【ゆっくり解説】山崎の戦いの謎!!!一体何があったのか。。。

にっぽんぽん【ゆっくり日本史解説】
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これがおもろい
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歴史は何のために学ぶのか。この疑問を持ったことがある方は少なくないでしょう。仕事では直接使うことはほとんどないですよね。
過去を学ぶことで未来に活かせると私は考えています。教養という意味でも社会で必要な知識でしょう。
先人たちはどのような暮らしでなぜそのような文化が形成されたのか。面白いことばかりです。
こういった考えから、このチャンネルでは社会人の方が、ゆっくり楽しく歴史上の偉人のことを学べ、更に、そこから日常でも役立てられるような動画を作っています。
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#ゆっくり #ゆっくり日本史 #ゆっくり解説
本能寺の変って、戦国最大のミステリーって言われてるけど、その後の歴史も謎が多いわよね。
そうだな。本能寺の変の真相を探るには前後のこともよく知る必要があるだろうな。
特に話題になるのが山崎の戦いだ。
山崎の戦いについては解明されてるの?
解明されてないことだらけだ。それじゃあ今日は山崎の戦いの謎について解説していくぜ。
それじゃあゆっくりしていってね。
山崎の戦いが起きた原因は、1582年6月2日に起こった本能寺の変だ。
遡ること1577年10月、豊臣秀吉は、信長から、
毛利てる元の勢力権である三陰三陽を侵攻するよう中国攻めを命じられた。
毛利氏と足利家の勢力を潰そうとしたのよね。
それを受けた秀吉は、その年に光月城を攻略し、
翌1578年に幹城、1581年に鳥取城を併領攻めで落とした。
その後、1582年4月27日から碧中高松城への攻撃を開始した。
敵の毛利氏は瀬地下信吉を碧中高松城の援軍に派遣する。
これが本能寺の変が勃発するわずか数ヶ月前のことだ。
そう聞くと、本当に突然本能寺の変が起こったのがわかるわね。
碧中高松城は防御性の高い低湿地にある沼城だ。
牢城作戦を取った城主の清水宗春に苦戦を強いられた秀吉は、
敵である毛利氏の援軍が進行中であったこともあり、
信長に援軍を要請する。
沼地に城を作ったんだ。よくそんな地盤に建てれたわね。
信長から明智光秀を援軍に送るとの返答があったものの、
早急に碧中高松城を落城するよう言明もあった。
そこで秀吉は、低湿地という立地を逆手に取り、
足利川に堤防を構築して水攻めにし、
なるほど、湿地帯だからこその利点を弱点にしたのか。
水に沈んだらどうしようもないわね。
しかし中国語家国の城都と城兵の生命安全を提示した毛利氏に対し、
秀吉は中国語家国の城都と宗春の切腹にこだわったため、
なかなかまとまらなかった。
秀吉はどうしてもトップを潰しておきたかったのね。
そのような状況の中、秀吉の援軍に向かっていた明智光秀が無本を起こし、
6月2日に本能寺の変が勃発する。
秀吉がそれを知ったのは翌3日の夕方で、わずか1日後のことだった。
そのきっかけは、明智光秀から毛利方に贈られた使者を捉えたことだ。
秀吉はどうしたの?
信長の死を知った秀吉はひどく落胆したが、
腹心の黒田寛兵衛が明智光秀を討伐すれば天下を取れるとこぶした。
そのためには、信長の下心である柴田勝家と同盟者の徳川家康よりも先に仇を討つ必要がある。
一番に仇討ちを果たせたら、周囲より優位になれるってことね。
そこで秀吉は、毛利方との早期講和を図ることにした。
それも信長が落命したことを知られると選挙が悪くなるため、徹底的に陰徳した。
毛利側はまだ信長が死んだことを知らなかったのか。
まず、翌日4日には毛利方に3か国の城都と宗春の地震を提示する。
碧中高松城は氷漁が底を突き、落城寸前であったため、
毛利側はこの条件を受け入れては僕が成立した。
えー、じゃあ宗春は?
そうだ。夕方には宗春が地震し、毛利軍は撤退を始めた。
そして6日、毛利軍の撤退を確認した秀吉は、
碧中高松城から山崎まで、約200キロの道のりを10日で踏破した中国大返しを結構した。
200キロを10日で、どんだけ歩かなきゃいけないのよ。
大返しの日程を見ていると、
6月6日に碧中高松城から沼城を約22キロ、
6月7日に沼城から姫路城を約70キロ、
6月8日に姫路城にて休憩、
6月9日に姫路城から明石へ約35キロ、
6月10日に明石から兵庫へ約18キロ、
1日20キロぐらいは歩いてるのか。
さらに6月11日に兵庫から天ヶ崎へ約26キロ、
6月12日に天ヶ崎から富田へ約23キロ、
6月13日に富田から山崎へ約6キロと走破した。
碧中高松城から姫路城までの約92キロを、2万の軍勢を率いて、
わずか2日で走り抜け大量を成し遂げたわけだな。
やっぱり一番ノリになりたいから急いでたの?
これは、毛利軍の追撃を避けるためと、
秀吉が誰よりも先に明智光秀を撃つために
織田家の他の武将たちが弔い合戦に出遅れるようにしたこと、
それと秀吉が急に攻め入ってくる明智光秀の予想時期を欺くためだ。
なるほど。光秀の隙を作るためでもあったのね。
その後、同盟者を募りながら光秀の様子を探り、
光秀と情報線を繰り広げながら慎重に攻軍する。
秀吉が天ヶ崎を目指していた10日、
明智光秀にもついに知らせが届いた。
光秀が秀吉の動きを掴んだわけね。
それを聞いた光秀は、
秀吉の進軍が予想を超えて早かったため、
淀城と昇龍寺城の集蓄に着手し、
男山に付陣していた兵を撤収し、
十分な準備を整えられないまま決戦に臨むこととなった。
光秀は光秀の隙を突くことができたわけね。
6月13日、山崎の地に到着した光秀軍の兵の数は、
およそ4万だった。
それに対する光秀軍は、約1万6千人で退陣する。
光秀の戦略は、山崎の地が天皇山と沼地が隣接する淀川に挟まれた幅の狭い地形のため、
縦長になって進軍してくる光秀軍を迎え撃つというものだ。
なるほど。地形を活かして、兵力の差を補おうとしたわけね。
その時の付陣は、齋藤と志造と厚地貞之、川内周を前面に配置した。
光秀軍の付陣は、山側、中央、川側の3つで、
山側に橋場秀長と黒田寛兵衛、
中央を高山羽根、中川清秀、堀秀政、
川側に池田恒沖、池田本助、加藤光康だった。
うーん、光秀の兵の少なさを感じるわねー。
そして午後4時に先陣を切ったのは光秀軍だ。
光秀軍の中川清秀が高山の横に陣を構えようとした時に、
光秀軍の威勢が襲いかかったことがきっかけだった。
それに交互して光秀軍の齋藤も光秀軍の高山に攻撃を開始する。
中川、高山とも肉戦を強いられたからだ。
すごいじゃない、戦略が成功してるわね。
しかし、光秀軍の掘りが稼いし、なんとか持ちこたえた。
天皇山に浮陣していた光秀軍の吉高、光永は、
進撃してきた光秀軍の松田正近と並川靖江と交戦し、
一心一体の攻防が続く。
おお、光秀もすごいわねー。
その後、約1時間が経過したところで大きく動きがあった。
川側に浮陣していた光秀軍の常沖、本助、加藤が密かに淀川を北上して陰陵寺側を渡り、
光秀軍の津田信晴を奇襲する。
光秀本体の側面を突いたことになり、がらりと戦局が変わった。
手薄になってしまうとこを攻めたわけか。
これにより苦戦していた光秀軍の中川、高山は一気に押し返し、
動揺した光秀軍はそう崩れし、敗走する。
これは約3時間の戦いだった。
もともと明智軍は兵力が少なかったものね。動揺したらあっという間か。
昇雄寺城に退却する光秀を手助けするため、伊勢山津田が打ち死にし、
光秀軍の死傷者は満を超え、甚大な被害を受けた。
逃げ込んだ昇雄寺城は平白だったから、
光秀軍の追撃を防御できないと判断し、
密かに脱出し居城の坂本城を目指すことにした。
一旦自分の領地まで逃げようとしたのか。
しかし、その途中の昇クリスの矢部で土民の落武者狩りに遭い、全滅したとされている。
こうして、わずか12日間に渡る明智光秀の転化が終わった。
よく言われている3日よりは長いけど、
やっぱり短い転化だったわね。
その後、光秀は光秀の後爪である明智光秀三の軍や息子の明智光秀を辞任させ、
京に入って青海を平定するなど、
この勝利によって清介義で信長の後継者としての地位を固めたわけだ。
光秀は敵討ち一番乗りと敵討ちを実現させたわけね。
ここからはいろいろ謎を見ていこう。
碧中高松城を水攻めにした堤防は高さ約7メートル、長さ約3キロ、
その広さは東京ドーム40個分もあったが、わずか12日間で作られたと言われている。
そんなに大規模な堤防を短期間で作ることができるものなの?
まず、この水攻めは誰が考えたのか考えてみよう。
多く知られているのは秀吉だが、考案したのは官兵衛だ。
碧中高松城は、北側と東西の3方向が沼になっていて、南側は足守側になる。
兵や馬が攻め入っても足が取られるなど機動性が悪くなるため、
この特徴を守りに生かした立地だった。
そうよね。沼地は進軍のスピードを遅らせることができるわよね。
この碧中高松城に攻撃を仕掛けた秀吉だが、実は2度失敗している。
そこでこのまま毛利氏の援軍が到着すると、
戦いを有利に進めることができないと考えた官兵衛は、奇策調査を実施した。
それで足守側よりも碧中高松城の方が少しだけ低い位置にあることがわかったんだ。
えー、城作りが得意な官兵衛だから、そういうこともわかったのかもね。
そこで官兵衛は秀吉に水攻めを進言した。
信長に殺急に落城するよう言明を受けていた秀吉は、
その奇策が成功するかどうかわからないまま水攻めを採用する。
だが梅雨の時期であったことも手伝って足守側が増水し、
碧中高松城は陸の孤島になった。
新たな戦法が成功した瞬間ね。
水攻めで作られた堤防だが、その規模には2つの説がある。
一つは定説となっている全長3キロの堤防工事を行った説と、
もう一つは後年の調査で300メートルの堤防工事で済んだ説だ。
3キロも堤防を作らなくてもよかったってこと?
全長3キロの説は、後年に残した資料中国平壌記に記述がある。
それによれば足守側の東にある河津が花から続く全長3キロ、
高さ約7メートルの堤防をわずか12日間で造成したとある。
非常に高額な報酬を支払って子卒や農民らを集めて完成させたとあり、
これが定説となっている。
あーなるほど。兵たちを使ったんじゃなくて、人を雇ったのか。
しかし、1997年に周辺の土地の高低差を精密に調べたところ、
自然堤防があることがわかった。
つまり、この自然堤防が当時からあったことを考えると、
河津が花と堤防との間の約300メートルに堤防を築くだけで、
水攻めができたということになる。
3キロと300メートルじゃ手間も時間も全然違うものね。
こっちの方が現実味があるわ。
次に明智光秀の敗因について見ていこう。
光秀が本能寺の変を起こす際、事前に準備した形跡がない。
そうなると織田信長を打ち果たす大きな決断であるにもかかわらず、
準備不足、根回し不足が否めないように感じる。
そうよね。
いくら不意打ちとはいえ、秀吉みたいに敵打ちに来る可能性はあるわよね。
光秀は、本能寺の変を起こした後、積極的に諸情をしたためて、味方を募ったようだ。
信長の敵対勢力だけでなく、信長の過信であった武将にも、
本能寺の変を起こした後で、信長を打ち果たしたことや自身に味方するよう要請したとみられている。
どんな武将に協力をお願いしてたの?
光秀は、味方になってくれる人物として細川藤高忠を寄付し、
筒井純恵、節集に期待したと言われているが、期待は外れ有力大名を味方にすることはできなかった。
そのため、山崎の戦いでの橋場軍は2万から4万、
明智軍は1万から1万6千と平数差が開いたから、光秀の準備不足は敗因の一つと言うだろう。
そうねー。協力を得られないのに決行したっていうのは、ちょっと無計画に感じるわね。
また、秀吉の情報収集能力の高さ、
中国地方から驚きのスピードで機内に帰還したことも、光秀の敗北に繋がった。
秀吉の起陣が光秀の予想より早く、体勢を整えきれていないところで、光秀は山崎の戦いに挑み破れたわけだからな。
秀吉の動きが早すぎるのよねー。
山崎の戦いで敗れるまで、光秀は誤算が続いたものと思われるが、
実は誤算は本能寺の変を起こしてすぐに始まったとも考えられる。
後継者アピールが遅れたってこと?
この瀬田橋がなくなったことは、明智光秀にとって異体誤算であったと考えられる。
なぜなら、瀬田橋は安土城へ入場する際に必要な橋だったからだ。
そうか、橋がなかったら、そもそも安土城に入れないのね。
光秀は安土城に入り、信長の後継者として名乗りを挙げて、信長の軍資金を抑える算段があったのかもしれない。
安土城は琵琶湖からも入場できるんだが、大軍のためなのか復旧を待った光秀は3日間を無駄にし、時間的な余裕を失ったとも言われている。
うーん、安土城に入場することにこだわりすぎたのかしら。
また、近年、山岡陰鷹についての記録が見つかっている。
その文書によると、山岡陰鷹によって瀬田橋が焼かれたため、
光秀の獣神明智様助が船に乗って琵琶湖から安土城へ入場しようとしたことが記録されている。
橋がないなら船でってことね。
明智様助は、山岡陰鷹と船で戦うが、火神が討ち取られたため、安土城へ入れなかったと書かれている。
結局光秀は自身の居場坂本城に入り、その後瀬田橋に修復を終え、6月5日には安土城に入場した。
それは時間がもったいないわねー。
そして峡谷鷹継ぐ、厚地貞之は味方につけた光秀だが、長谷さんじてくれると期待している武将は少なかった。
特に名流細川藤鷹と着難の只沖の不参加は大きかった。
細川藤鷹とは仲が良かったのよね。
光秀が藤鷹に出会った時期は、光秀が越前にいた頃と見られている。
信長が越前に身を寄せていた足利義明を奉じて、上落する際に藤鷹と光秀が仲介役を務めたとされていて。
光秀が足利義明に仕えると同僚になり、後に二人とも織田信長に仕えている。
戦友みたいな感じかしらね。
その後、藤鷹は光秀の余力になり、軍事行動の際は光秀の指示に従う。
二人とも信長の家臣だが、光秀の指揮下で藤鷹が従軍していたこともあってか。
無本の後も藤鷹の家政を宛にしていたようだ。
それなら自分についてくれると思うわよね。
また、光秀と藤鷹の関係は、同僚で余力ということだけでなく、親戚関係でもある。
信長の命令で、光秀の娘細川藤鷹と藤鷹の着難只沖が結婚していたためだ。
このように不快なかであることから、6月3日に光秀は味方するよう要請している。
親戚で専有で部下なんだから、自分の側につくと信じていたでしょうね。
だが味方になるどころか、藤鷹は信長の死を痛み出家して、只沖に家徳を譲る。
只沖も出家し、ガラシャを遊兵して、光秀の要請を拒否する姿勢を示した。
細川氏の決断を知った光秀は、6月9日の日付で藤鷹、只沖不死に本位を促す諸情を送っている。
やっぱり光秀は怒ったの?
そうだな。
藤鷹、只沖に対して光秀が怒っていたことが読み取れ、光秀がいかに頼みに思っていたかが伝わってくる内容だった。
さらに本心下は不明だが、本能寺の変を起こしたのは、光秀の着難十五郎と只沖を取り立てるためで、しばらくしたら二人に天下を譲ると書いてあった。
必死に味方を探してたのね。
このように大きなことを起こしたというのに、事前に寝回しをしていなかったようで、
藤鷹、只沖にすら動いてもらえず、味方を集められなかったことは山崎の戦い背因の一つと言えるだろうな。
もっと早くから寝回ししとかないとダメだったのかもね。
藤鷹、只沖の他にも、光秀が味方になってくれると期待したという人物がいた。
それが大和の筒井純恵だ。
純恵が信長に守住する際に仲介したのが光秀であり、純恵のライバル松永久秀と和睦する際に間に入った人物は光秀と佐久間信森だ。
光秀は純恵にも恩があるから協力してくれるだろうと思ってたのね。
その後、松永久秀の一度目の離犯。
大和を治めてた原田尚正の戦士があり、純恵に大和の支配が任された。
純恵が大和を治めるようになった1576年頃、純恵は光秀の頼木になり、光秀の指揮下で軍事行動を共にしている。
こちらも頼木だったのか。
純恵が正式に大和一国を任されたのは1580年で。
光秀の尽力があったと言われていて、お礼を伝えに坂本まで出向いている。
また、茶の湯を好んだ文化人同士で、良好な関係を築いていたとも伝わっている。
仕事でもプライベートでも仲のいい関係か。
この背景から、光秀は純恵にも期待し、純恵も消極的ながら応じる態度も見せたが、結局は光秀についている。
純恵は18万億、藤高は12万億の大名だったから、味方かどうかは山崎の戦いの勝敗に大きく関係しただろう。
どうして光秀の味方につかなかったのかしら?
本能寺の返答時、光秀は碧中高松城を攻めている最中で、光秀の無本を知った翌日、毛利勢とはぼくしている。
さらに光秀は光秀が頼みとするのは、細川藤高であることを見抜いており、日付は不明だが光秀の使者が訪ねていたようだ。
ここでも光秀が先回りしていたのか。
山崎の戦いにも惨失しなかった藤高に光秀は希少問を出し、感謝の意と今後の処遇について誓っている。
もしかしたら、藤高は光秀に敵わないと悟り、光秀を見限ったのかもしれないな。
まあその勘は当たったわけだけどね。
思うように味方を集められない明智光秀は落胆していただろうな。
本能寺の返答時、織田家中心の柴田勝家は腰中で植えすぎ献身と睨み合い、
滝川一真は越後の霞山城に向けて進軍中で、織田信高は四国遠征の準備をしていた。
重要な家臣たちが各地に散らばった状態か。
信長を打ち取った後、光秀は織田家中心と対峙するまでに、少し時間があると考えていたと思われる。
周囲の人にとってもまさかの展開だったわけね。
また秀吉は、中国大返しの最中、節習に情報を送っていた。
その中には、信長は無事であるという政治的判断による嘘も含まれていたから、
節習が光秀に味方しなかった一員かもしれない。
もし光秀が節習を味方につけられたならば、
今日に進軍する秀吉を足止めできたから、光秀にとって痛い誤算と言えそうだ。
結局山崎の戦いが起きると、高山うこん、中川清秀、池田恒を切ら節習は、
橋場軍の戦法を務め、明智軍を後退させるなど奮戦した。
またもや情報戦で秀吉が勝ったわけね。
もし信長が生きているとなれば、信長の敵以外、光秀に味方しようとする大名はほとんどいないだろう。
だから秀吉は信長が生存しているという嘘を流すわけだが、
信長の亡骸が見つかっていたなら、成り立たない。
でも本能寺の辺では、
そうだ。信長、信長の着難の豚田の首を見つけられなかった。
だからこれも、間接的ではあるが山崎の戦いの背因になりそうだな。
武将が首にこだわるのは理由があったのねー。
山崎の戦いでの明智軍は、光秀直属の家臣の他に、奥美洲、丹波洲、幕府洲がいた。
しかし中でも奥美洲は、光秀に仕方なく従っていたものが多く、戦意は相当低かったとみられている。
うーん、光秀の求心力のなさよ。
奥美洲の一人である小川博多は、山崎の戦いで敗北した後、
咎めを受けた形跡はなく、柴田勝と世の過労になっている。
池田陰博も奥美洲で、山崎の戦いで敗北した約4ヶ月後に秀吉に仕えている。
まったくお咎めなしどころか、出世までしてるじゃない。
光秀に従わざる得ない事情を秀吉も理解していたのかもな。
一方の幕府洲は打ち死にした者も多く、足利が幕府の最高を願って奮戦したようだ。
本能寺の変を起こした光秀は、足利が吉明と再び連携しようとしていたことが、密書から読み取れる。
そうなると、朝廷も信長大月満々だったのねえ。
いずれにせよ、山崎の戦いでの明智軍は、寄せ集めの軍勢である上に、
多勢に無勢という状況で、あっけなく終わった。
ここら辺が敗因の理由なんだろうな。
クーデターも考えないとうまくいかないものなのね。
次は中国大返しについてだ。
1582年6月2日に本能寺の変が起きたとき、
秀吉は碧中高松城を水攻めしている最中だった。
密秀によって信長が撃たれたことを秀吉が知ったのは、
翌日の三日の夜のことと言われている。
情報が早かったのよね。
この時代に正確な情報を受け取ってるのはすごいわ。
秀吉にとって幸いだったのは、
その少し前から毛利方との間では平行商が進められていたことだ。
講和がなり、いつか毛利方の吉川元春小早川高影の軍勢が撤退を開始し、
姿を消したのを見届け、秀吉軍も撤退し始めた。
ここから猛スピードの中国大返しが始まったわけね。
とはいえ、この時の秀吉軍は2万5千という大軍だ。
秀吉は、明智密秀と一戦を交えるためには兵は多いほどいいと考え、
高松城にはわずかの兵を残し、その大軍を率いて上方に戻ることとなった。
大軍を攻軍させるって大変じゃない?
その日のうちに微前の沼城に到着し、翌7日早朝、沼城を出発。
その日の深夜に晴間の姫路城に入った。
1日で70キロを走った計算になるから、このスピードは驚異的だ。
というのは、当時大軍を移動するのに、普通は1日で20キロがせいぜいだったからな。
20キロでもすごいわよ。みんな装備やら物資を持ってるわけだもの。
しかも秀吉は、その姫路城ですごいことをやっている。
なんと、姫路城に蓄えてあった漂流米8万5千穀と軍資金の金800枚、銀750貫紋を将兵たちに分配したんだ。
えー、姫路の段階で褒美を与えたってこと?
将兵たちの敷小部を狙ったものだが、秀吉としては光秀を倒せば、漂流も金銀もすぐ手に入ると考えたんだろう。
まだ織田政権を継ぐことができるかどうかわからないのに、この決断をしたのは見事だな。
負けちゃったらとんでもないことになるものね。勝つ自信もあったのか。
その姫路で面白いエピソードが伝わっている。
秀吉が9日早朝出陣と触れさせたところ新厳州の鬼闘僧が秀吉のところにやってきて、
9日は二度と帰ることのできないあくびにあたるので、出陣は延期したほうがいいと言ってきた。
この時代の僧侶は占いもしてるのか、
それを聞いた秀吉は二度と帰ることができないというのはむしろ吉日であると言って取り合わなかった。
秀吉は光秀との一戦に賭けており、勝てば天下を取ることができるかもしれないので、
呪術に頼ってはいられないという思いもあるし、一日でも早く出発したかったんだろう。
実際この判断は後の秀吉に天下をもたらしたしね。
そしてついに12日の夜、雪津の富田に着いた。
約180kmの工程をわずか6日間で走り抜けたことになり、しかも、25000という大群の移動だ。
秀吉の数ある先行の一つにカウントされ、中国大返しとして今日に語り伝えられることとなったわけだ。
どうしてそんなに早く動けたのかしら?
一つは、既に述べたように、将兵たちに金品を配り、四季をこぶしたことが挙げられるが、もう一つ理由があった。
それは、秀吉が事前に山陽道を整備し、要所要所に、現在のマラソン大会の給水所にあたるようなものを作っていたことだ。
補給する場所を作ってたってこと?
実は、本能寺の辺がなければ、信長自身が碧中高松城近くまで来る予定だったんだ。
だから秀吉も信長が楽々と通れるようにと、事前に各所に接待所のようなものを用意していたようだ。
碧中高松から富田まで戻るときに、それをうまく使ったと考えられる。
なるほど。あらかじめ補給する場所があると、無駄な時間を減らすことができるものね。
よく、秀吉があんなに早く戻ってくるのはおかしい。
秀吉が本能寺の辺の黒幕ではないかと言われることがあるが、そんなことはない。
あくまで、信長のために作ったものを自分が利用しただけだったんだ。
光秀と違って、最初からの備えがバッチリだったわけね。
しかし中国大返しがなければ、秀吉が勝てたかどうかわからなかった。
事前に準備していたものをうまく活用し、さらに敷きをこぶするための決断をためらわなかった。
秀吉の天下取りにとって中国大返しは決定的な意味を持ったと言える。
そしてあらかじめ準備することが大事っていうのもよくわかる話ねー。
そこは現代の私たちでも生かさなきゃいけない部分だな。
それじゃあご視聴いただきありがとうございました。
