけども、
まあ聞こえましたよね。今ご覧いただいた通りです。
まあこれよく、本当によく言われる話なんですけど、品川駅というのはね、実は品川区にはないのです。
あそこは港区でして、地名もあそこは品川と呼ぶべきではありません。
本来であれば高輪と呼ぶべきです。
あの東横インはね、地名に忠実ですね。ちゃんと高輪口って書いてありますよ。
はい、来ました。これですね、ここがですね、八重山橋と言われておりまして、昔からの名所であり、
またJRなどの線路をまたぐところであって、私のすぐ左側に京浜急行線の大きな鉄橋があります。
これもね、大昔からあって、鉄道マンやんにとっては人気の写真撮影スポットにもなっています。
ちょっとカメラで撮ってみますか。
お、いいですね、992100。かっこいいですよ。
こんな感じでね、電車がもういろいろ行き交うし、下にも東海道線や新幹線の線路がずらりと続くようなところです。
ここを渡ってから先がいよいよ、東海道第一番目の宿場町、品川宿ということになります。
通って走る江戸時代からのルートをそのまま受け継ぐ路線と思う人も多いと思うんですが、
実はですね、東海道線は意外と東海道の近くを走っていません。
それよりも、東海道本線と並行する始鉄線の方が旧東海道のルートを忠実に辿るということがよくあります。
京急もその中の一つです。
これから先、京浜急行線沿線の旅ということになります。
列車の本数が多くて、なかなか渡れませんよね。
ちょうどここから先、江戸時代の宿場町と、そんな雰囲気の街並みにいよいよなるわけですよ。
しかも結構こういうことをやる人には優しいこんな立派なマップなどもありまして、東海道品川宿、街歩きマップ。
これより南、品川宿、市内、東海道第一番目の宿場町、品川宿に到着です。
旧東海道の宿場町、それぞれが街の雰囲気向上のために日々やっている努力、かなりのものがあるんじゃないかと思いますが、
ご覧いただいて分かると思いますけれど、まず電柱がありません。
そして、下もなんとなく石畳のような雰囲気で、街の居酒屋さんが自主的にこんな昔の、まさにこの場所の浮世絵をですね、お店の外に貼ってくれたりと、歩いているだけでも楽しいところです。
この品川宿周辺旧東海道という道になりますと、昔の道幅もそのまま残っています。
だから自動車が今後に通行するのも大変だと思いますけどね。
ここに多く人が住んでいるのも昔の宿場のにぎわいの名残です。
たまたまだと思いますが、それぞれの家の高さも、それほど高くはなくてね、まさに昔の宿場の雰囲気をよく留めてくれています。
古い建物はないんですけどね。
ここ下り坂になっていますが、ここからずっと下ってですね、海岸のお台場のところへ至るということになっています。
これは江戸時代に作られた道で、ペリーなんかが来たので、外国船に対して何とか対策しなきゃいけないという立派なですね、砲台を作って、そして東海道からその砲台へ軍隊を派遣するときはここを使う計画だったようです。
日本橋を出てすでに1時間経っています。
もう11時半くらいですので、お昼ご飯をちょっと食べるべきです。
左側、新そばって書いてあってね、江戸時代からの名物ですよ。
ちょうど江戸時代にはこんな感じのお店が出ていて、そして街で立ち食いそばを食べるというのが江戸市民にとっては当たり前でした。
右手にもね、また江戸時代からずっと食べ続けられている人気の食べ物、うなぎ屋があって、どっちもいいと思いますが、今日は品川宿そばっていうのがあるからこれにするか、ちょっと高いですけどね。
品川の名物といえば海苔です。
なんかね、私の先祖も羽田で海苔なのかな、なんか漁師やってたみたいだけど全然知らないですけどね。
おそば屋を出て一本外の道へ行きました。
昔ここは完全に海だったので、ちょうどこの辺りが海岸線だったんですが、当時を思わせる名残が何もありませんと言いたいところなんですけど、実はですね、これだけ残っております。
ここが多分ほぼ昔の海岸線で変わっていないんじゃないかなと思うんですが、このようにあの船溜りになっておりまして、船がこうやって来てですね、
向こうにあの館船とかの出発場とかがあるんですね、そういう業者の人たちが使っている船を止めるところとして、ごくわずかにこの街の中にですね、こんな小さなところですけれど、昔の海岸線が残っております。
地図で見るともうこんなんですよ、今の海岸線こんな外の方になっちゃいました。
こっからもう2キロぐらい行ったところになっちゃいましたが、味がありますよね。
この右側の道が旧東海道です。
また他にもここに海岸線を思わせるような公園があります。
これですこれ、これ鯨です。
ここにもですね、潮吹いている鯨くんのこんなのがあるわけですけれども、
これなんでここに鯨がいるのかと言いますと、これ江戸時代に起こったある事件ですが、鯨塚と書いてありまして、ちょうどここが海岸線で砂浜だったんですね。
で、鯨がですね、ここに打ち上げられてしまってザブンと、それをあの捕まえて、そして最終的にはここに埋葬したということになったわけです。
まあこんな鯨だったのかどうかはわかりませんが、ともかくこういうのがいたということで、今でもその鯨を葬っている記念碑が建っています。
見えんのかな、正面行っていいのかなこれ。
多分行っていいんだろうな。
あ、お寺があるんですね、このお寺があるから、鯨もここにってことなんだろう。
なんでも、昔の絵によるとこういうやつが来たみたいですね。
これではちょっと何種類なのかわからんな。
長さ16メーターと書いてあります。
さて、そろそろ目黒川を渡ります。
品川というのは川という字を書きますけれど、その川はね、どうもこの川が由来だそうです。
この時間帯はどうも潮が満ちてくる方向のようで、川が今向こうから逆流してくる様子が感じられます。
先ほどの目黒川を境に、北品川と南品川と変わります。
そしてもうそろそろ品川宿も過ぎ去ろうと思いますが、この画面の前方に京急青森横丁駅があり、またここに伝統のお寺、品川寺と書いて、品川寺かなと思いきや本川寺、そんなの読めるかなと思うんですが、
まあともかく本川寺というですね、大変有趣あるお寺があるわけです。
あまりのんびりもしていられません。どんどん次の町へ向かいます。
次は川崎です。
川崎までも多分東京と、日本橋と品川の間と同じくらい距離はあるんじゃないですかね。
たださっきほど信号もたくさんはないし人通りもありませんので、進み具合もさっきより随分快調です。
道幅は基本的に江戸時代の東海道と変わっていませんが、もうすでに品川宿は去っています。
この旧東海道品川界隈を走っていてすごく気づくのはね、せんべい屋さんとそれからお蕎麦屋さんが多いということです。
お蕎麦屋さんが多い理由についてはわかりませんが、まあ昔旅の道中で、あまり長く足を止めたくはないけれど、なんか食べたいという時に蕎麦が適切だったからあるんですかね。
せんべいはたぶん海苔だと思うんですよね。皆さん品川巻という食べ物はご存知ですか。
あの海苔巻おせんべいなんですけど、あの品川巻の海苔がですね、あの要はこの辺りの名物でしたので、それでおせんべいの名前品川巻、今でもねコンビニなんかでおつまみとして売っています。
昔この辺りの左手はずーっと砂浜みたいなのが並んでいて、それはそれは素晴らしい眺めだったそうです。
今はもう全く面影はありませんが、しかし品川水族館とかね、昔ここに海があったことをみんなにも知ってもらおうということで、
海に関係するようなものが多く建てられているところです。
さてここは鈴ヶ森という場所です。
ここにですね、かつて鈴ヶ森刑場というのがありました。
あーなんかいろいろ塚がずらっと並んでるな、すごいなこれ。
ここにわりと新しめですけどね、霊林山大峡寺と読むのかな、これお寺がありますけれども、
このお寺の前にですね、ずらーっとすごいですねこれ、いろんなこうお墓というか塚みたいなのがあります。
で、見てみるとこれですね、罪人がこの台の上で処刑された真ん中の穴に、
城与の拡柱が建てられ、その城部に縛り付けて死殺したのであるということで、
これ要するに処刑台の跡ですね、江戸時代の。今でも残ってるんだな。
歴史を知ってか知らずか、彼岸花がちょうどいいところに咲いています。
江戸で罪を犯した者は、市中で引き回されたりなどして、最終的にこの鈴ヶ森の刑場で処刑されるということが結構多かったようです。
かなり江戸の主要な処刑場ということでしたが、これですね、東海道のその道のすぐ左手のところに処刑場があったわけです。
そしてあそこで人がですね、張り付けにされて、張り付けの刑というのは十字架のようなやつにですね、縛り付けて、
森かなんかでぐすっと串刺しにして、いろんな人が串刺しにして殺すというのはかなりムゴい処刑の方法だと思いますが、
東海道の道中を江戸へ向けて進んでいく人たちが、そろそろお江戸、さあ最後の宿場、品川だというところで気が緩むとですね、
左手には張り付けにされて死んでいる人の姿があるわけです。
これから先いよいよ江戸だ、江戸で悪いことをするとこうなるぞという見せしめ、まさにこの鈴ヶ森の刑場はそういった治安維持の役割も負っていたと考えられます。
あ、こっちもあるんだ、これ火あぶりの刑のやつか。
えー、火あぶりの処刑者は皆この石の上で生きたまま焼き殺された。
真ん中の穴に鉄柱を立て、足元に薪を積み、縛り付けて処刑されたのである。
もう彼岸の時期ですしね、5000個くらいあげてきますか。
これはこういう、あ、ボンベ、あ、ボンベ入ってるな。
不思議なあれですね、シャッカーマンとかでいいんじゃないかと思うんですけど、ここまでやらなくてもな。
お線香の香り、いい香りなんですけどね、ここの歴史を聞くと、いい香りでは済まないよな。
ちょっと真ん中の方にあるのにすみません、火がつかなかったんですけども、あのボンベのやつやったらさっき紙に火がついて自分の手が炙られそうになったんでもっかないんでしょ、こんぐらいにしよっか。
きっと江戸時代のここを通る旅人も同じようなことをして、ここを過ぎていったんじゃないかと思います。
そしてまたしばらく進みまして、今ね、大森の街の中を走っています。
大森は元々宿場ではありませんが、昔から人はいたようです。
でね、もう本当にさっきの品川も大森もそうなんですけど、のり屋さんが多すぎるんですよね。
もう通ってくるだけでものり屋老舗っぽいの5軒くらいあって、品川にもなんか7、8軒くらいあってね。
この通り沿いさっきからちょうど走ってるだけでもう15軒くらい私の中でのり屋を見たような気がするんですけど、そんな、そんなのりって売れるのかな。
のりの話するのもいいんですけど、スピードにも、のりに乗ってどんどん進まないといけません。
今ですね、蒲田も過ぎまして、大田区の地名、今ここが六郷というところです。
目の前に六郷神社があります。もう少しだけ進んでみましょう。
日本橋からここまでで2時間半もかかってますからちょっと遅いかと思いますけど、さっきねペースを上げまして、割と今は順調です。
さて、この立派な橋、これが六郷橋ですが、反対側のあちらが神奈川県川崎市ということになります。
なるほど確かに向こうに川崎とありますね。ようやく県境を一つまたぎます。
これですけど、川がここに玉々が流れてるわけですが、全然川そのものは見えません。
これなぜかというと、玉川がしょっちゅう増水をして、昔よく氾濫していたからです。
今氾濫するということはありませんが、よくこの川の下にですね、ホームレスの方がお家なんか作ってるんですけども、やはり増水をするたびにその家が流されたりしてしまって、相当大変なのは変わらないようです。
江戸時代にはここを通る人たちも、相当玉々によって困らされたようです。
まずここに橋はなかったので、6号の渡しという渡し船で行くことになっていました。
だから船のちょうどいいタイミングを待たなければいけませんし、増水をしたときは川止めといって渡れないこともあったようです。
江戸時代最初の頃に一回橋は架けたらしいんですけども、結局流れてしまって、もうまたどうせ流れちゃうんだからもう架けなくていいだろうと、架けるのはやめてしまいました。
で明治時代になってからようやく架かったんですが、また流れてしまって、大正時代になっても渡し船でしかここを行き来できないというようなことまであったそうです。
しかしそれも今や昔、こんな立派な護岸工事とか堤防とかですね、そして立派な橋も架かりまして、現在では東京都大田区の人たちも多くこの神奈川県川崎市精霊指定都市の大きな街にあやかることになっています。
向こう羽田空港の大きな完成塔が見えます。
もうすでに去りました、東京都大田区、いやまだギリギリいますね。東京都大田区、東京の西側の玄関でありまた空の玄関も担っています。
東海道第2番目の宿場町、川崎塾に到着です。
ちょうど川を渡ると早速ですね、電車が真下を走っているのが見えます。これは京浜急行電鉄です。
日本で一番最初の電気による普通鉄道ということになっています。関東で一番最初の電車だったかな。
川崎大使という立派なお宮がこの近くにあります。自転車で行くには少し離れているかな。だから川崎の街から川崎大使まで京急が伸びたのです。
3キロくらいですね、ちょっとやめとこうかな。
ご親切なことにいろんなところに旧東海道はこちらですなんて書いてあるからね。
何も調べることなく確認することなく川崎の宿場館に入ることができました。
席に入って最初一番最初のところにですね、奈良茶飯というのを売る旅館があったそうでして、ちょうどこの右側のマンションのところがそうです。
川崎もやはり品川ほどではありませんけれど、東海道沿いからは電柱が一層されて、また街の信号機の柱とかそういうものも全部茶色く塗られ、昔ながらの雰囲気を頑張って演出しようとしてくれているのがわかります。
床もあれだな、やはり石張りになってますね。
さてそれでここですけども、名物をちょっと食べようと思います。さっきの奈良茶飯ね。
この旧海道沿いの、この店へ行けばいいんですけども。
実験者1区の東海道中ひざくりげ、それで紹介されてから一躍人気になった江戸時代の川崎の名物。
ここがこの東翔って読むんだと思うんですけど、この店に寄れば食べられるそうです。
あの名物いかにも江戸時代っていう見た目でね、なんかあんま見た目派手じゃないじゃないですか、あんま美味しくないんじゃないかなって思いながら食べ始めたんですけど、すごい苦心して現代風の味に合うようにうまくアレンジして、結構美味しかったですよ。
なんかそれをアレンジするのが大変だったみたいなのが書いてありましたもんね。
さてこうやって見てもらうと、川崎は相当大きな街であることがお分かりいただけると思います。
大きな建物がずらずら並んでいて、今私の立っているところが旧東海道。
だからまあ道幅は少し狭めですけれども、でも大昔からの幅をそのまま踏襲するということはさすがにできなかったようで、少し広げられていますね。
さて今、京急八丁縄手の駅に来ました。
ここから画面左方向が旧東海道ですが、ちょっと寄り道をしてみようと思います。
この間スーツ旅行チャンネルで紹介したところですけれど、昼の様子をまたご覧に入れるのもいいでしょう。
ここはね、もともと鉄道の配線だったところです。
ここに会員宿泊所というのがたくさんありまして、いわゆる土屋街と呼ばれている場所です。
宿と呼ぶほど上等な場所ではないので、宿を逆向きに文字って土屋と読むそうなんですが、
あまりお金がたくさんないような人が長期滞在をするような宿、一泊あたりの値段は1500円で、
極めて簡易的な作りをしている宿がですね、日本にはかつてそういうのが並んでいるところがあったんですが、
川崎はそういったものが現在でも残っている非常に珍しいところなのです。
この間企業案件で来たんですけどね、挨拶して行ったら多分出てきてくださると思うんですけど、
この間はこの左側の日清月歩さんにお邪魔しました。
でもそれ以外にもね、すごくたくさんここには会員宿泊所が並んでいまして、
この小さな一つ一つの部屋、これでだいたい一泊あたり1500円から2000円。
ただし一泊では利用することはできません。
基本的にまとめて何泊もするとか、何週間もするとか、そういった利用方法が当たり前です。
川崎の街は今では人口100万、政令指定都市、神奈川県第二の街ということで営業を極めていますけど、
昔はかなり川崎宿は貧しかったようです。
それは別にこういう土屋街とかとは直接関係はありません。
それはたまたま多分、そういう土屋街がここにできたってことだと思うんですが、
東海道の時代、江戸時代にはですね、幕府からの課される義務みたいなのがあまりにもきつすぎて、
もう暮らしていくのにも大変だったんで、なんとか渡し船の営業許可をもらえませんかといって、
それでですね、なんとか食いつなぐようなこともできるようになったと聞いています。
結構宿泊町によって当たりの宿泊と外れの宿泊というかね、あったみたいですよ。
コンテナ列車が今行き過ぎたところです。
工業地帯へ向かう貨物を満載しています。
もしくは取りに行っているのかもしれません。
川崎宿の外れ、八丁直手の駅のすぐ脇に、無縁塚というまたお墓のようなものが建っています。
これ江戸時代、東海道を旅をしていて、ここで道中雪倒れ、そのまま亡くなってしまったという方を、
そしてまあ身元がわからないという方を、ここで伴っていたもので現在まで残されているそうです。
昔の東海道の宿泊町、町の出入り口のところに、そういった通りがかりの人たちを弔うためのもの、結構多く設けていたんですかね。