明子の6人の子供たち!藤原道長が見捨てた残酷すぎる最期とは?!【光る君へ】
源倫子より先に藤原道長と結婚していた源明子。
しかしながら正妻の座を倫子に奪われた明子・・・その影響は子供たちにも及びます。
藤原頼宗、藤原顕信、藤原能信、藤原寛子、藤原尊子、藤原長家。
生まれながら格差に悩み続けた彼ら6人の最期とは一体どのようなものだったのか?
大河ドラマ「光る君へ」では描かれなかった部分についても解説します。
苦難に満ちた生涯を力強く生き抜いた、源明子の子供たちの真実を一緒に振り返りましょう!
#大河ドラマ #光る君へ #紫式部
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友子よりも先に藤原道長と結婚 していながらも
制裁の座を奪われた源の秋子 今回はその秋子が生んだ6人の子供
たちの生涯について語っていきます あくまでも正式な妻であった秋子
だったのですが 制裁の友子と比べると明確に格差
がありました そしてその子供たちも同じく
生まれてからずっとその格差に 悩み続けます
秋子の後ろ盾だった女院秋子が 亡くなったことも後に影響して
いくのですが友子の子供たちは 摂政漢伯天皇の妻になっている
反面秋子の子供たちはどれだけ 活躍しても友子の子供たちの下に
置かれていました そんな生まれながらにして生涯
従うことを余儀なくされていた 彼らの一生はどんなものだった
のでしょうか 幼い頃から自身の立場を理解した
上で真っ当に生きたよりむね 993年当時28歳の秋子の長男として
藤原のよりむねが生まれました 藤原の道永の子としては秋子
息子より道に次ぐ3番目の子になります 父道永が本邸の土味方殿で制裁
の友子と共に秋子より道と暮ら している中よりむねは秋子と共に
高松殿で成長します 1001年よりむねが8歳の時に両院
秋子の40歳の祝いの会で9歳のより 道と共に舞を舞ったことがあり
ました おおさすが道永様のご子息である
よりみち様なんとも可愛らしい 舞であったな
ああお次はよりむね様の舞だそうだ ぞ
ほうよりむね様か これはなんと美しく儚い舞なの
だ8歳の子供が舞っているように は見えんぞまるで神の使いのよう
だ これは見事だ彼に舞を教えた
者は誰だ今すぐ褒美の準備を よりむねとよりみちは別の演目
で舞を披露したのですがよりむね の舞が優れており一条天皇を含
むその場の苦行たちは皆絶賛しました この時よりむねの舞の師匠は褒美
をもらったと言います こんなにみんなに称えてもらった
父上も私のことを目いっぱい褒 めてくれるはずだ
あ父上舞をご覧になられ 何ともくだらん席だ私は帰る
父上 道永はよりむねを褒めるどころか
秋子の子よりむねが讃えられる 状況に腹を立て部屋の中に戻って
行ったのです 私は青菜の子ではないからより
みち兄様より下にいなければいけない んだ
よりむねの子の幼い頃に覚えた 衝撃は自身の生涯のあり方を自覚
させてしまいました その後よりむねは時々不満をあらわ
にしながらも同母兄弟の中で一番 よりみちに従順になっていきます
千四年にはよりみちより一年遅 れて減復道永の子ということもあり
ましたがよりむねは特に優秀で 数々の昇進を遂げていきます
おうよりむね減復したそうだな どこからだ
はい十五位の上からになります そうか十五位の上か私は小五位
の下からであったのにな まあ俺はもうゴンのダイナゴン
昇進においてはその差はかなり つきましたさらには三歳年下の
よりみちが減復するとよりむね は早々に追い抜かれてしまいます
くっよりみちはもうゴンのダイナゴン になったのか
千十七年道永は摂政を辞任し程 なくして出家よりみちが後を継ぎ
摂政となりましたそんな中より むねは格差にも腐らず努力を続け
千十四年の二十一歳の時にはゴン の中ナゴンになり千二十一年の
二十八歳の時にはダジョウカン に烈死ゴンのダイナゴンに昇進
しましたさらには当時皇太子だった 厚永信濃後の後沢天皇に東宮大部
として使い始めます しかしこの時にはよりみちは
官博佐大臣のりみちは内大臣になって いました
千二十八年 父が亡くなったまだ実感がない
がいつまでもこうしてはおれん これからは今より頼りにさせて
もらうぞよりむね はいお任せください
道永が亡くなった頃にはよりむね はよりみちの信用を勝ち取り側近
の筆頭角になっていましたより むねは秋子からも信用されていた
ので藤原家の着難である兄天皇 の母である姉という二人の権力者
から信頼を得たことになります そうだよりむね次の歌合わせはいつ
になりそうだ みな楽しみにしておるらしい
ええこの仕事が終わればすぐに 準備しようと考えております
さすがよりむねだな 政治的地位を着々と積み上げた
よりむねは和歌が上手でしたより みち主催の歌合わせを半座として
仕切ったりよりみち政権でのより むねの存在は大きくなっていました
1043年には藤原の真之介が辞任した 無婚委の大将の職をよりみちが
自分の息子に与えますよりむね は自宅に引きこもって抗議の姿勢
をあらわにしますが対立までは いきませんでした
そんなよりむねは1047年54歳で内 大臣になり1060年には右大臣となり
ましたよりむねはあき子の子供 の中で唯一大臣の地位に上りました
格差に腐ることなく信頼を勝ち 取り続け晩年まで和歌の会で歌
を読み病に伏した後もあき子に 歌を送っていたよりむねは兄
や姉へ従う姿勢を崩さないまま 1065年72歳で兄姉に先立ちました
将来に絶望した秋信994年当時29歳 のあき子の次男道永の子では5番目
として生まれました秋信はある 事件がきっかけで若くして出家
してしまいますそれは1012年1月 当時秋信が18歳の時の話です
亡き藤原の小列家の着難藤原の 道政は以前より兄のよりむねと
親しい仲でした当時中野漢白家 の貞子が生んだ厚安信濃があき
子が生んだ厚平信濃に皇太子の 座を奪われますそこでおそらく
はあき子の配慮で道政は厚平信濃 の闘偶の助けに任じられていた
のです 私に厚平信濃に仕えろと
敵と言ってもいい相手だぞできる わけがない
道政はここで心が疲弊してしまった こともあり代理の女房に受訴の
言葉を投げかけたり問題行動を 起こし始めます一族の中で差を
つけられている部分は道政も同じ 境遇でありそれもあってよりむね
と親しくなったのかもしれません ちなみに後によりむねは小列家
の娘と結ばれていますそんな人間 関係の背景がある中の1011年末
この世は腐っている そうは思わんか
なんで私が ああ思うぞ
私もこんな世などと思う時が何回 あったか
誰がこんな腐った世を作っている というのか
ああ 確かにそうですね
道政と兄のよりむねが悪口を言う 場に同席した秋信だったのですが
この悪口は女房を通じて三条天皇 の耳にまで入ってしまいました
この一族の恥さらしが私の顔に 泥を塗るとは何たることだ
申し訳ございません父上 そして悪口事件の4日後に三条天皇
は秋信を出世コースであるクロード の塔へ招集にさせることを決定
しますが道長は クロードの塔など秋信にふさわしく
と言って秋信は昇進を辞退させ られてしまいました
翌月には秋信は突然出家し比叡山 に登ってしまいます
秋子は秋信の出家を正気を失う ほど悲しんだと言われています
一度の失敗で将来に絶望してしまった 秋信の親中には
制裁のことの格差があったから だと考えられています
秋信はその後仏道修行に励みます が
1027年には32歳で両親より先にこの 世を去っています
抗い続けた問題児吉信
995年当時30歳の秋子の産南道長 の子としては
6番目に生まれたのは藤原義信です 藤原義信は制裁とのことの格差
に対して反発心が強くなっていき ました
それは義信14歳の時秋子が第二 死
ことです
お前がこれなりか
おうそうだが
お前なんか気にいらねえんだよな
お前が何もできないって評判よく 聞くぞ
実際はどうなんだよ
そんな失礼なことをよくも
あ質問の答えになってねえぞ
一人でなんかできるのか
ああできるに決まっているだろ
おいこいつが一人で何かできる のか見てみたいからやれ
はっ
おいちょっとやめてくれ
義信は同席した藤原のこれなり を一方的に罵倒し従者に暴行を
加えさせました
この翌日にこれなりは義信から 受けた屈辱が理由で出家してしまう
事件にまでなりました
さらに応援の雪鷹が婦女暴行を 企て失敗した時救援を求められた
義信は従者を派遣します
義信様先ほどは従者を派遣して くださりありがとうございます
ああ面白そうだったからな退屈 してたんだ
まあ一人従者が死んじまったが
義信は被害者女性を拉致した挙句 女性の家で略奪を行いました
お前という者は何という事をした のだ
お前は自分が何をしたのかわか っておるのか
このたろけ者が
いやあれは
言い訳するなこの屋敷から出て いけ
道永もこの事件の時には弁明も 聞き入れず厳しく叱責していました
このように義信はたびたび事件 や乱闘騒ぎを起こしたり兄弟の
中でも暴力性は断トツでした
義信の根源には自分たちとは違い 優遇され続ける制裁の子寄り道
や乗り道に対する激しい憎しみ があったとされます
寄り道乗り道が優遇され出世して いく中
義信も兄たちと同様に1018年に 承認
1021年の26歳には根の大名言になり ました
俺と同じ時期に根の大名言になる なんて
義信のような弟をもって鼻が高い 分
お前が羨ましいよ
兄さん何を言っているのですか
今の俺があるのは兄さんがいた からこそですよ
寄り棟寄り2歳年下ながらも同時期 に根の大名言に出世した義信は
問題児でありながらスピード出世 を遂げています
しかし翌年の1022年
おいあいつだ行け捕えろ
なんだお前たち話せ
まさかお前らあの義信の従者だな
だったらどうしたお前今義信様 のことを呼び捨てにしたな
これは不敬だな覚悟しろよ
やめてくれ
土地関係の所有権をめぐり
義信の従者は
乗道の従者を拉致監禁し暴行事件 を起こしました
その後乗道の従者が事件の報復 に
義信の従者の家屋を破壊しています
義信からすれば乗道は1歳下になります が
この揉め事をきっかけに乗道は 義信のことを警戒するようになり
義信は言の大名言から出世が止ま ってしまうのでした
1036年道永次女藤原の清子の娘である 貞子内親王が妃として入っていた
御宿天皇が即位しました
貞子内親王が忠偶になると
頼道は幼女を受代させ忠偶とし 一定二項状態とします
この状態に頼宗などの秋子の子 らも含めて
ほとんどの苦行が頼道幼女側に つきますが
義信は貞子内親王支援を堂々と 表明
頼道らの存在によって孤立していく 貞子内親王とその御子貴人親王
を一人で支えていきます
1037年40歳の時には御宿天皇忠偶 貞子内親王に使える忠偶の大部
に就任しました
1045年御宿天皇は宝魚間近に道 長と智子の四女
義子との間に設けた御礼勢天皇 に上位しました
御礼勢天皇が即位そしてその時 皇太子になるのは
頼道様はしばらくすると高人信 能に娘を差し出すだろう
ここで娘を妃に差し出すことは できないな
おおい義信様が自身の養女を妃 に差し出したらしいぞ
なんだってあの人は皆の批判を 何とも思わんのか
義信は高人信能を皇太子に据える ために動き
さらには批判を恐れず自身の養 女を差し出し
頼道の妨害や圧力から全面的に 高人信能を守りました
義信は20年間一切正心がない中でも 諦めずに自身が置かれた理不尽な
運命に抗い続けます
高人信能を唯一の支援者として 支えた義信でしたが
70歳の時兄頼宗の死の6日後に 高人信能の即位を見ないまま
亡くなりました
しかし義信が亡くなった3年後には 高人信能が即位
これは170年ぶりとなる藤原氏を 外責に持たない天皇
御三上天皇の誕生となりました そして御三上天皇と義信の養女
の間に生まれた白河天皇が即位 白河天皇は義信に感謝し
尊敬を持って隠世を推し進めます
その後は義信が憎み続け 智子の子達によって作られた
摂関家の繁栄は壊されたのでした
道永の三女として大事にされた が格差に苦しんだ裕子
999年頃裕子は当時34歳の秋子の 長女道永の子としては8番目に
生まれました
同じ年には智子の三女となる武子 が生まれており裕子の方が出生
が早かったと言われています 裕子は同年に受大した11歳年上
の秋子5歳年上の道永の次女清子 に次ぐ道永の三女として扱われました
ほら裕子みんな裕子の着物着に 来てくれたのよ
うわみんな私のために本当ですか お母様
当たり前じゃないみんな成長した 裕子の姿を一目見たいって
1009年10歳の時には同時期に生まれた 竹子よりも先に行われた成人の
儀には数十人もの有力貴族が出席 しました
友子の娘ではないもののこの対 偶は道永の三女ということが影響
しています
しかし次第に友子のことは扱い が変わってきます
着物儀の翌年一条天皇による女医 の時
女子医の女王に除されたなんだか 実感ないけど恥じないように生き
ないと
おお竹子様は女子医の下に除された のか
さすがは道永様の娘様だな
まだ着物儀も行っていない竹子 様が私より上なんて
妃候補である上級貴族の娘たちは 実際に働くわけではないものの
名誉職として宮中の旅館のトップ に就くことが多くありました
ひろこも職には就いていたもの の最初からずっと竹子より下に
置かれていたのです
1017年これからよろしく頼むひろ こ
はいこちらこそよろしくお願いします
18歳の時後一条天皇の皇太子厚 明信王と結ばれます
しかし厚明信王は道永の圧力の 前に皇太子を辞退したのでひろ
ことの結婚時は皇太子の地位から は外れていました
ひろこは皇太子自体の大将に縁組 させられたように見る方も多く
いますがこの時よしこはまだ幼 かったため道永の家系で妃になれる
のはひろこだけでした
また道永自身もひろこを大事に 思っており道永政権に重要である
厚明信王の世話を秋子とひろこ に託しています
ひろこは幼くして亡くなった子 を含めると三難一条儲けておりました
が結婚8年目の26歳で亡くなって しまいます
昨年亡くなられたひろこ様に続き よしこ様もお亡くなりになられた
そうだ
これはあの藤原の秋光様の仕業 だ
秋光様の娘から奪うように厚明 信王と結婚したからだ
悪霊差婦だ
たたられているんだ
ひろこと厚明信王の結婚時には 既に左大臣藤原の秋光の娘信子
と結婚していましたが奪う形で ひろこは結婚しています
ひろこよしこが若くして亡くなって しまったことで悪霊差婦と呼ばれた
藤原の秋光のたたりだと恐れられ ました
逆境の中で幸せを掴んだ高子
1003年ごろ当時38歳の秋子の次女 道永の子としては10番目に生まれた
高子
1017年に14歳で成人した高子でした が姉のひろこよりも友子の娘との
格差は開いていました
まず高子は気先候補として予感 職に就くことがなかったのです
しかしその一方で1018年には4歳 年下の友子の娘よし子が亡い死
さらには友子の孫にあたる乗道 の娘成子が成人前の5歳で予感職
に就いていたのです
母上私は受害を考えられていなかった のですね
ごめんなさい辛い思いをさせて しまって
いいえ責めているのではありません よ
ただ誰かに話したかっただけなの です
1021年よし子は14歳で皇太子の 宇永信濃の妃になりますが高子
はその3年後の1024年21歳の時に ようやく源の諸久との結婚が決定
しました
5歳年下の源の諸久は村上天皇の 孫で姉高姫女王はより道の生妻
です
後孫とはいえ源の諸久は一般貴族 にあたります姉妹で唯一一般貴族
と結婚したのは高子だけになります
あらもう歩くのねさすが私の孫 ね
吉信も歩くの早かったのよ
やめてよお母様吉信兄様と似ている と言われるのはなんだかもやもや
するわ
あららこっちは可愛いお顔この子 は美人になるわよ
それはそうよだって私の子なんだから
高子秋子共にこの結婚には当初 不満だったと思われますが高子
は源の諸久との間に三難四丈を 設けました秋子も晩年は高子と
源の諸久の家で孫たちに囲まれ ながら暮らしたとされています
さらには夫の源の諸久はより旨 と共により道を支え大臣にまで
昇進し源氏ながらも石簡家一族 と評されるまで繁栄しました
お母様聞きましたか兄と同じく 大臣になることができました
聞いてるわおめでとう誇らしい わ
こうなれたのもまりそしてお父様 とお母様のおかげです私こそお礼
を言いたい
あなたが頑張ったからよまあでも どういたしまして
息子は二人とも大臣になり娘は 権力者となった頼道のりみちの
息子と結婚しています高子は天皇 の妃にこそなれなかったものの
石簡家の重要人物となった源の諸 久とその子供たちの中で暮らした
のでした
あき子の子の中で唯一幸遇された 末っ子の長家
千五年当時四十歳のあき子の四 男道永の子としては十一番目に
長家は生まれます
とも子あき子と道永の子の中では 千七年生まれのとも子の四女よし
子が末っ子になるのですが男子 では長家が末っ子になります
なんだ長家まだお前は歩けぬという のか私が教えてやろう
あらあらこんなにも可愛いのだから ずっとこのままでいいのにね
気持ちはわかるが長家の成長も また楽しみだ
長家は頼道とは十三歳年が離れて おり道永だけでなく頼道とも子
にも可愛がられて育ちます特に とも子の可愛がり用はすごく長家
を自分の養子にしてしまいました
父上長家の元復がもうすぐですが 長家は次五位の上からではなく
私と同じように正五位の下から でいいでしょうか
うう私もそうしたいのは山々な のだがなさすがにそれはできんだ
道永に留められはしたものの寄り 道は長家の昇進を提案したりして
いますとも子の異なった長家は 周囲からもとも子の子として扱
われ始めます
長家様私の娘をどうでしょうか 一度だけでも手紙のやりとりを
僕に言われても分かりません父や 母と
雪成は道永とのつながりを深める ために自身の娘向に長家を望み
長家は千十八年にわずか十三歳 で十一歳の雪成の娘と結婚して
いますしかし三年後の千二十一 年には雪成の娘が亡くなってしま
いました
長家様私の娘はいかがですかな 肌は白く美人と評判ですぞ
いやいや長家様女性は賢いのが 一番です私の娘と手紙から始めて
みませんか
ああえっと
次々に長家を娘向に望む声が上がり 最終的には忠信の娘と再婚する
ことになりました長家はこのように 他の秋子の子では見られない幸
遇を受けておりその待遇は友子 の子ならではのものでした
その後は忠信の娘とも私別して しまい一時的に再び友子と同居
します
これが父上の馬か毛並みが美しい な
あなんか長家の馬だけ多くねえか おいなんだそれ
吉信やめなさい場を考えろ
道永の死後道永の馬を分け合った 際同母の兄頼宗吉信より多く分け
られていましたつまり友子の 産卵として好善と扱われていた
のです他にも23歳で権野大名言 に就任しどの兄よりも早く昇進
しています秋子の子でありながら 友子の子として優遇され続け可愛
がられて生きてきたからか所々 でわがままな話がありますが寄り
道に従順な弟として長家は順調 に人生を歩んでいきます
また寄り道からも信頼されている 長家は忠偉大部を務めました
1060年寄り道が左大臣を辞任それに 応じてどり道頼宗が昇進します
内大臣の席が空いたことで長家 はここで昇進する可能性がありました
しかし内大臣は私の息子である 諸真に任せることにした
えなんだ長家何か問題があるか いえ何も
なんでたった18歳の諸真が内大臣 にそんな若造に何ができるという
のだ 寄り道の子諸真は長家吉信を飛
び越えて内大臣に就任し当時55歳 の長家は怒りのあまり車を焼き
払ったとされています 秋子の子でありながら格差を乗り
越えることができた長家も最終 的には智子の子との格差に打ち
死がれてしまいます 長家はこの4年後59歳で有利の
頼宗や吉信よりも先にこの世を 去ってしまいます
ただ長家は和歌をよくたしなみ 美濃砂流の一人者となります
美濃砂流は暇子の藤原の年なり その子佐代家の代では地位を確立
長家は華道の権威美濃砂流の祖 として後世で尊敬される形で名を
残しました 聖才のことの格差に
これが現実仕方ない 尉母家に従順に従う
として従い信頼を勝ち取った長男 の寄り胸
こんな人生なんて絶望的だもう ここでは俺は終わってるんだ
として出家した次男の秋信 もう決まっているなら尉母家
らを倒して帰るしかない として堂々と反発した三男の吉信
聖才の子でないならなればいい として智子の養子になる四男の
長家 そして兄弟だけでなく女子の裕子
や高子も格差に苦しみました このように高貴な執事ながらも
聖才とも子の下に置かれ続けた 秋子の人生は母同士だけではなく
子にまでも影響していました しかし各々の考えを持ってそれぞれ
の道を進んでいき人生を全うする 姿は勇敢にも見えます
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