意外すぎた..日本に仏教が入ってきた本当の理由|小名木善行

むすび大学チャンネル
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3 回視聴·2024/12/27
皆さんこんにちは 日本をカッコよく結び大学でございます
今回の話はシリーズ第24回となりまして 教科書を教えない日本の歴史
仏教伝来と混乱の時代ということでお届けしようと思います 仏教が日本に入ってきた
これはもう皆様よくご存知の通りのことと思います 昔は仏教伝来といいまして
昨今では仏教降伝という言い方に変わりました 仏教が6世紀の中頃に日本に伝来したわけではなくて
仏教そのものがもっと前の段階から来ていた おそらく2世紀頃にはもう仏教は来ていたんだけど
ただ公式に五行一通へちゃんと仏教が伝えられたというのが これが6世紀の中頃の話だったのであろうということで
仏教伝来ではなくて仏教降伝という言い方が 今現在では常識というふうに変わってきています
変わってきているんですがここでは仏教伝来というふうに書いてある というのは仏教という非常にこう素晴らしく高度な哲学でありまた宗教でもある
そういうものが日本に入ってきた 仏教はもう日本で生まれたものではなくて
お釈迦様がそもそも始められたことになるわけですから 大変ありがたいものが入ってきたということはこれ間違いないものであろうというふうに思います
だけれどもそれが素晴らしいものであればあるほど やっぱりそれまでの国の形と違うものが入ってくるということで
実は大変な混乱が起こるわけです その混乱がどのようにして起こっていき
そしてその混乱を静めるためにどのような努力がなされていったのか ただ混乱の時代を描くだけではなくてそれをどうやって収めていったのか
でこのことを考えるというのは現代の日本というのが本当に価値観が混乱している 現代の日本においては今だけ今だけ自分だけ教という宗教が入ってきていて
要するに個人主義ですね もともと日本というのは結びの国 和の文化というのは基本的に人と人がしっかりと結びついていくという
そういうものを大切にしていく そのためには感謝の気持ちというものを大切にするというのが日本古来の文化であるわけですけれども
ところが世界ではそうではない 世界はとにかく自分さえ良ければ何でもありだぜというのがこれが世界の一つの潮流になっているわけで
それはそれで世界の歴史を作ってきたわけですから必ずしも全てが万事悪いものではない やっぱり一人一人が自分の幸せを追求するということはそれはそれで素晴らしいことだというふうに思うわけです
ただ日本古来の価値観とは全然異質なものが入ってきた時にやっぱり 現代日本というものも価値観が大変に混乱している状況にある
ではその混乱した価値観をどのように収めていったらいいのか 実は同じようなことが日本に仏教が入ってきた時に同じように大混乱というものが生まれていて
それを当時の人たちはどのようにして全部をきちんと丸く収めて 両方がちゃんと結ばれていくような形というのを作っていったのかということを学ぶというのは
これは歴史を学ぶにおいて大変に意義のあることになるのではなかろうかと思います
そこで今回は教科書を教えないシリーズ第1章第2章となりまして古代国家の形成の中です
この古代国家の形成の一番最後ということで仏教伝来と混乱の時代ということでお話をしていこうと思います
次回からは律令国家の建設ということで現在につながる日本の形というものがどのようにして出来上がっていったのかということが
主なテーマとなっていきます
今回までが古代国家の形成ということになります
まず第26代京太天皇の時代というのを一番初めにご案内していかなければならないかと思います
実はこの前の第25代の天皇のところでご皇族が絶えてしまうんです
後位継承権を持った人が誰もいないという状態になってしまうんです
そこで何代も前の天皇まで遡っていって
その中で未だに断経断死が続いている元ご皇族つまり旧三宅ですね
旧三宅で断経断死がずっと続いている人というものを探して
探していたところ越後の方に一人見つかったということで
その人を中央の都にまで引っ張ってきて天皇になっていただいた
それがこちらの第26代京太天皇ということになります
この時に皇党というのは天照大神様から続く断経断死という日の流れだと
これは前回お伝えした通りなんですけれども
皇党というものを大切に保たなければならない
女系天皇は一切認めてはならない
あくまでも断経断死ということにこだわっていかなければ
天照大神様から続く日本のご皇室というものを守ることができないんだということを
強く主張されてそして京太天皇を探し出して
中央に連れてきて天皇に御即位いただいたという大変大きな働きをした人物が
こちらにあります大友の金村という人物になります
この大友の金村の大活躍によって我が国は
皇党をしっかりと守ることができたという風な流れになるわけです
で大友の金村は京太天皇だけではなくて
その次の天皇にまたそのまた次の天皇にもお使いをしていきます
次の次の天皇がどなたかといいますとそれがこちらですね
第29代の金明天皇
金明天皇というのは先ほどご紹介しました
京太天皇の子供になります
男性ですので男兄男子になります
四季島の金沢市の宮というのが本当のお名前
そして現在の奈良県の桜井市の金屋の富山のあたりにお住まいになっていらっしゃった
古事記ではこんな風に名前で書いて
四季島のお宮という風にその都の場所が書いてあります
でこの金明天皇の時代に実はある大変な事件が起こるんです
それがここに書いてあります
久太良が茅野を勝手に領有したことに金明天皇が激怒された
でこの金明天皇にあてて久太良がお詫びの印ということで送ってきたのが
いわゆる仏教公伝にあたります仏像と拱文
そしてお坊さんが日本に献上されたと
大和朝廷に献上されたということになりまして
これがいわゆる仏教公伝になります
6世紀の半ば
6世紀の半ばという曖昧な言い方をしているというのは
説が3つありまして
西暦538年説545年説552年説という3つの説があります
538年説というのは三国維持の古代朝鮮三国の仏教史
これは朝鮮半島の歴史書に載っかっているのが西暦538年の出来事
次は三国式とからの推定で545年という説が
日本の聖史であります日本書紀によりますと
西暦552年というのが日本側の歴史になっています
3つの中のどれが正しいかはわからない
ただ僕は日本書紀の研究なんかさせていただいている関係で
この552年説をとっています
それ以上遡るというのはありえないんじゃないかというふうに
考えているわけなんですが
これがどのような流れで来たのかということを申し上げますと
ちょっと画面戻りますけれども
実は大友の金村というのは古代の日本における大変な大豪族なんですね
で先ほど申し上げたとおり
皇党が対応とした時に形態天皇を連れてくるという大変な働きをし
その後の歴代の天皇にお使いをしていくんですが
基本的に天皇というのはこの形態天皇がそうなんですけれども
この時代の天皇というのはまだ
天皇ご自身が政治権力者であるという一面は持っていたものの
ものの事実上の政務そのもの
政治そのものというのはその部下が行っていた
でその事実上の政治の総責任者になっていたのが
こちらの大友の金村であったということになるわけです
で実はこの大友の金村にワイルを送ったやつがいるんです
この時代のですね朝鮮半島の様子というのが
まず和国これは日本のことですね
ちなみにですねこの和国という文字ね
これで古事記なんか小文字一文字でヤマトと読みます
つまり和国と書いて実は訓読みはヤマトの国なんですこれで
で和っていう漢字が日本人は身長が低かったので
要するにちっちゃい人っていう意味で
日本人に対する差別の別称なんだというふうなことを教わって
でそれを頭から信じ込んでらっしゃる方は今ものすごく多いんですけれども
多いんですけれどもこの字をよく見てください
和国のこの和という漢字これ乃木縁ですよね
乃木縁というのは実った稲穂たわわに実った稲穂の小型文字になります
そのたわわに実った稲穂を刈り取っている女たちが
中心となってくって暮らす人々
人弁というのは人々ですね
実った稲穂の前で貸し付く女性とそこに住む人々
というのが和国の和という漢字の意味になります
つまり和というのは稲作の国だという意味なんです
だからヤマト言葉でヤマトの国というヤマト言葉があったんですが
このヤマトの国というこのヤマトを掻き割らす時に
我々の祖先はこの漢字を使ったんです
で和国を読みすると和国になりますが
君読みするとこれでヤマトの国になります
だからそれを女性中心の国
しかもみんなもう背が低いちっこいやつらばっかりなんだと
あんなに大したことないんだと言ってバカにしたのは
チャイナの人々ということになるわけなんですが
彼らは別称のつもりでこの文字のことを言うんですけれども
でも漢字そのものが持っている意味は全然違うということは
ぜひご理解いただければというふうに思います
でヤマトの国がありまして朝鮮半島の南部
今の韓国の南半部ぐらいになりますけれども
この辺りをカヤと言いました
カヤこれは和国から見たときに
これが九州四国三陰陽といったような
でこちらがキナイということになるわけなんですけれども
それと同じような意味でこちらがカヤというふうに呼ばれていました
でカヤの地のど真ん中にミマナというのがあって
ミマナに日本譜が置かれていたといったような歴史があります
でこれ赤い字で書いてますけれども
カヤは和国の直轄領です
でその北側の西側
今のソウルのあるあたりというあたりに
クダラという国があり
そして反対側日本海側にはシラギがあった
でそのさらに北側にはコウクリという国があった
というこんなふうな環境になっていたわけです
でこのシラギというのは卓武相馬のシラギの国というぐらいで
たびたび和国に対する反乱をするということが起こったんですけれども
もともとのシラギ人というのは
今でいういわゆるイケメン
二重まぶたで目が大きくて鼻も大きくて口も大きくて
で身長も高いという
本当に今でいうイケメンタイプの人たちがもともと
シラギ人であったそうです
シラギの最初の王様が新潟のあたりに住んでいた日本人だということが
シラギ本家の中に書かれているんですけれども
王様が和人であり
でその和人たちのもとにシラギの国があったんですが
もともとのシラギ人は繰り返しになりますけれども
大変なイケメンであったというふうに言われています
ところが現代のこのあたりに住んでいる人たちって
頬骨が高くて目が細くて
でエラが張ったような顔立ちの人が結構いたりするんです
で実はそれは実は民族が違いまして
このあたりにワイという一族がいたんです
ワイというのは字はこういう字を書きます
山髄に年叩くんですけれども
この山髄がのぎ辺になりますとおわえのワイになります
つまり糞尿のことですね
でそれが山髄ですからどんだけ汚い連中かということになるんですけれども
もともと満州の方に住んでいた遊牧民族が
その自分たちが飼っている動物たちを全部奪われて
戦に敗れて食い物を求めて
非常にこのあたり豊かな国であったものですから
こちらの方から流れてきて白木に帰り込んでくるわけです
大陸から海沿いにやってくるわけですね
で当時和人たちがこの朝鮮半島今の韓国のちょうど真ん中辺
このあたりで盛んに鉄を掘っていたという記事があります
でこの鉄を掘るときに和人が指揮をして
白木人やくだら人ワイ人を使って盛んに鉄を掘っていた
という記録がありまして
鉄を掘る時の鉄を掘る妊婦さんとして
このワイの人たちを雇っていたわけです
ワイだけではなく白木人やくだら人も雇っていたわけなんですけども
そういった人たちを使っていたということは
ワイ族の人たちからしてみれば白木の中に入り込んで
くだら白木かやの真ん中あたりには仕事があるわけです
仕事があればおまんまも食えるわけです
ということでこのあたりで一生なって働くようになるわけですし
もともとワジンというのは差別意識を持ちませんので
働いてくれるんだったらいいよというような形で
ワイ族もたくさん使ったんですけれども
ところがこの人たち全く一文なしで流れ込んできているわけです
人に何らかの財産があったらとにかく奪う
盗む泥棒するということを散々やりまして
結局白木人の多くがワイ族と血が混じっていくんですね
で顔つきも平べったい顔つきで
つり目でエラが張っているような顔立ちの人が
このあたり一体に増えていきます
この人たちは顔つきだけではなくて性格もワイ族そのもので
自分が富を得るためだったら何をやっても構わない
いったような考え方をするという傾向があったと言われています
その関係でワイ系の遺伝子を持った人たちが
この白木の中で増えてくるにしたがって
白木の王様は決して変な人ではなかったようなんですけれども
結局その白木人白木に住んでいる人たちが
たびたびくだらを襲って
でくだらの一般の村から食い物を奪ったり
財宝を奪ったり女たちを奪ったりするようにもなった
というふうなことが起こっていきます
そこで神宮皇后が白木の制末を行い
結果として後送り白木くだらの産国は
日本に調行するようになっていくんですけれども
こうした中にあってこの茅野地というのは
日本の直轄地として白木にも属さない
くだらにも属さないでいたわけです
ところがこの茅野国について
これ欲しいと言い出したおっちゃんがいまして
それがくだらの王様なんです
くだらの王様は和国の大臣に賄賂を送って
で一滴の血も流さずに長面上でくだらが茅野を平等にします
くだらは非常にこれで大きな国になるわけです
茅野はものすごく豊かな土地だったので
この茅野を手に入れることによって
くだらはものすごく豊かな国になることができたわけです
こういうことが起こった
でただですねそうなるはずだったんだけど
茅野の人たちは俺たちは和人だと
なんでくだらなんかに税金払わなきゃいけないんだと言って
くだらが茅野を平等にした後ですね
およそ100年にわたって
くだらには米の一滴年貢を払わずに
年貢は全部和国に納めていた
なんていう歴史があったりします
でこういうふうな中にあって
この時にくだらがワイルを送った相手
つまり茅野をただで
ただでくだらにくれてやっちゃった人っていうのが
大友の金村だ
政治の中心にいた実力者です
だから大友の金村がうんと頷いてくれれば
簡単にくだらは土地を手に入れることができたんですが
その話を聞いた
第29代の金明天皇が激怒するわけです
確かに俺の親父は
俺の親父つまり景大天皇ね
俺の親父はお前のおかげで
皇位につくことができた
だから俺の今の皇位
天皇としての位があるのも
大友の金村
お前のおかげだと
そのことはよくわかる
だけれども
和国の直轄主を勝手に
何の相談もなく
スメラミコトに何の相談もなく
勝手にくだらにくれてやるというのは
いくら何度もやりすぎじゃないか
絶対に私はお前を許さんと
こういう話になるわけです
で大友の金村も困りますよね
大友の金村にしても
茅野が完全にくだらのものになるとは
思っていなかったわけです
思っていなかったんだけど
うまいこと言われて
分かった分かった
じゃあそういうふうにしていいよって
一言軽く言ってしまったがために
絶えぬ一体になっちゃったわけでしょ
大友の金村も激怒するんです
ええかげんですよ
ふざけるな
お前たち俺をはめたな
俺はお前たちのことを
絶対許さないぞ
と許さないぞというのがくだら
くだらに対して絶対許さんと
くだらは和国に対する超皇国
和国に国王を人質として送っている立場
和国の族国なんですこの3つは
和国の族国であって
しかも白木の連中が
たびたび攻め込んできて
そのたびに領地を奪われたりとか
財宝を奪われたりしている
でその時に常に茅野にいる
和国の軍隊によって
白木を黙らせてもらっていた
くだらは自分ではほとんど何もしない
全て和国がこの
とにかくお前たちは仲良くしろと
盗んだものも返してやれみたいなことで
毎回仲裁に入ってくれていた
だからくだらは助かっていたのに
茅野を勝手に奪ってしまったことで
奪った大将として認めてくれたはずの
大友の金村まで一緒になって
くだらに対して怒り始めた
この状態でもし皆さんが
くだらの王様だったらどうします
もう和国から見捨てられたら
あっという間に幸福で白木にくだら
滅ぼされちゃうんです
国がなくなっちゃうんです
でも和国を怒らせちゃったんです
和国はもう一切お前らのことを
保護しないよっていう
そこまで来ちゃったんです
これはもうくだらという国が
生き残ることができるかという
まさに死かつ存亡にかかる
話になるわけです
皆さんがくだらの王様だったら
どうします
でこの時にこの時に
くだらの王様がいやもう参った
これは何とかしなあかん
っていうことでやったのが
当の国の仏教の経典や仏像
そしてまた当の国の巧妙な
お坊さんを和国に献上する
ということをやったんです
これがいわゆる仏教公伝になります
くだらが進んだ文明文化を持っていて
で日本が遅れた国であって
俺たちが仏像を送ってやる
日本人はありがたく思え
という話だったんじゃなくて
こっちが悪さを仕掛けて
やばいってことになった時に
お詫びのしるしにということで
和国に献上したのが仏像であり
仏教の経典であり
仏教のお坊さんだった
普通はお詫びの品を献上する時というのは
くだらの財宝を献上した
でもくだらは当の国の経典や仏像や
お坊さんを献上したっていうことは
当の国の仏教だったら
日本の朝廷が喜んでくれる
でも俺たちの国の産物を送ったって
一つの日本は喜んでくれないよな
っていう判断が
そこに働いたってことでしょ
つまりそれはどういうことかというと
くだらと和国の国力
そしてまた産業
出来上がった様々な財宝といったようなものを
比べた時に
圧倒的に和国の方が財宝等を
豊かに持っていたってことになるわけじゃない
その状況下で
和国の大友の金村を
懐中するためには
もう当の国の文物を送るしかない
ということで
仏教が日本に伝えられる
という流れになるわけ
皆さんが学校で習った話とは
全然違う内容になっていると思う
でもそれが真実になります
で
そこで和国には仏教が入ってきました
仏教自体は2世紀頃から
もう既に入ってきています
この仏教公伝が行われたのは
西暦で言ったら538年から552年の間
つまり6世紀の真ん中辺ですよね
でも2世紀頃にはもう仏教は
日本にやってきていたということは
要するにあくまでも公的に
国対国の関係で仏教が送られてきた
というふうな話になってくるんですけれども
この時に仏教を受け止めて
で仏教のお寺さん
基本的に仏教の信仰というのは
中央の貴族でなければ
やっちゃいけないということになっていたんです
一般の庶民は
仏教を信仰するということはできなかった
なぜかというと
これも理由があるんです
日本の朝廷の経済というのは
すべて中央の朝廷が決めたことを
神社のネットワークを使って
全国に自達する
全国の大満たから
一般の民衆が今暮らし向きがどうであって
景気がいいのか悪いのか
地震は来ていないか
水雷は起こっていないか
どっか決壊しそうな堤防はないかといったような
様々な情報は
神社のネットワークを使って
中央の朝廷に送られていた
さらに村々では
作ったお米の半分は神社に保管した
だから神社というのは
水害が起きても流されにくい
山の上の階段を登っていたところに
神社があるわけ
なぜ不便なところに神社が建っているのかというと
山のてっぺんだったら
水害でお米が流される心配がないから
そこに米蔵を作って
米蔵の前に
そのお米を神様に守っていただこうということで
廃墊が作られている
これが神社の構造ですね
廃墊があって必ず奥の院がある
奥の院というのはもともと米蔵です
要するに神社のネットワークというものが
中央と地方をつなぎ
そしてまた村々においては
神社にお米を保管していた
で神社のうじこさんたちが
村のお祭りなんかも指揮していたし
また田植えをするときの苗
田植えというのは苗を田んぼに植えるわけですね
この苗というのは神社で
神社の人たちが苗代を作って
苗を栽培して
このできた苗を農家に配ってあげて
農家はその苗で田植えをするというふうな形になっていました
つまり神社というものが
国の政治お米の備蓄
災害対策
あらゆる部分で神社のネットワークが
国の政治とまさに一致していた
つまり再生一致
これがそのまま行われていたわけです
ところが仏教というのは神道じゃないですよね
だから仏教のお寺さんが混流されるということは
それを一般の民衆に信仰を認めてしまったら
一般の民衆からしてみれば
年貢をどこに収めればいいの
お米をどこに蓄えればいいの
今まで通り神社でいいの
それともお寺さんができたから
今度はお寺さんにお米を年貢として収めた方がいいの
ということで国内に大変な混乱が起こるわけです
そしてお寺さんのネットワークというのは
お米を地方で100のお米ができたときに
50は地元に保管する
残りの50は中央の朝廷に献上する
税として払うといったような仕組みになっている中にあって
じゃあそこに仏教の寺院が関与してきたときに
どう管理していったらいいのか
この仕組みができてないわけです
ということはその仕組みができるまでの間というのは
これは仏教の寺院はあくまでも
国家信仰のために貴族が寺院を混流する
という形以外はできないという仕組みに
していかざるを得なかったわけですね
つまり中央の貴族
今で言ったらば内閣のそれぞれの大臣さんが
神社を寄贈する
当の国から大変な立派なお坊さんがやってきます
このお坊さんがやってくるということになれば
そのお坊さんのために立派な寺院を作ってあげる
このようなことをしていった
あくまでも国家信仰のためであって
一般の民衆が幸せに暮らすための信仰ではない
とされていたわけです
ここまでOKですか
そういう中にあって
皆様よくご存知の蘇我と諸延の対決
これご存知の方多いと思います
蘇我氏は仏教を保護していた
諸延氏は神道の立場に立っていた
で仏教勢力バーサス神道勢力の戦いになって
結局諸延氏が滅ぼされて
で蘇我氏が実権を握るに至ったんだと
この蘇我と諸延の対決というのは
仏教バーサス神道の戦いでもあったんだと
いったような形で
学校で教わった方々も多いかと思います
でもちょっと考えてみてください
もし蘇我バーサス諸延というこの戦いが
仏教対神道の戦いであったとするならば
じゃあどうして今神道が残っているんですか
今でも神道の神社って日本中にいっぱいありますよね
どうしてそれが生き残ったんですか
だって神道の守護者がいなくなっちゃったんでしょ
つまり実はこれは仏教対神道の戦いではなかったということなんです
何が起こったかというと
そもそも諸延氏というのは
神武統制の際に神武天皇が中津根彦の一族と戦いました
で中津根彦の首輪が跳ねるんですけども
中津根彦の一族は全員命を守り抜きまして
全員保護してあげて
この中津根彦の一族を神武天皇の味方につけるわけです
そして神武天皇は中津根彦の一族に
主な政治を委ねるようになっていきまして
非常にだから側近として大切にされるわけです
その中津根彦の一族の末裔が
いわゆる物延氏ということになります
なぜ物延という名前が付いているかというと
物つまり武器武器を扱う
とにかく戦いがあったら私らに任せてくれというのが
物延の一族の一つの誇りになっていたわけですね
だから物延の盛家という人物も
大変な武芸の達人であった
なんていうふうにも言われています
で仏教がやってきたとき
くだらから当の国のお坊さんなんかが送られてきたときに
当然物延氏というのは
これは戦いを主な仕事とする一族になるわけですから
やっぱり人の死というのがあるわけです
死んだ部下を弔うために
仏教の仏さんというのは非常にいいよと言われればそうかそうかということで
物延氏は仏教の寺院も混流している
つまり仏教の保護者でもあった
こっちが
じゃあ曽我氏はどういう人たちなのというと
物延氏は古代の超黄金の豪族
それに対して曽我氏というのは
今でいうならば飾り職人
仏教のお寺屋さんに行きますと本殿にね
天井からジャラジャラいっぱい飾りがぶら下がっているじゃないですか
さらに仏像が置いてあるじゃないですか
あの仏像にしたって天井からの飾り付けにしたって
誰かが作んなかったらあんなものできませんよね
それを作っていたのが
実は飾り職人の小さな一族だった曽我氏なんです
ただ貴族が仏教の寺院を作るということになったときに
飾り職人さんの曽我さんのところに注文が殺到します
で注文が殺到するわけですから
曽我さんにしてみればもう値段はつけ放題です
今でも多方等
どう見ても百均で売っているような多方等が
値段1000万で売られたりなんていう
それで騙されて買わされちゃったなんていう人が
いたりするくらいのものじゃないですか
みんなが幸せになりたいと思うんだったら
どっから見ても百均で売っているような
つまんない多方等がね
これが1000万円だって言われても
1000万円ぐらいだったらいいよと言って
払って売れそうっていうような
世の中にいるらしいんですよ
そういう人たちがとにかく自分のところの仏教の寺院に
いち早く仏像を納品してもらいたいし
本殿の飾り付けもしてもらいたいと思うから
じゃんじゃんお金を弾むわけです
力のある貴族は
曽我氏に悪いけど順番があるって言う
順番はいいとにかくお題は弾むから
うちのお寺の飾り付けを先にやってくれと
いや冗談じゃねえよ
あんたねうちの先にやってこなかったら困るんだよ
あああんなもの放っといて
うちは8日何本払うんだって
ああじゃあうちはその倍出すから
作ってくれ
っていうような話になるもんだから
どんどんどんどん製品の値段がつり上がっていきまして
気がついたら
曽我氏の一族
今でいう超のつく大金持ちになっちゃった
超のつく大金持ちだ
で大金持ちですから
当然そのお金を中央の頂点にばらまいて
賄賂としてばらまいて
中央頂点の中でも非常に強い力を持つようになっている
つまり諸信氏古代の大豪族からするならば
まさに信仰勢力
ついこの間まで山の中の田舎で飾り職人か何かでね
貧乏屋に住んで
1日中カンカンカンカン
カンカンカンカンってやっていたような連中が
なんだか知らないけど今じゃあもう超
破格の大金持ちづらして
都の往来をね
わしは曽我氏の一族である
わしは大金持ちであるぞよ
こちらからしたらお前らふざけんじゃねえぞってことになるんだって
わかりますよね
で曽我氏がなんでお金持ちになったのかといったら
仏教の仏像を作ったり飾り付けをしたりしてるからでしょ
そこで諸信のお父さん何したかというと
曽我氏が作った仏像なんかを
一般の兵隊さんが繰り出して
で全部川の中にジャボンジャボンと売っちゃった
ただ売っちゃっちゃったとはいっても
ほとんどの仏像は木でできてるので
水にぷかぷか浮くわけですよ
でその報告を聞いた曽我氏が
曽我氏の一族がすっ飛んで行って
そらそこの仏像拾え拾えと言って
川の中に捨てられた仏像を一生懸命助け出してですね
こんな形で
登ったといったような話が残されています
この辺りの話っていうのは結構生臭い話が残ってましてね
ちょっと読み上げますけれども
第30代ビンタステーノンの即位14年の春2月の24日
曽我の馬子が流行り病に倒れました
占い師に問うと
父の時に祀った仏を放置した祟りだという
怪我が出た
そこで曽我の馬子が
弟子を天皇に派遣してその報告を行うと
天皇は占いの者の言葉に従って
父の神曽我の稲目のね
が祀った仏像をしっかりと祀りなさいと
このように見事にされた
この時国に疫病が流行って
民衆の間で亡くなった者が多く
これ原文がこの青いところ
でこれが2月の24日なんです
3月の1日
もののめの森屋と中富の勝美
中富の勝美っていうのは後藤原氏です
この2名が天皇のもとにやってきましたね
ビンタステーノンのところにやってきて
すめらみごと
何故我らの言葉を用いないんですか
父のすめらみごとであらゆる金明天皇から
ビンタステーノンまで疫病が流行して
今や国の民の命が断たれています
バタバタバタバタで
多くの者が死んでいるんです
それはなぜこのような疫病が
国内に流行るかといえば
それは曽我氏が仏教を起こしているから
じゃありませんか
仏教のせいで
疫病が流行っているんじゃないんですか
神々がこれね
すめらみごと追いかれたんですよ
曽我の上手く言うことを聞かないでもらいたい
っていう風に来たわけです
天皇はみごとの祈りして
もし仏教が原因で
疫病が流行っているということが
明らかならば仏教をやめなさいと
明らかならばだよ
明らかならばやめなさいと
いう風にみごとの祈りをされた
でこれが3月の1日の話
同じ3月の30日
この3月30日に
モノノブのモリアは
自らお寺に行って
将棋を広げてそこにどんと座るんです
でどんと座ると
お寺の塔を切り倒し
部下に命じてお寺の塔を切り倒し
火をつけ
仏像と一緒に焼き払う
ということをします
さらに焼け残った仏像を取って
谷間の堀へに捨てた
水の中にジャバーンと捨てちゃった
これも原文はこの青字で書いてあります
でこの日は雲がないのに風が吹いて
雨が降って
モノノブのモリアは雨衣を被りながら
曽我の上手くに従う仏像らを責め
心を傷つけ恥ずかしめた
お前たちがそもそも仏教なんかをやってるから
だから曽我の上手くがああいう風におかしくなってくるんだ
お前たち本当の仏教を教えてるのか
何考えてるのお前たちは
みたいな状態で引っ張り飛ばした
さらに曽我の上手くがお供えした
全身なる天たち
天さんというのは要するに女性のお坊さん
全身な天さん
つまりだから信仰心の厚い
本当に御仏に使いようとする天さんたち
これね若い天さんたちもいた
その天さんたちを呼び寄せて
室にお室に授けた
で室の司役人たち
室のねその預けられた役人さんたちは
天さんたちの侍
天さんたちって包衣を着てるわけですね
それを奪い取って
つまりすぽんぽんにして
で絡め捕らえて
師範の馬を叩く棒
馬のおけつを引っ叩く棒
これでその天さんたちを鞭打った
女性をすぽんぽんにして
まるで今で言ったら
なんとかプレイみたいな感じですけども
これはもうお楽しみでもなんでもなくて
拷問ですよね
天さんをすぽんぽんにして
鞭でぶっ叩くわけですから
そこまでやって本当にだからもう
仏教に対して
モノドベの森屋は激怒していたという
そんな状況があったわけです
こんな状態で蘇我氏とモノドベ氏
信仰勢力の蘇我氏
大変に財産を持ってる蘇我氏と
古代からの大物豪族であります
モノドベ氏の間がどんどん冷え込んでいく
そして次の天皇
第31代陽明天皇の時代
陽明天皇の時代というのは
先ほどこちらで言いましたけども
金明天皇の息子さんが
ビンタス天皇
ビンタス天皇の次の天皇が
こちらの陽明天皇ということになるんですが
陽明天皇にご即位された翌年
西暦587年
かぬており対立していた
仏教洋側の蘇我氏と
廃仏派のモノドベ氏との間に
ついに武力闘争が発生する
蘇我の軍隊はモノドベ氏の本拠地であった
河内国の渋川へ攻め込んだ
わー
この時モノドベの森屋は
犬を摘んだ砦を築いて
自ら榎の上から矢を放って暴戦し
えええ忙しども
来るなら来てみよう
ビューと矢を放す
この矢っていうのは物見事に正確
物見事に正確で
蘇我の軍隊の指揮官クラスを
もう一夜で次から次へと射止めていく
そがの軍隊は、みたび退却をする。
ついに軍勢を退却させるしかないというような状況になっている。
この時、そがの軍隊に従軍していたのが、若干14歳の聖徳太子。
この聖徳太子は、そが氏の軍の後方にいたけれども、戦況を見て、
これでかなり苦戦をしておるなということで、
ぬるでという木を買って、四天皇の像をその場で掘る。
仏像をその場で掘る。
14歳の少年が仏像を掘っちゃうわけです。
すごいものですよね。
で、聖徳太子が願掛けするんです。
もしこの戦いに勝利したならば、
必ずや四天皇を安置するお寺を建てましょう。
だからこの戦いをなんとか勝利させてください。
このように聖徳太子がお願いをする。
すると、この会合ってか、
味方の矢が敵のモノノベノモリアにぐさりと命中する。
モノノベノモリアは高いところに立って弓を射ていた。
命中してウッとなってそのまま落下する。
落下してそのまま命を失ってしまうわけですね。
そして戦いは蘇我氏の大勝利に終わる。
モノノベノモリアの邸宅に火をつけた蘇我氏は、
第32代スシュン天皇を暗殺し、
即にした第33代スイコ天皇の下、
聖徳太子は節何和の荒墓で四天皇寺の混流に取り掛かる。
聖徳太子が作ったのが四天皇寺。
最初に作ったお寺さんが四天皇寺ですよね。
この四天皇寺はこの戦いの時の約束に基づいて混流されたという流れになります。
ただ一方において、この戦いで勝利をした蘇我の馬子は、
なんと第32代のスシュン天皇を暗殺しちゃうんです。
暗殺しちゃう。
なんで暗殺しちゃったかなんですけれども、
それがさっきの話、年表形式になっているんですけれども、
スシュン天皇の元にある日ですね、590年の10月なんですが、
ある日イノシシが献上されるんです。
立派なイノシシが獲れましたということで、イノシシが献上される。
この時にスシュン天皇がこのイノシシの目に刃物をぐさっと突き立てて、
このように見事呪いされる。
いつの日かこのイノシシの首を斬るように。
自分が憎いと思っているものを斬りたいものじゃ。
皆の者そう思うのか。
つまり蘇我氏がもう本当に聖王が目に余るような状態になっていて、
これに対してスシュン天皇は大変な怒りを感じておいでになったわけですね。
ところがスシュン天皇がイノシシの目を刺してそのようなことを言った。
これはスシュン天皇は、わしら蘇我氏を滅ぼそうとしている。
このまま放っておいたらわしらスシュン天皇によって滅ぼされる。
これはまずいことになったぜいということになりまして、
悲観を抱いた蘇我の馬区はスシュン天皇をなんと暗殺しちゃうんです。
これが歴代天皇で公式な記録として暗殺されたという、
我が国における唯一の事例になります。天皇が暗殺される。
天皇の命さえもなんとも思わない。
だからこの段階で蘇我の馬区は、自分の方が天皇よりも偉いと思ってますよね。
天皇様からずっと続いている御皇室の火を大切にする、
そんな風な伝統、そんなもの全く大事なものだと思ってないんです。
もとは、もとはといえば単なる飾り職人のおっちゃんでしかないわけです。
で、仏教を信仰してるわけです。神と関係ないです。
何がアマテラス御神様だ。
アマテラス御神様よりも、お釈迦さんの方が立派に決まってるじゃないか。
何が御皇室の伝統だ。ふざけるな。
そういう感覚です。
そういうことしか、そんなことどこにも書いてないですよ。
だから天皇暗殺しちゃうってことはそういうことでしょ。
ここでスシュン天皇が暗殺されちゃうわけです。
そうなってくると、スシュン天皇の次に行為に就く人、
次の天皇を誰か決めないといけないわけです。
だけど、断兄断姉他にもこの時代たくさんいたんだそうなんですが、
誰一人天皇になりたがる。
だって天皇になったら荘厳の馬鹿に殺されるんだもん。
殺されるってわかってるのに、はい、わかりました。
僕は天皇になります。そんな人いないですよ。
でも天皇がいなかったら国民が大見たからじゃなくなっちゃうじゃないですか。
国民は天皇の大見たからなわけですから。
国民の立場っていうのが大変に弱いものになっちゃうんですよね。
これはまずいよねということで、
金明天皇の皇后陛下でありました、
水戸天皇に御息いただという形になる。
誰も天皇になりたがりないということで、
清暦593年の1月に、
女性、金明天皇の奥様でありました皇后陛下に、
水戸天皇として天皇の地位に御息いただく。
水戸天皇のお名前、ぬかたべの姫御子。
日本書紀では、豊美家家飾屋の姫の御子と。
豊美家、豊かな食事。
家飾屋、つまりお台所。豊かなお台所。
こういうお名前がついているということは、
お料理がとてもお好きな女性だった可能性がありますよね。
古事記の方ですと、豊美家の家飾屋の姫の御子となっているんですけども、
文字を見ても同じような名前が書いてあります。
本当のお名前はぬかたべというお名前だったということなんですが、
お料理が大変にお上手だし、お好きな女性であった。
おそれを言いますと、男性で、男系男子で、
どうしても誰も天皇になろうというものがいないのでございます。
大変申し訳ないことでございますが、皇后陛下が引退してますから、
大皇后ですよね。大皇后陛下。
おそれを言いますが、スメラミコトに御息いただけないでしょうか。
わらわは、お料理はわせるけども、政治向きのことはわからぬぞえ。
それでもよいか。
あ、おそれで結構でございます。
政治向きのことは、そがしとも皇位にしておいでの聖徳太子様に、
政治向きのものをやっていただこうと思いますので、
そこなんとも天皇になってくださいません。
わかったではなろ。ということで、
もともとは天皇が政治権力を持ち、皇后陛下が神様とつながって、
神様の言葉を天皇に伝えて、天皇がその神様の言葉に基づいて
政治を行うというのが、我が国の姿であったんですけれども、
この神様とつながる役割の皇后陛下が天皇の地になっちゃったわけです。
そうすると、天皇の下に政治をする人を置かなくちゃいけなくなっちゃう。
それで、聖徳太子が摂政として、摂政というのは政治を取ると書きますよね。
政務を取る人として、聖徳太子がここで選任された。
馬宿の豊耳の御子の御事。馬宿の王子という名前があったという話なんですけれども、
耳がね、非常に耳たぶが長い。
耳たぶが長いというのは、お釈迦様というのは耳たぶが非常に長かったんだという、
そんなふうな伝説がありまして、要するにお釈迦様によく似た顔立ちだということで、
しかも蘇我氏が諸信氏を滅ぼしたときに、蘇我氏が勝利する要因として四天皇像を作ったなんていう背景もあって、
蘇我氏とも仲がいい。
だから蘇我氏を懐中するには、やっぱり聖徳太子様以外にはないであろうということで、
この馬宿の豊耳の御子の御事というのが政省となって、政務を捉えるようになった。
で、政省となってすぐに馬宿の豊耳の御子の御事、つまり聖徳太子は四天皇像の交流をするんです。
仏様と約束したんだから、これはすぐにやる。
で、翌年の2月、翌年の2月、9ヶ月後になるのかな、には今度はこちら。
三方交流の御事のり、別名を仏教交流の御事のりと言いますけれども、この御事のりを発せられる。
どんな御事のりかと言いますと、こちらになりますね。
これは御事のりですから、水戸天皇のお言葉として発せられるんですけれども、
水戸天皇が聖徳太子の大臣なり、三方、三方というのは仏法相です。
仏法相の三方を起こして栄えさせようと御事のりされた。
で、この時諸々の尾身や村地はそれぞれ親の恩のため、競って仏教を祀る建物を作りました。
これを寺と呼ぶようになりました。
つまり今でいうお寺さんの寺という用語自体が、この三方交流の御事のりの時から使われるようになった言葉ということになります。
四天皇寺は四天皇寺じゃなくて四天皇寺ですからね。
寺と書いて寺と呼ぶようになったのはこの時から。
これによって厚く仏法、仏法相を敬うということが行われるようになっている。
さらに大事なポイント。
この御事のりによって中央貴族が競って仏社を作った。
お寺を作ったということです。
お寺を作ったら何が必要ですか。
仏像が必要です。
それから本堂が必要になります。
本堂の飾り付けが必要になります。
これはどの一族が作っているんですか。
曽我氏でしょ。
曽我氏はめちゃめちゃ繁盛です。
まさに聖将として、聖人と結びついた商人として、ものすごい財産をいっぱい作っていくということになっていくわけです。
この現代語訳というのは、日本史学の原文をそのまま訳したものになります。
これによって聖徳太子が婚留されたのが、まず始天皇寺。
立派なお寺ですよね。今でも残っています。
そこで皆さんに質問です。
水戸天皇の時代に水戸天皇の御事のりとして、三方交流の御事のり、別名仏教交流の御事のりが発せられることになりました。
でも、今、21世紀となった今においても、皇室祭祀というのは全部神式ですよね。
神道ですよね。仏式はないですよね。
なんででしょう。だって三方交流の御事のりが発せられているじゃないですか。
なんででしょう。理由があるんです。
本日お話申し上げました日本の歴史なんですけども、
実はこちらにあります、学校で教えない歴史の真実というシリーズものの中の一つになります。
シリーズ全体は弓矢塾の方でご覧いただくことができます。
最初、そもそも歴史とは何ぞやというところから始まって、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、そして現代に至るまで全部シリーズで、
おそらく合計200回くらいのシリーズになってくるんじゃないかなと思っております。
さあ皆さん、あなたはどこから学ばれますか。
