独占配信中共幹部の文化財横領事実 【遠見快評2026.2.10】

遠見快評 Foresight Review Japan
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最近、中国国内のネット上で熱く議論されている、南京博物院管理責任者が関与したとされる文化財の盗難および不正売却事件は、長年にわたる文化財管理における深刻な問題を浮き彫りにしました。中共政権が誕生して以来、共産党の幹部たちは、ずっと恣意に中国の文化財を強奪し、私財として収蔵、販売してきました。
みなさん、こんにちは。
園見開票へようこそ。
私は東聖園です。
最近、中国国内のネット上で厚く議論されている
南京博物院管理責任者が関与したとされる
文化財の盗難及び不正売却事件は
長年にわたる文化財管理における
深刻な問題を浮き彫りにしました。
中共政権が誕生して以来
共産党の幹部たちは
ずっとシーに中国の文化財を強奪し
資材として収蔵・販売してきました。
今回、暴露された南京博物院文化財盗難事件は
以下の経緯により発覚しました。
近代中国の著名な絵画収集家である
方来新は生前、数多くの書が名品を収蔵していました。
1949年に方来新が政挙した後
その収蔵品は遺族によって相続されました。
しかし1958年の冬、方来新の夫人である
ガメイ党は中共政府から脅迫を受け
方来新の町村である高蔵和の名義で
その所蔵品137件、計268点の作品を
南京博物院に無償で寄贈したのでした。
これらはいずれも方来新が生前
莫大な資材を投じて
動乱の時代の中から救い出した
国宝級の名品ばかりでした。
寄贈といっても、実際は政府から脅迫されて
提供せざるを得なかったのであって
つまり政府に強奪されたのです。
提供させられた際に、方家は歓礼に従い
すべての作品について一件一件丁寧に目録化し
記録として保存したのでした。
このような計り知れない価値を持つ文化財を
提供したにもかかわらず、その見返りとして
方家が受け取ったのは
中共当局から授与された一枚の表彰状のみで
それには方家の愛国的行為が称えられていました。
1962年、南京博物院はさらに方家から
11点の文化財を収集という名目で受け取り
象徴的ともいえるわずかばかりの金額を支払いました。
続いて1963年には
南京博物院の収集担当者が再び方家を訪れ
絵画2点を一時的に借用する形で持ち去りましたが
それらは結局返却されることはありませんでした。
1988年、改革開放の時代に入り
中共当局が口頭では
法治の推進を掲げるようになったことを受け
方家はようやく勇気を出して
この2点の絵画の返還を求めることにしました。
そして正式に南京博物院を相手取って訴訟を起こしたのです。
しかし南京博物院側の説明は極めて横暴で
当時は借用ではなく収集したのであり
ただその際に代金を支払うのを失念していただけだ
というものでした。
民が官を訴える裁判において
裁判所が官側の主張を採用するのは言うまでもありません。
判決では南京博物院は当該金額を補償するよう命じられましたが
その算定基準は30年前の価格に
30年分のわずかな利息を加えたもので
最終的に方家に支払われた補償金は
合計で4万人民元に過ぎませんでした。
方家は個人の力では権力に抗うことはできない
という現実を十分に理解していたので
身の安全を最優先にし
これ以上問題を追求せず
ただ耐え忍ぶほかありませんでした。
そして時は流れ
2014年に南京博物院は
倉田家・宝来臣・虚細名画合璧展と題した
大規模な展覧会を開催しました。
この時、宝来臣の暇子にあたる方二齢が
方家を代表して招待され
この展覧会に出席しました。
祖先の業績が検証され
方家の名誉を高める機会になると期待していたのです。
しかしながら、方二齢は展覧会の図録の中に
方家一族として到底受け入れることのできない一文を
偶然目にします。
その文章はこの展覧会のキュレーターであり
南京博物院の副研究員でもある鳳凰が記したもので
次のように書かれていました。
宝来臣も自らの子孫が絵画を売って
生計を立てるほど没落するとは
想像していなかったであろう。
修造家の名門として知られる家系の後人である方家にとって
このような侮辱的ともとれる評価は
到底容認できるものではありませんでした。
しかも南京博物院が所蔵する
方家由来の文化財の大部分は
寄贈によるものなのに
方家の後人が不祥の子孫として祖業を損ない
絵画を売って生計を立てたという評価を背負うことは
いかなる意味でも受け入れがたいものでした。
そのため方家は訴状を提出し
南京博物院及び法王を相手取り
名誉権侵害を理由に提訴し
最終的に方家側が勝訴する結果となったのでした。
しかし勝訴によって問題が解決されたわけではなく
むしろそれをきっかけに
さらに重大な問題が浮上することになります。
その問題とは裁判の過程において
南京博物院が自らの主張に虚偽はない
つまり方家が実際に絵画を売却した事実があることを
示すための証拠を提出したことです。
南京博物院側は
明大の巨匠画家である
QAの最も著名な作品の一つである
広南春図鑑は
1990年代に
南京の芸覧祭にすでに売却されていたと主張したのです。
これにより
同作品が詩人に転売された事実があると証明しようとしたのです。
この主張を聞いた方辞令は
その場で言葉を失い
愕然としました。
この作品は
1959年に南京博物院へ寄贈された貴重な文化財のはずで
なぜそれがいつの間にか
詩人へ転売された証拠として提示されているのか
到底理解できなかったのです。
この出来事をきっかけに
方家の子孫たちは
寄贈した収蔵品の現状について
強い疑念を抱くようになりました。
それ以降
方家は何度も南京博物院に対し
寄贈した137件の文化財の現物の所在
及び状態を確認するよう書面で要請しましたが
南京博物院は長年にわたり
これに応じることなく
事実上取り合わない姿勢を取り続けました。
こうして
さらに10年もの歳月が経過しました。
そして2024年10月
我慢の限界に達した方辞令は
正式に南京博物院を提訴し
寄贈された文化財についての説明
告知義務を履行するよう求めました。
訴訟が知事として進まない中
2025年5月に起きたある出来事が
決定的なきっかけとなり
方家全員が
必ず真相を明らかにすると決意を固めたのでした。
方辞令は
北京家族
チャイナガーディアンのオークション会場で
QAの高難春図鑑が再び出品されているのを目にし
その最低落札価格は
実に8800万円という高額に設定されていたのでした。
しかもその作品には
法来審の所蔵員が明確に押されていて
これは1959年に
方家が南京博物院へ寄贈した
一服であることを裏付けるものでした。
事態の重大さを直感した方辞令は
直ちに国家文物局へ通報し
結果的にオークション会社は
この作品の出品を撤回せざるを得なくなりました。
この出来事は訴訟の進行を大きく加速させると同時に
南京博物院に対しても
強い圧力を与える結果となりました。
そのため裁判所の調停の下
南京博物院は2025年6月30日までに
寄贈品の現物確認を実施することに
同意せざるを得なくなったのです。
2025年6月28日
方辞令は南京博物院を訪れ
寄贈品の実地確認を行いました。
その結果、当初寄贈された137件の文化財のうち
少なくとも5件が確認できない状態にあることが判明しました。
確認できなかった作品は以下の通りです。
明大 旧栄 広南春図鑑
北僧 超高峰 相馬図軸
明大 往復 正風正日図軸
明大 大慈濱 奉北縁三水図軸
新大 唯墳 接触三水図軸
この問題に対し
南京博物院は2025年7月3日付けで
書面による説明を行いました。
それは、これら5点の収贈品は
1961年と1964年に
専門家グループによって乱作と鑑定され
収贈品リストから除外された上で
廃給という形で処理されたというものでした。
ここで言う廃給とは
実質的には低価格での処分
すなわち廉価で売却することを意味します。
では、これらの作品は誰に引き取られたのでしょうか。
その廃給先は
高訴訟文物争点であったとされています。
高訴訟文物争点は
その後さらにこの江南春図鑑を
転売しているのですが
一体誰に売却したのでしょうか。
残っている請求書によれば
2001年、この作品は
旧鋭筆に習う算水図鑑と名称を改められ
6800円という価格で
顧客とだけ記された人物に売却されています。
これは極めて不可解です。
現代の収蔵家で
骨董品鑑定家であるマミト氏の証言によれば
当時文化財の売買には
実名制が義務付けられていたといいます。
それにも関わらず
購入者が顧客としか記されていないのは不自然で
まさか偶然にも
生が子、名が客という人物だったのでしょうか。
さらに不可解なのは
当時の規定では
博物館の収蔵から除外されることが許される文化財は
文化財としての価値を持たない
現代の複製品に限られていました。
しかし当時公表された専門家の鑑定によると
この鑑作とされた江南春図鑑は
極めて成功で
加えてこの絵の上には
明代の書家陳流による題が書かれており
この題は新筆だと確認されています。
文化財業界ではよく知られていることですが
仮に百歩譲って絵画そのものが鑑作であったとしても
これほどの高い完成度と
陳流の新筆による書法が付随している以上
数千円程度の価格で取引されるはずがありません。
ここで極めて重大な疑問が生じます。
もし当初の専門家による鑑定が権威あるものであれば
なぜ鑑作とされ
6800円という低価格で処分された作品が
その後最低落札価格8800万円という
高額な司法へと変貌したのでしょうか。
さらに大きな疑問は
江南春図鑑については
現物が市場に出たことで問題が表面化し
新鑑をめぐる疑念が一気に噴出しましたが
残り4点の消えた作品は
一体どこへ行ったのか
誰にも分かっていないことです。
この点について南京博物院は現在に至るまで
明確な説明を行っていません。
結局のところ状況は曖昧なままで
真相は誰にも分からない状態です。
ではなぜここまで説明が曖昧なのでしょうか。
南京博物院が2025年12月17日に公表した状況説明によると
問題となっている5件は
これらの鑑定を行った専門家はいずれも
当時から広く権威として認められていた人物であることは確かです。
しかしながら問題は
その専門家たちはすでに全員亡くなっており
当時どのような過程や基準で鑑定が行われたのか
もはや誰にも検証できないという点にあります。
さらに言えば
いかに権威ある専門家であっても
鑑定に誤りが生じる可能性を完全に排除することはできません。
ましてやその背後に
専門的判断の範囲を超えた何らかの要因が
介在していた可能性についても
否定することはできないでしょう。
皆さん想像してみてください。
1960年代といえば
反右派運動の後
文化大革命の前という時代
知識人は極度に萎縮し
木の葉が一枚落ちる音にも
身の危険を感じるような社会的空気が支配していました。
そのような状況下で
もし組織から博物館のために協力してほしいと求められた場合
果たして何人の専門家が
拒否の意思をはっきりと示す勇気を持っていたのでしょうか。
実際のところこのような捜査は
湖南春図館だけに起きたことではありません。
明らかになっている資料によれば
同様に元作と鑑定された後
そのまま廃棄という名目で
高訴訟文物争点へ回された収蔵品は
合計で1259件にも上るとされているのです。
その中に本当に元作であったものがどれほど含まれていたのか
また実際には新作でありながら元作とされ
密かに転売されていったものがどれほどあったのかについては
もはや誰にもわからず明確に説明することもできません。
全体的に極めて不透明で混乱した状況であり
まさに生理不能な長期
完全な混乱状態にあると言わざるを得ないのです。
今回の事件への注目が次第に高まるにつれ
南京博物院をめぐるさまざまな不透明な実態が
複数のルートを通じて次々と明らかにされるようになりました。
文史学者であり厚労務の研究で知られている氷貴陽の回想によれば
1980年代に南京博物院の院長を務めていた陽泉は
かつて氷貴陽に対し深い苦悩を打ち明けたことがあったと言います。
それは多くの中共幹部が博物院から書画を釈要していくものの
そのほとんどは返却されることはなかったというものでした。
職責を担う立場にあった陽泉はやむを得ず
何度もそうした幹部の下を訪れ文化財の返還を求めましたが
いずれも成果を得ることはできませんでした。
そして最終的に待っていたのは問題の解決ではなく
陽泉自身に対する経済問題や生活態度の問題という名目での
規律違反調査でした。
しかし調査ではいかなる不正も見つかりませんでしたが
結局問題を提起した人物そのものを排除するという形で解決が図られ
陽泉は院長の職を解かれることとなったのでした。
深い無念と憤りを抱えた陽泉はその後
悲劇的にも自ら命を絶ってしまいました。
2025年12月21日
元南京博物院の修造担当職員の閣令展は職員証を手にし
実名により南京博物院の前院長ジョコヘイを告発しました。
提出した告発資料によればジョコヘイは在任中
大規模な監修辞党を行い
古旧博物院から南京に移転された数千点に及ぶ文化財を
違法に盗み出し売却していたとされています。
その手口は鑑定専門家と結託
あるいは彼らに指示を出し
本来は新作である大量の陶磁器や書画作品を
鑑作と鑑定させた上で
極めて低価格で廃給という名目の下
ジョコヘイ自身が管轄していた
高訴訟文物争点へ流すというものでした。
さらにそれらの文化財は同文物争点を経由して
ジョコヘイの息子である序章工へと
転売されていたとされています。
閣令典の告発によれば
序章工は上海に文化財オークション会社を開設しており
そこを通じてこれらの文化財を海外の業者や
国内の闇の文化財商人に直接販売し
莫大な利益を得ていたといいます。
また閣令典はジョコヘイが自己保身のために
複数の書画作品を各級の中共の幹部に贈与していたことも告発し
その中には
元高訴訟反汚職局長の関健林の名前も挙げられていたのです。
閣令典によれば
南京博物院の職員40名以上が
2008年以降
継続的にこれらの不正行為を告発してきましたが
ジョコヘイに買収されていた中共幹部があまりにも多かったため
長年にわたり
告発はことごとく握りつぶされ
何の進展もないまま終わってきたといいます。
今回、胞児霊が南京博物院を相手に提起した訴訟が
世論の大きな注目を集めたことで
ようやく告発の機運が高まったことを受け
閣令典は改めて実名での公開告発に踏み切ったと述べています。
皆さんもご覧の通り
南京博物院における監守児童の実態は
もはや公然の秘密です。
このような手口が数十年もの長きにわたり
露見することなく続けられてきた真の理由は
各級の中共幹部がみな
当然のごとく手を伸ばし
無償で文化財を受け取っていたという構造そのものにあるからです。
しかし、なぜそのようなことが可能だったのでしょうか。
それは、これが中共の体質的な慣行であり
毛沢東の時代からすでに常態化していて
しかも、最高層部から下へと同様の行為が行われてきたからにほかなりません。
実際に、1980年に中共中央及び国務院が発表した
文化大革命期間に散逸した貴重な文物及び図書を
改修することに関する規定によれば
中共の最高層幹部であった林平、孔正、孔正、陳伯達、謝福次らは
様々な名目を用いて没収された物資の中から
さらには文化財保管機関の収蔵品の中からも
大量の貴重な文化財や書籍を略奪し
私有化していたことが明らかにされています。
国家文物事業管理局の初歩的な調査によると
彼らは、北京市内の一箇所だけでも文化財8000点以上
古書3万冊以上を不正に入手していたとされています。
当該規定では、こうした風潮の影響の下で
一部の責任ある幹部、あるいはその親族は
貴重な文化財や図書を無断で持ち出したり
象徴的ともいえる極めて低い価格で購入したりしていた事実を
公に認めています。
他にも、職権を利用して文化財管理機関の収蔵品の中から
貴重な文化財や図書を廃給、あるいは買取という名目で
持ち去っていたことも記されているのです。
さらに、共産党中央老幹部局副局長を担当していた
陽銀録の改装録によれば、構成は
北京文物管理署から延べ94回にわたって
小美術品、書画、金製の腕時計など
計1087点、加えて戸籍4600冊以上を持ち出しています。
そして、これらの文化財に対して
構成が支払った金額の総額は、わずか20.64元だったとされています。
そのうち、宮廷用文房4方の増減成筆は
0.01元、牧場は0.02元だったと記録されています。
中でも、高い文化的素養を持つ人物と言われていた構成が
直接略取した書籍は34000冊以上に及び
そして、小美術品、書画、印象なども5500点以上に上り
その中には、曹代や元代、明代の紀行本が大量に含まれており
さらに周代の正道記も数多くあったとされています。
構成は、こうした重要文化財の多くを文物管理機関から
雷金を支払って購入するという形で入手していましたが
その支払額はいずれも象徴的なものに過ぎませんでした。
例えば、曹代に託本された管設計についてはわずか10元
また、皇帝権による老梅産鋭の新筆については
わずか5元しか支払っていないと記録されています。
毛沢東の時代が終わった後、1980年に国家文物局は
国家文化財の内部盗難をテーマとした内部展示を実施しました。
その結果まとめられた、いわば国家文物当主ランキングで
後世が第1位、陳伯達が第2位、後世が第3位、葉文源が第4位だったことが伝えられています。
中共の宣伝機関は、英仏連合軍がいかに延明園での文化財を略奪したかという話を持ち出して
国民の愛国感情を煽りますが、実際には海外に流出した文化財の大部分は
中共の幹部自身によって倒売されたものであり、その多くは権力の操作のもとで
各地の博物館から配給や貸し出し、あるいは著しく低い価格での売却という形で流出していったものです。
古旧博物院の研究員である高宝章が、中国人にほとんど知られていない歴史的事実を明らかにしたことがあります。
日本軍が中国へ進行した時、古旧の国宝は南方へ移送されましたが、
移されたのは生鮮された名品のみで、北京に残された各種収蔵品は依然として数百万点にも及び
まさに至るところに金銀がある状態でした。
ところが日本軍が北京を占領していた8年間、古旧は比較的秩序正しく管理されていて、
1942年には、それまで長年実現できていなかった古旧文物の大規模な総点検さえ完了していたとされているのです。
そして日本の敗戦後、国民政府が調査、点検を行った結果、古旧の文化財はほぼ完全な状態で保たれていたことが確認されたのでした。
なぜほぼなのかというと、詳細な点検の結果、ごく限られたものを日本軍が持ち去っていたからです。
具体的には、1944年、戦局が最終段階に入り、日本側の軍事物資が極度に不足する中で実施された
混同運動によって、古旧にあった大型の銅製品が挑発されたのでした。
その内訳は、大型の銅製の水亀66個、銅製の銅龍91機、銅製の大砲4門でした。
しかも、持ち去られた水亀はいずれも名分がないもので、これらの動機については、日本側はすべて正式に記録を残していたことも確認されています。
さらに、より感慨深い事実として、南京が陥落した際に、多くの古旧文物が日本軍の手に渡っていましたが、それらもすべて無事に保全されていたのです。
中でも、古旧関係者の間で、25砲と称される皇帝の御寺25個は、極めて重要な存在とされているものです。
日本軍が南京を占領していた期間中、これらの御寺が展示されていたことがありましたが、日本軍が撤退する際、この25砲は一つたりとも欠けることなく、完全な状態で南京に残されていたのです。
今日はここまでです。ご視聴いただきありがとうございます。
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次回の放送で、またお会いしましょう。
